雨の日
雨が降っている。幾重にも折り重なる雨粒の弾ける音は、雪解け時期のせせらぎに似て少し激しい。
鳥の声は聞こえない。しかし、煙る庭の光景は、それはそれで風情がある。しとどに濡れる花や木々の色は、薄暗い風景の中でむしろ鮮やかに見えるような気がした。
雨の日にしか見えない風景、聞けない音がある。だから、エッダは雨の日が嫌いではない。そう、嫌いではない。
すっぱり「好き」と言い切れないのは、雨の日は厄介ものを呼び覚ますためだ。
自室の姿見の前で、エッダはその厄介ものと格闘していた。うねるは絡まるは広がるは、したい放題の栗色の髪。そんな自身の髪の毛を、エッダは必死にすいていた。
エッダの髪は大きく波打っている。加えて量が多い。そのため、雨の日になるとまったくまとまってくれない。だから、普段以上に丁寧にとかす必要があった。
朝も一度髪を整えた。しかし、すでに小雨が降っており、さっさと外の仕事を終わらせようと急いでいたので、おざなりになってしまった。その忙しさゆえの油断があだとなり、今こうしてエッダは必死に髪をとかしている。
こっくりとした栗色も波打つくせも、嫌っているわけではない。けれど、しけった時の扱いにくさ、もう少しどうにかならないか。
そんなことを思ったとたん、これみよがしに櫛が引っ掛かった。少しうんざりしながら、エッダは絡まった髪の毛を指でほぐす。
雨音は途絶えない。それどころか、朝よりも雨足は強くなってきている。昨日はからっと晴れていたが、今日は一日中雨のようだ。春から夏へと移り変わろうとするこの季節、天気は概して移り気だ。
ようやっと絡まっていた髪がほどけた。しかしこれ以上とかすのは不毛に思えて、エッダの手はすっかり止まってしまった。
もう、結び方でごまかしてしまうのがよさそうだった。朝は急いでいたために簡単にくくってすましてしまったが、そうではなくて三つ編みにでもすれば、はねや広がりは気にならなくなるだろう。ただ、この長いくせ毛をきれいに編むのは、少々手間ではあるが。裁縫や刺繍はそれなりに上手くできるエッダだが、自身の髪を結うのはあまり得意ではなかった。
エッダは櫛を机に置いて姿身を見た。すると、鏡越しにイグナーツと目があった。彼はにっこりと笑いかけてくる。頬がほんのり熱くなるのを感じながら、エッダは振り返った。
「どうしたの?」
エッダはイグナーツに問いかけた。彼は読書がしたいとのことで、エッダの部屋までやって来ては本を見繕っていたはずだ。現に、本を開いて持っている。だが、視線が向いているのは、衣装棚の上の小さな本棚でも手元の本でもない。じっとエッダの方を見つめている。
イグナーツは本を閉じた。ぱたり、と小気味よい音が鳴る。
「うん、髪の毛とかすの大変そうだなって思って」
「ああ……。そうね、こんな日は手間がかかるわね」
「大変で、ちょっと面倒くさいと思う?」
貴族の淑女であるならば、頷くのはよろしくないだろう。しかし、生憎エッダはそんな立場にいるつもりはなかったし、何よりもイグナーツがとても無邪気な笑みを向けてくるものだから、素直な気持ちそのままに唇を動かした。
「少し、思うわね」
苦笑いしながらエッダが答えると、イグナーツは本を本棚に戻した。そして、エッダへと近付いてきて言った。
「じゃあさ、俺にやらせて」
「えっ?」
「俺、エッダの髪とかしたい」
嬉しそうに声を弾ませるイグナーツを、エッダはぱちぱちと瞬きしながら見つめた。
※※※
頭上からご機嫌な鼻唄が降ってくる。エッダはちらりと姿見を見た。背後に立ったイグナーツは、それはもう楽しそうににこにこと笑いながら、エッダの髪をすいている。
片手でエッダの髪をすくい上げて、根本からゆっくりと優しい手つきで櫛を滑らせる。時に髪が絡まっていたら、両手でやわやわと慎ましやかにほぐす。
エッダがやるよりもずっと丁寧に、イグナーツは栗色の髪を扱っている。それが、嬉しくもありどこか照れ臭く感じるエッダである。胸の鼓動は少し速くなっていた。
エッダはうつむいて、姿見から目を逸らす。
イグナーツに髪を触られるのは初めてではない。それなのに、どうしてかやけに恥ずかしくてたまらない。こんな風に髪を櫛でとかしてもらうのは、初めてだからだろうか。
「本当、エッダの髪の毛柔らかいよね。俺大好き」
笑い混じりにイグナーツは言う。聞き慣れた言葉であるにも関わらず、エッダはどきりとした。
「そ、そう。いつもありがとう……」
そう言うのがやっとであった。エッダは膝の上でほんのりと拳を握りしめる。
貴方の髪も素敵よ。
今さら、そんな言葉が胸のうちにわき上がってきた。
最近、エッダは思うのだ。イグナーツから好意的な言葉をもらったら、彼のようにさらりと気持ちを返したい、と。だが、そうは思えど口は重たい。
好意を言うことはだいぶできるようになってきた。ひとつ恥ずかしさを乗り越えて言ってしまえば、心がほぐれて素直になれる。しかし、そのはじめの一歩が踏み出せない。しかも、今は慣れない状況にどぎまぎしているのだ。いつも以上に、心がすくむ。
エッダの逡巡は続く。
言いたいけれど、恥ずかしい。恥ずかしいが、やはり言おう。ばくばくと鼓動が激しくなるのを感じて、開きかけた口を閉ざす。イグナーツの指先は、相変わらず優しい。もどかしさが募る。
「結構まとまってきたと思うけど、どうかな?」
結局エッダは何も言えないまま、先にイグナーツの方が声をかけてきた。
エッダは顔を上げて鏡を見た。
イグナーツの言葉通り、広がっていた髪はだいぶまとまっていた。ここまでとかしてもらえれば十分だ。
もどかしさを押し込めて、エッダは笑った。
「ええ。これくらいでいいわ。ありがとう、イグナーツ」
「髪の毛、結ぶ?」
「そうね」
エッダは答えながら、机に置いてあった髪紐をイグナーツに手渡す。髪紐を受け取ったイグナーツは、エッダの髪を櫛ですきながら、丁寧に束にまとめてゆく。
それを見て、エッダは「あ」と声をあげた。イグナーツが視線を上げる。
「どうしたの?」
「ああ、髪なんだけれど三つ編みにしてもらってもいい?」
「三つ編み、いいね」
そう言いながらイグナーツはぱっと笑ったが、すぐさま困ったように眉尻を下げた。
「でも、ごめん。三つ編みのやり方よく分からないや。どうやるの?」
「髪を三つの束に分けて、それを重ねてゆくのよ。こう、組紐とかかごを編むように」
エッダが自身の髪を少し編んでみせると、イグナーツもそれを真似して髪束を分けて順々に重ねてゆく。そうやって少々エッダの髪をいじった後、イグナーツは嬉しそうに目を細めた。
「うん、できそう」
再び、ご機嫌な鼻唄が始まった。
イグナーツは、戸惑うことなく手を動かしている。その様子を、エッダは鏡越しに眺めた。
彼は器用だ。家具や農具の修繕はすっかり彼の仕事だし、芋の皮むきや魚をさばくのもお手のものだ。髪を編むのも、すいすいとやってのけている。初めてなのが嘘のようである。
「器用に編むわね。針仕事もできるんじゃないかしら」
「ちょっとしたほつれや破れを直すのはできそうだけど、一から作り上げるのはできないと思う。特に刺繍は無理かな」
「そう?」
「うん。俺絵心ないから。エッダの刺繍みたいな素敵な意匠は考えられないよ」
また、イグナーツは軽々と言ってのける。押し込めたはずのもどかしさが、じりじりとうずく。
エッダは目を閉じた。無理をする必要はないのだと、自身に言い聞かせれば、しだいに気持ちは落ち着いてきた。雨の音とイグナーツの鼻唄に耳を傾ける。
やがて、鼻唄が止まった。
「はい、できたよ」
柔らかい声が聞こえて、エッダは目を開けた。それから、横を向いて髪型を確かめる。
鏡に映ったのは、美しい三つ編みであった。栗色の大きな編み目はつややかで、どこもほつれていない。本当に、初めてなのが信じられない出来映えだ。
エッダは惚れ惚れとしてしまった。そっと三つ編みに触れる。まるで自分の髪とは思えない。とても特別なものに思えて、エッダの胸は高鳴った。
「どう、かな? 俺、上手くできた?」
少し不安そうなイグナーツの声が聞こえてエッダははっとした。慌てて振り返り、口早に言う。
「私なんかよりずっと上手よ。とても上手でびっくりしたわ」
イグナーツが眉を跳ね上げる。
エッダはそっと三つ編みをなでた。
「こんなにきれいに編んでくれて、ありがとう」
エッダが言えば、イグナーツはたちまち笑顔になった。佳麗な白い花がほころぶ。その白い花に、エッダの目は釘付けになった。
「エッダの髪だもの。綺麗に編むに決まってるでしょ」
イグナーツはエッダの三つ編みをすくい上げると、そっと口づけた。それから、彼は手を伸ばして机に櫛を置くと、本棚の方に行ってしまう。
エッダの胸のうちでは、まだ花影が甘く揺れていた。それは、優しくエッダを誘う。くすぶっていたもどかしさが消えてゆく。
エッダは座ったまま、体ごと振り返った。
「イグナーツ。ちょっと」
「なあに?」
呼ばれるままに、イグナーツはエッダの方に引き返す。
「ここに、しゃがんで」
首をかしげながらも、イグナーツは立て膝をついた。すっと背筋を伸ばしてまっすぐエッダを見つめる美しい所作は、まごうことなく騎士のそれである。
どきどきと早い鼓動が耳につくけれど、エッダは思いきって手を伸ばす。麗しい白い花であり、たった一つの星である彼へ。
指先が亜麻色の髪に触れる。その瞬間、エッダの胸は息苦しくなるほどしぼむ。
もう、先程とは真逆だった。恥ずかしさなど、どうでもよい。言葉にしなければ、きっと苦しくて窒息してしまう。
「本当にありがとう。私も貴方の髪、大好きよ」
そう想いを吐き出したら、胸苦しさはすっかり消えた。楽になったら、今度は熱くなってくる。熱と言うよりは温もり、まるで春のひだまりのような穏やかな熱が、エッダの心身を解きほぐす。エッダはイグナーツの頭にそっと口づけると、彼に微笑みかけた。
みるみるうちに頬を赤くさせ、イグナーツはきゅっと眉根を寄せる。そしてその泣きだしそうな表情のままエッダを見つめることしばらく、突然エッダの膝の上にぱたりと倒れこんだ。
「……大好きなら、もっとさわって」
イグナーツの甘える声はか細く、震えていた。
エッダは両手でイグナーツの頭を包み込むと、再度髪に触れた。
雨の跳ねる音に合わせて、一房つまんでは離す。はらりと落ちて無造作に広がった髪を、また整えるように静かになでつける。絹よりもずっと手触りのよい亜麻色の髪を、エッダは思うままにもてあそぶ。
エッダの心は、すっかりほぐれきっていた。恥ずかしさや照れ臭さは消えたまま、よみがえってくる気配もない。今はただ、指先の感触が、このひとときが心地よくてたまらない。
イグナーツの口から、甘い吐息が漏れた。
「ああ、もうずっとこうしてたい……」
「本はもういいの?」
「もういいよ……」
「それなら、本当にずっとこうしてる? 雨も止みそうにないから、もう外のことはあまりできないでしょうし」
そう言いながらなめらかな前髪をかき分ければ、上目遣いの鳶色の瞳と目があった。
「……うん」
イグナーツは小さく頷くと、顔を伏せて頭を差し出した。
その様子、なでてほしくてすり寄ってくる子猫のようだ。いや、やはり鳥だろうか。確か鳥の中にも、つがいや仲の良い個体同士で羽繕いしあう種類がいたはずだ。
エッダはくすりと笑いをこぼすと、指をたてて優しくイグナーツの頭を掻いた。それこそ、鳥がくちばしで羽繕いするように。イグナーツはほのかに声をもらして、エッダのチュニックを握りしめる。
そんないたいけなしぐさが意味するところは、「もっと」とねだっているに違いない。そう解釈したエッダは、頬を緩ませながら夫の頭をしばらくなで続けたのであった。