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石ころと明星  作者: 平井みね
おまけ
22/22

めぐる季節 春の訪れ

同人誌版『石ころと明星』をお買い上げくださった方に向けて、おまけとして配布していた一篇です。

同人誌版の頒布開始から一年が経過しまして、とりあえずおまけの方はWebにアップしても良いかな、と思い立ち、内容を少々修正してこちらに掲載しました。

 王国最強の魔法騎士と呼ばれたイグナーツだが、エッダからしてみればそれは本当かどうか疑わしいほどだった。

 勇ましい戦いぶりは話に聞くばかりで実際に目にしたことはない。剣を携えている姿すら、一度も見たことがなかった。いや、正確には一度だけ見た。イグナーツが北辺に引っ越してきた時に。彼が持ってきた荷物の中に、愛用の剣があったのだ。しかし、それは完全に荷物で、ただ単に持ってきただけだった。そして、それは彼の部屋の片隅に置かれたきり、そのままである。時間ができた時には腕立て伏せをしたりだだっ広い庭を走り回ったり、夜には体をほぐす体操をしたりと、鍛錬とまではいかずとも体を整えることは行っているイグナーツだが、剣には触っていないようだった。


 装飾は控えめで明らかに実戦向きのその剣は、飾りとしてはいささか武骨だ。そもそも置かれ方が棚に立てかけられているだけで、飾られている状態でもない。なんだかおさまりが悪く、剣の方も居心地が悪く思っているのではなかろうか。

 まじまじとその不思議な装飾品を見つめながら、エッダはそんなことを思う。


「うん、ぴったり。ありがとうエッダ!」


 弾む声が飛んできて、エッダははっとした。声が聞こえた方に振り返ると、イグナーツはすっかり新しいシャツに着替え終わっていた。

 イグナーツが身に着けているシャツは、エッダが縫ったものである。春夏用のシャツが一枚できあがったので、試着してもらったのだ。薄手の白い生地で仕立て、胸のポケットには小ぶりの刺繍を刺した。春夏用ということで、濃い紫の糸でツバメとスミレを描いた。

 イグナーツの言葉どおり、袖や裾は長すぎず短すぎず、丁度よさそうだ。


「ふふ。ツバメだ」


 笑い声をこぼして、イグナーツは胸元の小鳥をそっとなでる。嬉しそうな彼の様子に、エッダも自然と笑顔になった。


「ねぇねぇ、エッダ。このツバメはつがい?」


 イグナーツが尋ねる。

 エッダがシャツに刺したツバメは二羽。数片のスミレの周囲を囲むように二羽のツバメが飛び交う、という図案の刺繍だった。そして、エッダはツバメの尾の長さをそれぞれ変えた。つまり、イグナーツの言うとおり、オスとメスのつもりで刺繍したのだ。


 ツバメは雌雄そろって子育てをする。昨年の春、エッダは親鳥が次々と雛の待つ巣に向かうところを見た。オスとメス、二羽のツバメが鳴きながら飛び回っているところや、木の枝で身を寄せ合っている姿も見かけた。なんとも微笑ましい光景であった。ツバメのつがいは、仲睦まじい。そんな印象がある。


「そう。ツバメのつがいは仲良く一緒にいることが多いから、その模様もそのつもりよ」

「うん、そうだね。仲良しだもんね」


 一層頬を緩ませながら、イグナーツはまたツバメをなでる。彼の考えていることがなんとなく分かって、エッダは急に恥ずかしくなった。

 別に、自分たちをなぞらえて刺繍をしたのではない。

 けれど、そんな風に考えるのもいいかもしれない。いつまでも、ツバメのように睦まじい夫婦でありたい。

 そう思ったら、エッダはさらに恥ずかしくなる。本心ではあるものの、どうにも照れくさい。少し頬が熱くなってきた。


 イグナーツはまだ刺繍を眺めていた。その締まりない顔つきは、元王宮騎士であるとは到底思えない。イグナーツ曰く、「王宮では人前でこんな風に笑わなかった」とのことなので、王宮にいた時はまた別の顔を見せていたのだろう。恐らく、戦いの場でも然り。

 しかし、エッダの前では彼は緩緩(ゆるゆる)柔柔(やわやわ)甘甘(あまあま)な表情を多く見せる。真剣な表情も見たことないわけではないが、その機会は少なく、あまり印象には残らない。

 エッダはつと剣を見る。やはり、イグナーツとあの剣が結びつかない。


「剣、何か気になる?」


 イグナーツの問いかけに、エッダは振り向く。

 彼は笑顔をひそめて、眉尻を下げている。その表情には困惑がにじみ出ていた。愛用の剣のことなのに、随分とばつが悪そうだ。

 エッダは、答えに迷った。

 イグナーツは王宮騎士であった頃、何かと嫌な思いをすることが多かったようだ。現国王陛下は政治手腕に長け、多くの人から愛されている優れた君主だ。しかし、それでも王宮は足の引っ張り合いやら腹の探り合いやら派閥争いやら、そんなものであふれている。イグナーツも、本心を隠して立ち回っていたという。なんでも、だいぶ良い人ぶっていたらしく、エッダと接する時とはまるで様子が違っていたらしい。王宮騎士としての誇りはあるといえど、しかしその地位を手放しで喜べるほどでもないようであった。


 一応、彼は未だ騎士であるが、王宮騎士ではない。しかし、そのことについては何も後悔はないと、イグナーツは言っている。王宮に戻る気もまるでなく、彼は今、剣ではなく鍬を手にして毎日畑仕事に励んでいる。

 そんなイグナーツである。今さら騎士であったことを掘り返すのは、気を遣う。あの困ったような表情だ。何か嫌な記憶をつついてしまったかもしれない。


 エッダが言葉に迷っていると、イグナーツの方が先に口を開いた。


「俺が王宮騎士だったなんて信じられないな、って思ってた?」


 エッダは息を呑んだ。すっかり見透かされてしまっていた。

 こうなった以上、ごまかすのは不誠実である。エッダは正直かつ慎重に言った。


「そうね。でも、別に騎士だと思えないからそれが嫌だとか、そういうことではないの。ただ、純粋に疑問に思ったのよ。私は、騎士の姿の貴方を見たことがないから」

「姿絵とかも見たことなかった?」


 イグナーツ、というより明星の騎士の姿絵は、町でよく売られていた。

 買おうかと思った瞬間もあったエッダだが、買ってしまったら心が乱れてしまいそうだったので、結局思いとどまった。


「町では流行っていたけれど、ちゃんと見てないわ。だから、本当に見たことないのよ。こう、王宮騎士の制服を着て、帯剣している姿は。ここを訪ねてくる時も、剣なんて持ってくることなかったでしょう」

「それはそうだよ」


 そう言うと、イグナーツは口元に柔らかい笑みを浮かべた。無邪気な笑顔ではなく、ずっと大人びた甘い笑み。眉を下げたままではあるのだが、その表情は困惑のそれではない。なんとも悩ましげな、艶っぽさが漂っている。


「好きな人に会いにいくのに、そんな物騒なものを持っていく?」


 エッダの胸がどきりと跳ねる。一緒に暮らすようになって半年以上経つが、こんな風に突然色香をまとう年下の夫に、エッダは未だに慣れることができない。いや、多少は慣れてきたかもしれない。少なくとも、うろたえる頻度は減ってきたように思う。今だって胸の高鳴りを感じながらも、エッダは「それもそうね」と微笑んでみせた。


 イグナーツの言葉は最もであった。いくら騎士といえども、人の家を訪問するのに武器を持ってゆく必要はない。しかも、好意を抱く異性に会いにゆくとなれば、そのような凶器はなおさらいらない。

 しかし、エッダは納得しながらも、少しばかり残念な気持ちになった。やっぱり、騎士のイグナーツを見てみたいと思ってしまうのだ。

 王宮騎士の制服は、金糸の刺繍が入った白い上着に、黒いズボン。儀式などの場ではそこに深い青色のマントを羽織る。イグナーツは特段背が高いわけではないが、均整の取れたしなやかな体つきをしているので、よく似合ったことだろう。想像すると、余計見てみたかったという思いが湧きあがってくる。


 独り言のように、エッダはぽつりと言った。


「……でも、騎士の貴方も、一度くらい見てみたかったわ」

「なんで? 騎士って言っても、そうきれいなものじゃないよ。特に俺なんか、前線に出てばかりだったから、しょっちゅう汚れてたし」


 甘い笑みをひっこめて、イグナーツは大げさに肩をすくめた。

 これまた、彼の言葉は最もだ。イグナーツは、数えきれないほどの魔物を打ち倒した英雄だ。だからこそ、魔物の血や体液を浴びてばかりだったというのは、まぎれもない事実だ。

 確かにそんな汚れた姿は見たくない。だが、それだけではなかろうに。華々しく凱旋する姿や、模擬試合で華麗な剣術を披露する姿だってあったはずだ。


 やはり納得できないエッダである。自分でも、ここまで「騎士のイグナーツ」が見たいと思うのが少し不思議だ。別に、イグナーツの身分にこだわりは持っていない。だが、これでは騎士という立場に固執しているようで、エッダは自分自身が少し嫌になってくる。思わず眉をひそめた。

 すると、イグナーツの方も眉間にしわを寄せる。


「ごめん、エッダ。せっかく、騎士の俺のことを見たいって言ってくれたのに、嫌な言い方した」


 しょげた様子で、イグナーツが目を伏せる。とっさに、エッダは首を横に振った。


「いいえ。私こそ勝手なことを言ってごめんなさいね」


 エッダが表情を和らげると、イグナーツも少し口角を上げた。


「騎士がどんなものか、興味がある?」

「そうね……」


 エッダは考えた。

 興味があるかないかといえば、ある。

 エッダが騎士と呼ばれる人物を見たのは、もうだいぶ昔のことだ。あばた面になる前に、何度か王宮に出向く機会があったので、その時に見た。しかし、いかんせん昔の出来事なので、その記憶はおぼろげだ。

 病気をして以来、あばたを忌避した両親は、エッダの外出を厳しく制限した。家の庭に出るのだって、いちいち許可を取らなければならなかったほどだ。妹や弟たちはサロンや社交の場に出掛ける一方、エッダは屋敷の奥まった部屋で一人過ごす。そんな毎日だった。そして、二十歳になってからはこの北辺で暮らしている。それゆえ、エッダの記憶の中に、職務に励む騎士の姿はほとんど存在しない。


 騎士の階級や勲章の種類、制服の色など、知識として知っていることはあるけれど、実際にお目にかかったことはないに等しい。なので、実際に騎士と呼ばれる人々がどんな風なのか、興味はある。

 しかし、興味があるから、騎士のイグナーツにこだわってしまうのだろうか。それは違うとエッダは思う。騎士、ではなくエッダはイグナーツに興味があるのだ。あくまでも騎士のイグナーツ、国中の人々から愛された明星の騎士という存在が気になるのだ。そこまで考えたら、エッダは急に得心した。

 悔しいのだ。騎士のイグナーツが見てみたいのは、悔しいからだ。


「興味があるのも確かだけれど、それ以上に悔しいんだわ」

「悔しい?」

「ええ。だって、私以外の人は騎士の貴方をたくさん見ているでしょう? それなのに、私だけはまるっきり見ていないのが、なんだか悔しいのよ。私だけが知らない貴方がいるんだもの」

「エッダが知らない俺……」


 イグナーツは目をぱちくりとさせた。何か変なことを言ってしまったかと、エッダは少し焦った。


「だ、だって、私たちは夫婦でしょう? その、なんて言うのかしら。貴方の一番近くにいる私だけが除け者なのが、少し納得いかないというか。貴方は私のものなのに……」


 エッダははたと口をつぐんだ。

 今、とんでもないことを口走ったような気がする。気がするではない。間違いなく言った。やはり、うろたえているのか。もしくは、頭が沸いているのか。そもそも、イグナーツはものではなく人間だ。

 今が夜で、蜜月が満ちているのならば、こんなことだって言ってみてもいいかもしれない。だが、まだ真っ昼間だ。窓から差し込んでくる日差しが、なんだか肌にしみるエッダである。


「へ、変な言い方をしたわ。別に貴方を独占したいとか縛りつけたいとか、そういう意図はないの。い、今のは言葉の綾よ。貴方が私に見せたくないと言うならそれはそれでいいのだし、それは不満でもなんでもないわ」


 慌てて手を振りながら、エッダは一息にしゃべった。その言葉が届いているのかどうなのか、イグナーツは相変わらず目を瞬かせながらエッダを見つめている。

 エッダの全身が火照る。いっそ逃げ出そうかと思った時、イグナーツが言った。


「……そっか、そうだね」

「な、何が?」

「うん。エッダの言うとおりだと思って」


 そう言うと、イグナーツはふっと目を細めた。また突然色香をまとうイグナーツ。鳶色の瞳は艶やかに、向けてくる視線はやけに熱っぽい。

 エッダの全身がさらに熱くなる。たまらず視線を落とした。沸いているようではなく、今度は完全に頭が沸いたとはっきり自覚する。

 イグナーツがエッダの手を取る。ふわりと、エッダの手はぬくもりに包まれた。


「ねぇ、エッダ。俺はエッダだけの星だよ。だから、どうか独り占めにして」


 エッダの胸が大きく跳ねた。

 ふいに耳に吐息がかかる。


「やっぱり騎士の俺も見てほしい。騎士の俺もそれ以外も、俺の全部見てくれる?」


 少し掠れた声は決して大きくないのに、エッダの体の芯にまで響く。全身に熱が走り、勢いを増した鼓動が跳ね回る。頭がぼんやりとしてきた。目を閉じたくなったエッダだが、ここで目をつぶると彼の声が鮮明に頭の中に反響して、余計大変なことになってしまうと、よく分かっていた。


「え、ええ……。貴方がよければ、見せてほしいわ」


 惚けたまま、エッダは頷いた。かろうじて冷静な頭の隅では、とんでもなく恥ずかしい問い掛けに首肯してないか、と思う。しかし、エッダの答えは何一つ間違っていない。イグナーツのすべてを見たいか見たくないかと問われれば、見たい。

 内緒話をするように、イグナーツがくすりと笑う。また、甘やかな息がエッダの耳をくすぐる。エッダは、ぎゅうとイグナーツの手を握り返した。


「女神の御心に感謝を」


 そうささやいて、イグナーツはエッダの額に口づけた。

 イグナーツが手を離す。エッダは安堵しつつも、どこか残念な心持ちになる。額に残るぬくもりが、少し切ない。

 ちらりとイグナーツをうかがい見れば、大人びた表情から一転、彼は少年のような無邪気な笑みを浮かべていた。


「それじゃあ、何か剣技をやってみせるね。とはいえ、やっぱり本物の剣は危ないから、木剣か何か代わりのものを作ってからになるけど……。とりあえず、帯剣だけでもしてみようか」


 そう言って、イグナーツは剣へと手を伸ばしたが、突如「あ!」と声を上げて手を降ろした。


「素手の格闘術でよければ、すぐに見せられるよ」

「格闘術……?」


 イグナーツの言葉を繰り返して、エッダの頭に思い浮かんだのは、手紙だった。イグナーツが武術を学び始めた頃、まだ幼い時分に彼がエッダへと送ってくれた手紙である。


 剣を手にする前に徒手による格闘術を習っているが、それがなかなか上手くできなくて辛い、という内容のものだ。動物の動きを模した格闘術の形がいくつかあり、その中でも「鷹の形」が難しかったらしい。あまりにもできなくて悔しくなり、思わず泣いてしまったら、師範から「泣くな」と余計に叱られてしまったと、そんな話がたどたどしい字で綴られていた。


 幼い頃、イグナーツは泣き虫だった。よく笑うが、反面よく泣きもした。小さい頃から表情が豊かだったのだ。虫が怖くて泣いたり、怖い夢を見たと言って泣いたり。そのたびに、エッダは彼を慰めていた。


 思わず、エッダは小さく吹き出した。


「どうしたの?」


 目を瞬かせるイグナーツに対して、エッダはくすくすと笑った。


「もう鷹の形ができなくて、泣いたりしないかしら?」


 イグナーツははっと目を見開くと、うっすらと頬を赤らめた。


「も、もうできるし、泣かないよ!」


 イグナーツの声はやたらと大きい。どうやら、うろたえているようだ。

 恥ずかしくて慌てるのはいつもエッダの方なのに、今はまるで反対だ。それがまたおかしくて、エッダは笑ってしまう。

 ますます焦ったのか、早口でイグナーツは言う。


「で、できるようになったって、それも手紙に書いたでしょ!」

「そうだったわね」


 その手紙のことも、よく覚えていた。懐かしさからか、エッダの口は軽くなる。


「できるようになった、と書いてくれた手紙。嬉しさがあふれ出ていて、私も嬉しくなったの。きっと、すごく頑張ったのだろうなと思って、貴方をたくさん褒めてあげたくなったのよ。でも、それはできなかったから。代わりに部屋にあったクッションをなでたんだった」


 幼い頃、エッダはイグナーツを慰めるだけでなく、よく褒めてもいた。

 イグナーツが上手に挨拶できた時、転んでも泣かなかった時など、エッダは「よくできたわね」だとか「えらいわね」と、イグナーツの頭をなでていた。

 褒める時も慰める時も、エッダはイグナーツの頭をなでた。今思えば、姉のように振る舞いたい気持ちがあったのだろう。少しおしゃまだったかもしれない。けれども、エッダが頭をなでてもイグナーツは嫌がる素振りは見せなかった。むしろ、喜んでくれた。


 だから、鷹の形ができたその時も。やっと師範に認めてもらえたと、そう語る筆致は喜びにあふれており、最後には「エッダもほめてくれる?」と一言。読み終わった後、いても立ってもいられなくなったエッダは、手近にあったクッションをなでまわしたのである。もちろん、返事にはたくさん称賛の言葉を書いた。


 エッダは右手を開いて、その手のひらを見つめた。あの時の気持ちがよみがえってくる。

 たまらずにクッションをなでまわしたものの、イグナーツのさらさらとした髪の毛の感触が恋しくなるばかりで、余計いたたまれなくなったのだった。

 当時はやるせなかったが、今となっては温かい思い出の一つだ。そう、思えるようになった。


 ふいに左手を掴まれて、エッダは視線を上げた。うつむいたイグナーツが、エッダの手を握っていた。


「……鷹の形、上手にできたらなでてくれる? 昔の分も」


 かすかに顔を上げて、上目遣いでイグナーツが言う。彼の頬は真っ赤だ。

 大人になってからもイグナーツは所々子供っぽい。こうして、「なでて」とエッダに甘えてくることが、度々ある。しかし、特に今日は子供っぽく、やたら恥ずかしそうな様子である。

 また一つ、幼い頃の思い出がよみがえる。

 小さいイグナーツもこうだった。エッダの服を掴んで、もじもじと恥ずかしがりながら「なでて」と甘えてくるのだ。

 あまりの幼さに、普段ならばまず呆れる気持ちが――それは照れ隠しという部分もあるのだが――湧きでてきそうなエッダだが、今日は違った。エッダもすっかり童心に戻っていた。いたずら心がむくむくと芽生えてくる。


 自身の手を掴む、すっかり大きくなった手。その手に、エッダは右手を重ねる。イグナーツの肩がぴくりと跳ねた。


「ええ。なでてあげる。でも、とびきり格好よくやってくれなきゃだめよ」


 笑い混じりにエッダが言えば、イグナーツはがばりと顔を跳ね上げた。


「え! そういうことなら、練習させて! 久しぶりだから」

「いいわよ」


 エッダが頷くと、イグナーツはぱっと手を離した。


「お昼まで練習してくる」


 早速そんなことを言って、イグナーツは慌ただしく部屋から出ていってしまう。エッダはとっさに、見えなくなったイグナーツに呼びかけた。


「イグナーツ! そのシャツだけじゃ寒いわよ」

「晴れてるし、動いてたら温かくなるよ!」


 声だけが返ってくる。そんなに慌てなくてもいいだろうに。練習などしなくとも、格好よいに決まっているのだから。そもそも、見せてくれるというだけで、エッダは嬉しい。


 小さく息を吐きながら、エッダは窓の外を見た。

 もう、雪が降る日はめっきり減った。日に日に緑は映え、気の早い小鳥たちがさえずり始めている。

 あと一月(ひとつき)も過ぎれば、またツバメがやって来るだろう。そして、そのツバメたちをイグナーツと一緒に見るのだ。


 昔できなかったことも。新たにやりたいことも。普段の何気ない出来事も。彼と共に刻む毎日が愛おしい。大した地位もなければ、裕福でもないけれど、この北の屋敷での生活はどんな勲章や宝石よりも輝いている。

 一年前の今頃、エッダは春の気配の中に暗い影を感じていた。イグナーツとの関係を断ち切らねばと、思えば思うほど胸が苦しかった。彼との関係がなくなった時のことを考えると、その想像だけで虚しくなり、心に穴が空くような気分になった。しかしそうだとしても、その時は確実に迫っていると、エッダは思っていた。どうしたって、自分は彼にふさわしくないのだから、と。


 しかし、今年は春の訪れを素直に喜べる。もう、虚しさは感じない。「醜い」だの「家の恥」だのと蔑まれつづけた結果生じた影は完全に消えてはいないが、しかしだいぶ薄まってきたのではなかろうか。少なくとも、恐れる気持ちはなくなった。何かの拍子に影が大きくなっても、きっと上手くあしらえる。


 エッダは思う。私はこの地で生きてゆくのだ、と。その気持ちは、強がりでも諦めでもない。真っすぐ、そう思える。


 チュルチュルと、コマドリのさえずりが聞こえてきた。小鳥を真似て「愛しているわ」とつぶやいてみれば、笑みがこぼれた。春の訪れに胸を躍らせながら、エッダはイグナーツの部屋を出た。


 廊下を歩きながら、エッダは考える。

 さて、昼食は何にしようか。チーズとパンで軽くすまして、その分夜は少し豪勢にするのがいいかもしれない。イグナーツが鷹の形を見せてくれたお礼も兼ねて。だとしたら、燻製肉が残っていたはずだ。それを焼いて、ベリージャムを添えるのはどうだろう。パスタもゆでようか。

 くるくると思考を巡らせるのが楽しい。自然と足取りも軽くなる。飛び跳ねたいような気分であったがさすがにそれは控えつつ、エッダは台所に向かった。


〈おしまい〉

お読みくださいまして、ありがとうございました。

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