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呼応  作者: 師走
18/40

18

もうだいぶん昔の、とある天気の良い日にそれは起こった。

××

勇が、私のところへ息せききってやって来て、「とうとう種を見つけたぞ」と目をいっぱいに見開いて呟くように叫び、土気色に汚れた麻袋を掲げた。


縁側で左肘を枕にぽかぽか日なたに当たっていた私も、それを聞くと両足を振り上げ起き上がって、「なに、それは本当か?」と早口に聞いた。


「本当だとも。俺は嘘つかない」

そう言って勇は袋の中を見せてくれた。こいつが時々嘘をつくのを私は知っているが、それは置いておいて、確かに中には茶色いごろっとした種が一つ入っていた。


「やったじゃないか、おい」

先ほどまで耳の裏に聞こえていた庭園の小川の流れも消え失せるほど興奮していた。しかもなかなか大きな種ではないか。これは期待できるぞ、高く高く伸びることを。


「今から早速埋めてやるんだ」

勇は得意げであった。もうこの種が育つことは確約されたと言わんばかりに胸を張っていた。しかし勇がそう思うのも無理はない、なぜならば彼の額は汗の滴でいっぱいに光っている。骨の髄にまで、これまでの種探しに費やされた時間が浸透しているように見える。


「だが、ちょっと待ちたまえよ君」

私はそこで、友人として、猪突猛進たる勇を押し留めなければならなかった。勇ははやる気持ちを抑えて、実に親友である私にこれを見せびらかし、自慢し、また言外に協力を要請しているのだ。私は部外者として、彼よりまだ冷静にコトが判断ができるから、適切な助言をしてやれるはずだった。


「なんだ?」

「今は真っ昼間じゃないか。こんな時分に種まきなんぞやって、芽が出なかったら笑うことすらできんよ。いいかい、種を埋めるのはね、昔から早朝であるべきと決まってるんだ。まだ薄暗く、肌寒い時間にね、さっと埋めて、水をやるのがよろしい。今では土の中も熱かろうし、種が死ぬかもしれないぞ」

眉をひそめ、訝しげな表情で勇は聞いていたが、「種が死ぬかもしれないぞ」という言葉を聞くと、さっと目をひん剥いた。


「ばかやろう!縁起でもないことを言って!」

唾が飛んできたので、私は顔を背けながら「当たり前のことじゃないか」と言い返した。


家の内側から、汚れ曇ったガラスを隔てて、猫のタロちゃんが両足を行儀よく揃えてこちらを見ていた。私はタロちゃんに、「私も苦労するだろう。なあ?」という微笑みを捧げた。


よほど勇は平静さを失っていたが、こいつだって父親が広大な畑をやっている。種まきをいつすべきか知らないはずがない。眠い目をこすって手伝わされたことも一度や二度ではないはずだ。

ぶるぶる怒りで体を打ち震わせつつも、あれこれ思いつく限りに考えるうちに、やっと視線を泳がせ「そうか。確かに言われてみれば、そういうものかもしれないな」と言った。


「そういうものさ」

私はあくびを噛み殺しつつ言った。喉の奥が拡がって、涙が染み出た。


「いやしかし、明日か………」

ぼんやりとした口調だった。

またそれでいて、苦々しげでもあった。


「嫌かい?」

「‥うん、これは俺のわがままでしかないんだけど、ちょっと待てそうもないな」

「そうか」


勇の顔を盗み見る。いつものとぼけた目鼻の配置がぎゅっと縮まり、気難しげな男になっている。

あんまり深刻にならない方がかえって上手く行きそうだと思ったが、言っても無駄なことだから言わないでおく。


「夕方、では駄目だろうか。今日の」

「夕方ねぇ」


私は常に勇と一歩離れた位置からこの問題を一緒に考えてやろうという気になっている。私まで深刻になる必要はないし、そもそもどれだけ頑張ったってここまで物憂げにはなれないだろう。

勇の体の向こうにある、庭を仕切るフェンス。その隙間に、近所に住んでいる老婆が乳母車のような荷物置きを押して歩いている。渋い紫色の服に、どっかり腰を据えた桃色の薔薇の柄が見て取れる。


「うん、いいんじゃないかな」

勇は私の了承をずっと待っているようだったから、とうとう根負けするように言った。

「それでも、まあ、今やるよりうんとマシだろう」


「そうだろうな」

やっと勇は小さく笑った。そしてすんっ、と息を吸い、私から離れて空を見上げた。

黒い髪の脂ぎったところへ、太陽が照りつけている。勇の影は身長よりも随分短かった。


「…なにしろ、今はこんなにも暑い!」

××

夕方にも、やっぱり私は駆り出されて、「見ているだけでいいから」と言うので、手頃な切り株に座り込んで、勇の手際を眺めていた。


しかし勇はとっくに仕事を終えていた。水はけがとびきり上等で、光を遮るものもなく、また誰かにほじくり返されたりしない位置を吟味して、それからはあっという間だった。

種を埋めた場所は周りよりも一段と土の色が黒い。勇は持ってきた大仰なジョウロの半分も水を与えて、そこらを一時的に水溜りにしてしまってから、残りの水はしょうがないから周囲の何もないところへ撒き散らしていた。


「あんまりゆっくりしていたら日が暮れるぞ」

私が声をかけると、勇はぶすっとした顔で頷いた。心配で心配でたまらないのである。


『これは勇の大事な種です。絶対に掘らないで下さい』

白い名札にはびっしりした細かい文字でそう書かれた。もっとも、後半部分はあらかた土の中に埋もれてしまった。


あたりが一層暗くなる。私もそろそろ腹が減ってくる。用件は告げてあるが、今頃母は夜ご飯を一人きりで食べながら、遅いなあと考えているに違いない。


勇はあちこちを行き来し、地面を精一杯足で踏み固めてしまってもまだ飽き足らず、何か細やかな雑草でも見つけて腰をかがめ、それを手で引き抜いて投げ捨てたりしていた。


「なあ」

「じゃ、帰っててくれないか!!」


私が何か言うのを遮って叫んだ。

だったら最初から呼んでくれるなよ、と苦笑しつつ立ち上がる。


青黒く闇めいた畑がぐるっと囲んでいる。離れたところで柿の木が真っ黒に枝を広げ、その下には大根の陰がやっとのことで把握できた。


はるか遠くに勇の家が見える。窓から黄色い光が漏れている。

ほら、お前の帰りも待たれているんだぞ。


勇は名札の前に膝を折ってしゃがみ込んでいた。その様子はまるで奇妙に突き出た一つの岩に見えた。


「君もぼちぼち切り上げることだよ」

そう言い残して、足元を確かめつつ、一歩一歩帰りだした。柔らかい土が足裏をつかまえて重かった。ここの畑を抜けるのだけでも大変だろう。私はしかも、そこからちょっと離れた自分の家にまで行かなければならないのだ。


おう、という返事が、遅れてかすかに聞こえた。

そうか、君は私の言ったことに一応合意したわけだね、と私は思った。

するとつまり、今日も勇は嘘をついたのだ。

××

予想に違わず、勇はその持ち場を頑固に守った。

誰がなんと言おうと、ほとんど離れずに、その種が芽吹くのを待っていた。

されど、一日経ち、二日経ち、七日経っても、ついに新芽は出てこなかった。


勇はそれでも「時間が必要なんだ」と無理に自分で納得して、水をたらふくやっていた。私の父は、こっそりと「手を掛けすぎて根腐れしたんじゃないのかな」と囁いた。それを私は「まず根が出ていたかどうか」と返した。


十日経ち、二十日経ち、一ヶ月を超えても芽は出なかった。私は勇の機嫌がだんだんと悪くなるのを恐れて、話しかけもしなかった。私の助言のせいにされて殴られてはかなわない。

勇は結局、二ヶ月としないうちに種を掘り起こしてみた。しかしどれほどスコップを突き刺しても、後から後から土塊が出てくるばかりで、それは一向どこへ行ったやら分からなかった。

××

それでも勇はまだ……、実のところ、今でさえ種を探している。

もうおよしよ、と誰が言おうと、お構いなしに探し続けている。

ごくたまにそれらしいものを見つけると、いつも嬉しそうに私に見せつける。

そして植え付け、毎度しくじる。懲りないものだ。

しかしあれだけ根気強くしていられるのは、至極立派でもある。

私は怠惰だからそうはできない。キミコーーというのはタロちゃんの娘であるがーーの頭をしきりに撫でながら同じような一日一日を繰り返している。きっと大抵の人間はそうだ。


だが勇は種を探している。いずれ巨大な実を結んでくれる種を。


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