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呼応  作者: 師走
16/40

16

…ずいぶん、遠くまで来てしまった。


色とりどりの誘惑にうつつを抜かして、あらゆるものを珍しがって

右を見、左を見ながら歩いていたからこのざまだ。

陽が落ちて、世界全体が青暗く、まるで海へ沈んだように変化しだした頃、私はようやく酔いから醒めた。

今までのありとあらゆるものがみんな、暗がりの中に取り込まれるだけで失われる存在だということに、やっと気がついた。


急に不安に陥ってきて、喉が詰まる。

外の空気がーー先ほどまでどうして分からなかったのかーー二の腕を粟立てるほど寒々としていた。

道の両脇に建つ家々は、ただの黒塗りの障害にまで還元されていて、あれほど輝いていたガラス戸は、今ではどこにあるのか判別がつかない。

電柱の陰が斬り込むように道路へ倒れている。その電線と言えば、ああ、これだ、やはり途切れなく続いている。

あれだけ鮮やかだった野花でさえ黒くおぞましげにつるを伸ばして、香りだけは微かに、あの妖艶な甘さを残している。


私は顔をゆがめながら、初めて後ろを振り返った。


荒涼とした二車線道路が、膨らむようにこちらへ迫っていて、向こうの景色はちぎれて見ることができなかった。

緩やかな登り坂だったのである。

私はひたすら平地を辿って来たふうに考えていたので、これには驚かされた。

ふくらはぎの張り方は最初から少しも変わっていない。とすれば、むしろこれまでずっと上るばかりで、平らな場所など、全く存在しなかったのではないか。


そこまで知ってからまた前を見直すと、確かに、それは少しずつ少しずつ上っていく坂道であるようにも感じられた。

だが、闇深い今では、上り至る先の風景も、やはり不明瞭極まりなかった。

果たして、私はどこへ向かっていたのだろう。


来た場所も、行く場所も、ともにわからなくなって混乱する。

右足は進むべき前方を向き、しかし左足はじりじり後ろへねじれた。

海の色をした世界は、どんどん深みを増していく。

そして私は、とうとう我慢できずに、左足に従うことを決めたのだ。


とにかく、この一本の道をずっと来たのだ。途中で曲がったりはしなかったし、分岐もなかった。だからこそ気楽に進み過ぎたと言えるが、それはつまり、ここを何も考えずまっすぐ戻れば、帰ることができるに違いないということだ。


そうと分かれば、もう迷うことはない。

私は、高鳴る心臓に速さを合わせるように、早足になって帰り始めた。


体がほんの少し前のめりになって、足裏で地面を蹴りつけていく。

なるほど、これこそ下り坂の特徴である。

私が進むのと同時に、周囲の世界は後退する。電柱が私の後ろに引っ張られていって、遠くから次の電柱が姿を現す。


行きしに眺めていたあの風景は、どこへいってしまったのか。

頭の中が火傷するほど、情報量が豊富に溢れていた街から、ただの空間へと変貌を遂げ、既視感のある物体さえ見受けられなかった。

無理をして探せば、ある家の屋根の上でバタついている風見鶏と、別の家の玄関隣に置かれてある犬小屋、この二つは記憶にあるようにも思われる。


脚の回転が徐々に早まる。

どうしようもなく増していく下りの勢いに対して、抵抗することもできるだろうが、私の中に巣食う恐怖心は、むしろそれを後押しした。


ゆっくり帰ったって、印象に刻みつくものはあるまい。

どうにせよ、この街は無機質に落ちぶれた。

いや、そもそも無機質であったものを、華やかに着飾って私を騙していただけかもしれない。

ともかく、化けの皮が剥がれた以上、私はここに一刻も居とどまる必要を感じなくなったのだ。


ふっふっふっふっ、と空気を吐く。

喉の道がチクリとして、辛い唾が舌を刺激する。

空には星も見えなかった。しかしながら、まだ藍色の、太陽の残りかすのような光は途絶えておらず、完全に真っ黒に塗りつぶされてはいない。


ぽつ、と、向こうで橙色の電灯光が点いた。

四角く枠が囲っていることから察するに、あれは窓辺の明かりだ。

誰かが家の暗いのを嫌がって、スイッチを押したらしい。確かに、ぼちぼちそういう時間だ。


私はその明かりをトンネルの出口のように見やって、吸い込まれるように、ごく自然にその家へ足を進めた。

ごま粒ほどのその明かりが、少しずつ大きくなっていくのを焦ったいように感じながら、それでも傾斜によって定められた速さを無理に変更させることはせずに、同じリズムで走る。


そしてついに、その目の前へたどり着いた。

橙の光は、ここまで来ると放射状に窓からこぼれ出ていて、息を荒げている私の顔へも、はっきりと照らしつけているのだった。


私は迷うことなく、窓へ顔をつけんばかりに近づけて、部屋の中をのぞいた。


…部屋は、小さな冷蔵庫と机と椅子があるきりで、非常に簡潔だった。

冷蔵庫が放っているらしい、小刻みに震えるような重低音が、微かに聴こえてきた。

机の横には、見慣れた誰かが立っている。


椅子に座ればいいものを、その人ははっきりと拒絶していた。

とは言え、机の下に収容できるはずの椅子が、ちょうど人が座れるほどの隙間だけ引き出されているのを見るに、きっと椅子に座るつもりではあったのだ。

ただ、それを中断してしまっただけで。


もしかすると、始めには座っていたものを電気を点けるためにわざわざ立ち上がり、そして座り直す気が失せたのかもしれない。

ともかくその人は、明かりをつけた張本人であろうから、まだ真っ暗であった部屋に独り立ち入って、幾ばくかの時間を過ごしていたのだ、きっと。


その人は机に左掌を載せて、体を支える一助にしていた。

向こうを向いて立っていて、ここからでは後ろ姿しか認知しえない。が、私はその人を知ってはいる。


その人はそこから全く動き出そうとしなかった。

私もここでずっと固まっていると、双方は完全に静止したまま、あまりに長い時間を過ごすように思われた。

それで、私は即座に顔を窓から離し、気づかれないように空咳をして、またゆっくりと帰り道を行きだした。

目線も外すその刹那、部屋の明かりが一瞬おぼつかなく点滅したように見えた。


そのようにして、私は明かりを見つめていたので、暗い道路に眼を戻すと、先ほどにもまして暗く、そこは常闇に見えた。


あたりは一寸も判定できず、黒々した靄にまるっきり抱きこまれたようだった。

いつしか道を外すのではないかと慄いて、なるべく道路の真ん中を走るように心がけた。しかし事実、どこが道の真ん中なのやら、白い車線でさえ分からなかった。


一度停止したせいで、勢いはいったん殺されたが、今はまた素直にも盛り返してきて、私は訳もわからず走らされる。

足で踏みしめる感触がなければ、ここが地面の上であるとさえ気がつけまい。


速さはどんどん増していって、私はこけないようにバランスをとり続けることで精一杯だった。

両腕もバタバタともがき回しながら、半狂乱になって走っていた。


いきなり家々へ突っ込んだり、そうでなくてもフェンスにぶつかったりといった事故が起きないことによってのみ、私はこれでも道を大概外さずに来れているのではないかと思い込むことができた。


服が風を切ってはためく音がうるさい。つま先に一瞬一瞬激しい衝撃が走り、膝も打たれたように軋む。

冷風が目に飛び込んできて、涙がにじんだ。

その時、ギィコ。という音が背中のすぐ後ろから響いた。


はっとして止まる。

右足をばたん!と道路へ叩きつけて、慣性で体が吹っ飛びそうになるのを、続けざまに左足を差し入れることでなんとか防いだ。

汗ばんだ体中に痛みが駆け巡り、苦悶の表情で唇を噛む。


ギィコ。

……ギィコ。


やはり聞き間違いではなかった。

私は後ろを振り返ろうとしたが、その時にそれはもう私を追い抜こうとしていたので、代わりにギュッと肩をすぼめた。


オンボロの自転車を、見慣れた父が漕いでいた。

ペダルを踏み込むたびに、そのいびつな音が鳴るらしかった。

煤けた革コートに身を包んだ体を隔てて、白いライトが弱々しげに左右に揺れていた。


ギィコ、ギィコ、と、その音は遠ざかっていって、やがて聴こえなくなった。

ライトの明かりも、じきに消えた。


私はしばらく微動だにせず肩をすぼめたままの状態でいたが、時間が経つうちにゆっくりと脱力すると、今度は慎重に、ことさら慎重に歩き始めた。


うつむき加減に、足元に広がる闇を見やる。

どこまでも没落しているようでもあったし、どこまでも上昇しているふうでもあった。

しかし、足は確実に地面を捉え、浮かびも沈みもせずに進んでいる。


私はここへきて、自分がどこへ「帰ろうと」しているかについて疑問を持ち始めていた。

帰らなければいけない、という自念にせっつかれて、ひたすら逆戻りしてきたのだが、私はどこかへ収まることができるだろうか?今さら。


目的地へ向かうことも難しいが、私がやって来た、その最初の場所を探すのは、もしかするとなお難しいかもしれない。私がただ出発をした地点に、大した意義はなさそうだ。意義のない場所へこだわっていて、ちゃんとたどり着けるものだろうか?


こうなれば、帰る、という考えを起こしたこと自体が過ちであったかもしれなかった。

帰れはしないのだ。戻ることはできても、私に帰る場所ははなから存在していなかった。


それでも、今の私には帰ることを志望するしか選択肢がないのも、また真実であった。

これだけの暗がりの中、もう一度引き返すわけにもいくまい。

ひたすらに、一縷もないほどの希望に、それでもその希望に賭けて、戻るしかない。


いつしか斜め上方に、水晶がキラキラ輝いているような細やかな光が集まっていた。

私は考えにふけりながら、自分でもそれとは知らず、その光へ見入っていた。


その光が一体何のものであるのか、しばらくしてやっと分かった。

……それは小さな灯台だった。

闇の中で、灯台の根本の部分は覆い隠され、最上部の一端だけが、砂のこぼれるような光を撒いていたのだ。


また、灯台のその一室には、三人の人が立っていた。

左側には、私の見慣れた母が立ち、右側には見慣れた父が立ち、その二人にぴったり挟まれて見慣れた誰かが立っている。

彼らは総じてこちらに背を向け、語り合うこともせず、黙って向こうを見つめている。


私はそれをほんの数秒、何も考えずに眺めていた。

しかしその次には、言いようのない、怒りや憎悪や、悲しみ、そういった激情が、胸を張り裂いて飛び出してくるように感じられた。


私はもはやその光景を見ることができずに、目をつぶって駆けだした。

ここへ来て初めて、下り坂に頼らない、自分よがりの、非効率で荒っぽい走り方をした。

歯をぎりりと噛み合わせて、叫びだしたくなるのをこらえて、ひた走りに走った。


そのうちに唇が震えてきて、どうにも止まらなくなった。

眉がひそまり、ついに嗚咽が漏れた。

私は涙を出さずに泣きながら、止まろうともせず走っていた。


それから、これまでのように暗闇が永久に続くのならば、もう自分はずっとずっと逃げ続けてやろうという気になっていた。

誰から逃げようというのか、それは浮かんでこなかった。

だが、この自分の内や外を占めている燃えるような気持ちは、そうでもしなければ消えそうもなかった。


そうした決意をして、力の限り脚を振り振り行っていた私は、闇めく世界全体を、もはや自分の根城のように親しみをもって感じた。

こいつがいてくれるなら、ーー私は、逃げ続けることもきっとできよう。


しかしその淡い願いでさえ、直後に無残にも打ち砕かれた。

目の前に現れた壁に気がついて、私は自ら再び立ち止まるしかなかったのだ。


くそっ!と、私は反射的に言い捨てたほどだった。

けれども、その壁の正体が、父の背中であることを知ると、その悔しさも引き込んでしまった。


…………、すぐ目の前に、父が立っている。私に背を向けて。


私は口を押さえて、一瞬のうちに様々な思案をした。しかしどれもこれも結局のところ、父の前へ回り込む覚悟を決める準備期間を提供する道具に過ぎなかった。


私はもうすべきことが分かっているのに、それでもまだ決めかねるというように暗闇の中で左を見たり下を向いたりした。

ふーう、と何度も息をついた。ぽんぽん、と胸を叩いた。


そして父に対して足を踏み出そうとしたが、片足立ちになったまま、そこでもしばし悩んだ。

いわく、もしも逃げるのならば、父の前を逃げるべきか、このまま引き返して父の後ろを逃げるべきかーーー。


どうも、父の前に行くしかないのだった。

私は泣くように苦笑いした。

そうして、ついに重りのついた脚を伸ばし、体を引き寄せて、数歩進んだ。


それから、思いついたようにじわりと振り返った。

暗さによって、父の顔は見づらかったが、いかにもそれは見慣れた父の顔のように思えた。


私は父へ近寄って、鼻の位置や目線の方向を確かめた。

すると、父はまっすぐ、ずっとまっすぐ前方を見守っていることが分かった。

小さな鼻息が、私にかかった。


私は満たされたみたいに、ふと体を離して、とぼとぼ前を進んだ。

すると、ややあって、そばに母が、私に背を向けて立ち尽くしているのを知った。


私は先ほどの件で少し心がほぐれたように感じていたので、今度はそう滞りなく、葛藤なく、躊躇をあまりせずして、母のすぐ前へ回り込むことができた。


母は、やっぱり見慣れた母の格好でそこにいた。

無表情に、しっかりと前方遥かを見ていた。

私はぎこちなく微笑んで、母の目線に自分の顔が来るように身を少しかがめた。

こうすれば、今、母の視界の中には、私がいっぱいに詰まっているだろうと思って。

そして、おずおず母を抱きしめた。下垂体で突き出た下腹を私の腹で押し返すようにして、背中へ腕を回した。

どくん、どくんと心音が重なった。


そのようにしていくらか時間が過ぎてのち、私はそっと体を離した。

そして自らを納得させるように二、三度頷いて、名残惜しさに繰り返し振り返りながら、それでも前へとまた進んだ。


そうしてまた少し間が空いて、私は誰かが私に背を向けて立っているのに気づいた。

その人のことをじっと見る。

短く刈り込んだ髪が、尖って方々に飛び出ている。

腕はだらりと下げられているが、右手はほんのわずかに握られていた。


私は、やにわにまたあの恨めしい気持ちが湧き上がってきて、思わず引っ叩いてやろうとした。

しかしその時に発見した理屈によって、私はそれを思いとどまった。


私は驚いて、口を開け、また閉じた。

それから握り拳を下げ、目を泳がせながら長らく考察した。


既に出ている結論を、なんとか覆そうと反証を探したが、一向に当たらなかった。

私はとうとうそれを諦めて、クシュっと笑った。


「なるほど、私は……つまり、羨ましかったんだな。」


そして、なるべく親しげに、努めて恐れを表に出さないように留意しながら、誰かの肩へ手を置き、前へ回り込んだ。


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