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この頃何をする気にもなれない
外をぼんやり歩くのさえ憚られる
しかしここらは流石に観光地、よその県からやってくる車やバイクどもは
そんな私の憂鬱をよそ目にひっきりなしに通り交う
うかうか窓でも開けようものなら、どっとガスやタバコの煙やらが紛れ込んできて
部屋中を満たしてしまって、逃れる場所といえばもうトイレの小部屋くらいしかないように思われるから、窓だって閉め切ってある
私はここ2年の間に、自分がいかにも蜘蛛を好いていることを自覚して
それらが虫を食ったり巣を直したりしているのをひたすら見続けている
次第に両方の足の裏が鬱血して痺れてくる、そのくらいは見てある
お陰で蜘蛛も私の生活領域へ近づいてきて、家の中にはざっと三匹のそれが暮らしている
しかし今朝はひょっと外へ出た
とは言え一日に何度かは外を歩くものだ、これは別段珍しいことではない
なにしろ私だって生きているようだ、食べ物が減っていく
すると昨日の土砂降りの雨が路面に染み渡って、それがじわじわと空気を浸食し、うっすらと靄がかっている
空は全くの青空である
真上の青色は、一番深みを帯びた色をしている
まさしく地球は球体なのだろうと思う
そこへ、朝日がはっと差し込んでいる
何本もの金の柱が空から降ってきて、地面を突き刺しているようじゃないか
あたりは成熟した稲を思わせる眩さであふれていた
立ち並ぶ槇の枝でもそれを遮るのは難しいというように
その細く尖った陰影の他は、空気でさえ色めき立っていた
階段を上り、そばの寺社を眺めると、私の胸は膨らむよう思われた
見よ、檜皮葺きの屋根は水気を含んで
今でさえ絶えず水蒸気をちらちらと吐き出している
その湯気は小さな雲となって屋根を遡上し、宙へ浮かび上がって消えている
また、あまりに溜まった水は滴となって屋根の端から土へ垂れ落ちている
一瞬一瞬、それらが鋭く光っている
耳には道場から響いてくる坊主の経を唱える合唱が節々に聞こえる
あの大声が、離れた所から黎明とした朝を揺らせている
ここの寺社の坊主は、朝の勤行は終えているのだろう、寺の扉を解放したり、勝手に使われぬよう鎖で縛ってある鐘の突き木をちゃりちゃり云わせながら動かしたり、これから人の集まってくる寺務所に出入りして準備したりしている
私は打ちひしがれたようになってこの場に佇んでいるから、その坊主たちの下駄音が余計に大きく思われる
向こうから二人の客がやってくるのが見える
見覚えはないから、早い観光客かもしれない
泊まりがけで昨日からいたとも考えられる
この頃は宿坊を利用する人も一気に増えた
一昨日の満月の日には、寺から渋いタバコの煙が漂っていた
障子戸を解放して、月見しながらくゆらせている老人を想起した
また実際、中年の夫婦が白装束で月に向かって合掌しているところも見た
こびりついた緑の苔に乗せられた水がきららかである
それに誘われるようにやっと歩き出した
露出している手や顔が暖かかった
幸福の最高潮じゃないかしら、などと思ってもみた
あじさい畑の方で、カメラを手にしたおじさんがレンズと実際の風景とを見比べていた
それより今は寺が美しいぞ、と私は思った
しかしそれほどの差異はないかもしれない
なにしろ今時分はどこもかしこも美しい
槇の葉からも雨水が落ちていく
それは清涼で、雪解けに似ていた
雫はあるいは白く眼を射り、またあるいは青色や赤色や黄色に変化した
例えば土に撒かれた小さな水滴群は目に優しく、そういう七変化を見せてくれる
途中で転がっていた藍色の殻をした甲虫の頭のない死骸であっても
ほっとするくらい綺麗に輝くのだ……。殻からはみ出た一枚の、薄茶色の翅の透き通ったところへ光る様はもはや現実のものとは思われず、この虫は死んで良かったのではないかと自分勝手に考えてしまうほどであった
そうぶらぶらしているうちに、急にバリバリいう音が響いてバイクが二台去っていった
たちまちに排気の臭いが立ち込めて、私はいつしか自分が寺をはみ出して道路にまで出しゃばったことを悔しく思いながら引き返す
太陽は先ほどより勢いを強めたように思われた
対して靄は弱まった
じきに消えてしまうだろう
この甘美な時間は、長く続いていいようなものではない
私は家へ帰り出した
いつになく晴れ晴れとした一日の始まりであることを強く感じながら…




