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呼応  作者: 師走
19/40

19

屋根が折れて、そこから一人の男が落ちていった。彼は脊椎をやって、それからずっと、一生そのまま(つまりそのことがあってから三十数年間)車椅子か、ベッドの上で過ごした。彼は時折夜になるとうめきだす。そして布団をありたけの力でがばりと跳ね除けて、「全く!どうしてあんなことをしちまったんだろう?!」と叫ぶこともあった。


彼が死んだのち、家は孫である私が継ぐことになった。私の父は彼よりも早くに自殺していた。不思議なことだ。父は確かに不自由していたように見えたが、腰を砕いて身動きが取れないほど苦しんではいないようだった。つまり半身不随の男は寿命尽きるまで生きたのに、五体満足の父はさっさと命を絶ってしまった。もしかすると身軽だった故に、死ぬこともまた簡単だったのかもしれない。とにかくそうして家は私の手に入った。


私はその家を売り払ってしまおうと考えている。買い手さえ見つかれば、もうこの家とはおさらばだ。ただし現代では土地や家を持っていたって随分羨ましがられなくなっている。皆、既に自分の持ち場を用意していて、新たに家を欲しがろうとはしない。ということで、いつまで不動産屋で募集を掛けても一向連絡が入らない。土地の鑑定士の見立てによると、この家は「130万!」とのことだった。しかし買い手のない130万は有って無いに等しい。税金だけが吸い取られていく。それで値段を下落させて、今では30万円程度になっている。きっかり100万削れたわけだ。だが見向きされない。


鍵を差し込み、幾度もつっかえながらそれを捻り切り、重々しい音を鳴らして扉を引く。内側に長らくこもり切りになっていた腐った空気がゆっくり押し寄せてくる。それを意に介さず身を滑り込ませ、扉を閉める。出迎えに、故郷の匂いがする。この類の匂いは結局のところ、築数十年の古家に漂う個性豊かな埃の匂いだ。靴を玄関に脱ぎ散らして床を歩く。どうしてこの家の床はこれほど綺麗で滑らかなのだろう。湿ったような焦げ茶色の板張り廊下が細長く奥まで貫いてある。…家の主人は脚が利かなかったというのに。


薄暗い廊下を進みゆき、ある程度経ってそろそろだろうと自分でも思いだした頃に、ふっと明るんだ台所を見つけた。やや大きめの円をいくつもいくつも重ねながら彫りつけられた磨りガラスの窓が採光しているのだ。向こう側にぼちぼち草が伸びてきているらしく、薄緑色の線がぼんやり走っている。記憶の中では、かろうじて包丁やらまな板やら、菜箸やらお玉やらが傾いて置かれてあったのだが、それらは全て瑞々しく取り払われ、銀の食器入れも棚も何もかも空っぽだった。そしてそこにうっすら埃が白いうぶ毛を立てている。この家を個性的に特徴づけている張本人が。


窓のロックは赤黒く錆びていた。「¿」こんな形をしたロックだ。私はそれに人差し指と中指を添えて、力を込める。するとロックがほんの少し動く。粘っこい反発を受ける。息を止めて、ますます力を込める。足は若干爪先立ちになり、体重がかかり、唇は一文字に結ばれる。がたん、と突然それが下へ振り切れて解決する。やれやれ、と顔を赤くして窓を引く。これにも少し手間取ったが、どうやら最後には上手くいく。太陽光が本格的に部屋へ入り、風が吹く。あの薄緑の葉が、やっと鮮やかに揺れている。


ちなみにここ以外、家の窓はことごとく封鎖されている。針金がロックへ幾重にも巻きついてガチガチに固めていて、ぴくりとも動くはずがない。ただしどうしてだかこの窓だけはその憂き目に遭わなかった。私はしばらく茫然と風に当たる。懐かしいような、そうでもないような気がする。何とはなしに目を落として、無数に傷の入ったステンレス製のキッチンを見る。それから蛇口を捻ってみる。驚いたことに、それはぷしゅっと炭酸飲料の蓋を開けたような音を立てた。電気はまだ通っているのかもしれない。それから何秒かして、水がちょろちょろと震えながら少量こぼれ出て、そこで途切れた。ステンレスにその滴が当たって、ばらばら鳴った。


台所にいるのはそれくらいにして、私は廊下の最奥の突き当たり、右手には二階へ続く階段があるが、そこには魅力がないので、その反対の左側の部屋へ入った。その部屋は開かずの窓が一つきりあって、白壁が四方を囲んでいる。白と言っても、もちろん所々黄ばんでいたり、鉛筆で描かれたようにも見えるひびが入っていたりする。家具も何もない。ただの空間だ……。私はここで、かつて男が死んだのを見た。彼はなにぶん体を悪くしていたから、家族の助けが常に必要だった。とは言え家族は家族で自分たちの時間があるし、彼には彼で頑固なプライドを持ち合わせていたから、一日に二度、朝夕この部屋へ介護に来ればそれで充分であることになっていた。家族にその当番は交代で当たった。そしてあの日、偶然その当番は私であった。私と妹はまだ子供であったから、母はそれを庇って一週間に四、五日ほど自ら介護に出かけていた。(母は彼とすこぶる折り合いが悪かったから、これは大変な苦痛であったと思われる。)また、私と妹はほとんどの場合一緒に彼の世話にあたっていた。だから私一人きりである時に彼が死んでいたのは、まさしく偶然だった。


私は俯き加減に、いつもの癖で鼻を二度つまんでは離した。これを彼の前でやってはいけないよと、母にはきつく教えられていたから、私は部屋に入る前にそれを行うのだった。ただ、実は私は母に逆らって、どうしてもそれを彼の目の前でやってしまうことがあった。しかしそれを咎め、怒られたことはついになかった。コンコン、と戸をノックする。「おじいちゃん、来たよ」そう声を掛けたのに、返事がなかった。私はいくらか待って、またノックした。「おじいちゃん、入るよ、おじいちゃん」


眠っているのかな、と考えた。そういう日がこれまでないではなかった。ただしその時は妙な静けさ…、これをこそ予感というのだろうか、簡単に言えば「静か過ぎる」とは感じていた。私は眉をひそめてぐっとドアノブを押し、ゆっくり戸を開けた。向こうに本の詰まった棚が一つあり、その棚に隣り合わせになってベッドがあり、彼がそこへ寝ていた。普段と変わらなかった。私はそろそろとそこへ近づいた。彼が眼を開けているのが分かった。


「おじいちゃん…」

白っぽい顔に、かすれるような睫毛が反り返っている。確かに彼は眼を開けているのだ。しかし、その眼は果たしてどこを向いているのか全く掴めなかった。上を見ているのだろうけど、それはある一箇所を見ているのでなくて、まるで天井全体を視野へ収めているようだった。水気のない唇はかすかに開いていた。やっとそこで凄まじい異臭に気がついた。いつもの便のそれとは全く異なったものだった。私は反射的に掌で鼻を隠そうとし、また母の言いつけに従ってそれは寸前で止まった。私は一歩後ろに大きく下がって、彼の体によってできているシーツの膨れ具合を眺めた。「あ、これは」と思った。もはや確かめる必要もなかった。私はぎっくり腰になったかのようなおかしな姿勢で部屋を後にした。鼻がねじれそうだった。そうして家へ帰りだした。母や妹にこの情報を共有しようというのである。


私はひとしきり思い出を辿った後で、ため息をついてその部屋を出た。廊下は先ほどよりも明るく見えた。目が慣れたのだろう。そこから玄関へ戻るうちに、一度きり床が軋んだ。ぎい。という深い響きだった。靴を履くために、体を後ろへ向けた。また廊下が縦一本に通っているのを目にする。不動産屋に言わせると、こんな古い家なんかより、更地の方がまだ買われる望みがあるらしい。だから家を取り壊すことを勧める、と。だが私はまだそこへ踏み込めないでいる。なにしろ内心ここが買われるなんてことはなかろうと考えているからだ。家を壊そうが、壊すまいが。家の取り壊しにはまた金が掛かる。だからしない。…けれど、それは建前ではないか、と自分で思ってしまうこともある。本音が別に存在するんじゃないか?……と、そういう取り留めのないことを思いつくのは、もちろんいつもではない、それは例えば今のような瞬間にだ。


鍵を忘れることなくしっかり掛けて、私は自分の家へ帰る。ここからほど近いところにある小さな貸家だ。距離にして2キロもないだろうに、事実そことこことでは空間に断層ができているみたいに、「意義として」無限の隔たりがある。この家はまだ私が所有しているのだから、理論的に考えれば、貸家よりもここに居ついた方がよっぽど経済的だ。だが妻はそれにひどく反対する。私もここで住むのは違うと思う。


2キロをあっという間に終えて、チャイムを鳴らす。ややあって、はたはたと足音が聞こえ、鍵が内側から開かれ、扉も開けられる。妻は軽く腕組みをして首を横へ傾け「どこへ行ってたの」と聞く。妻は私の出勤時間もしっかり把握しているから、私的な外出をすると必ずこう尋ねてくる。私を監視でもしているつもりらしい。だから私は「じいさんの家」と答えた。妻は「あそこね」と捨てるように言った。それで会話は終わった。


自室に入り、ズボンにしまっていた上着の端をなんとなく引き出しつつ電灯をつける。それから机に広げてうつ伏せている村上春樹の短編集を黙って読み始める。彼の本を読むのは、そうした方が他の媒体…テレビやスマホを眺めるよりも、より有効で知識人らしく思われるからだ。村上春樹の本を読む人は皆、そういう意図を持っている。奇妙なことには、私は一度これを読み始めると、それだけの理由のために、延々ひたすらに文字を追い、ページをめくり続ける。しかしその理由にしても、ただ一言の説明にて完結する。つまり、他にすることが存在しないのだ。

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