想いあふれる時・2
エッダの頭上で、小鳥たちが飛び交っている。鳥たちのぶん、と採らずにいたブドウをついばみに来ているのだ。見上げれば、蔓と葉の合間に小鳥の影が見えた。エッダは彼らをぼんやりと見つめる。大好きな鳥たちだが、心に全く入ってこない。
エッダの胸のうちには別の思いがぐるぐると渦巻いていた。
やはり、ひどい言い訳だったと心底思う。イヌバラの棘が刺さったくらいで、あんな風に叫ばない。そんな内省を頭の中で延々と繰り広げながら、エッダはお茶を一口飲んだ。とたん、顔をしかめる。お茶が渋い。わずかだが、いつもより舌に渋味が残る。
ティーカップの水面を見れば、色味が濃い。全く気がつかなかった。渋くなってしまったのも、それに今の今まで気づかなかったのも、反省やら後悔やらで悶々としていたためだろう。考えこんで、つい蒸らしすぎてしまったのだ。
エッダはカップを置いて、対面のイグナーツをうかがい見た。
彼は、ブドウの木漏れ日の中で、お茶を嗜んでいた。庭を眺めるその横顔には穏やかな笑みが浮かんでおり、すっかりくつろいでいる様子だ。お茶の味を気にしている素振りはまったくない。
しかし、エッダに気を遣って言わないだけなのかもしれない。そんな風に思ってしまったエッダは、テーブルを引っ掻いた。
その音が聞こえたのか、それともじっと見つめすぎてしまったのか。イグナーツが振り向く。
「エッダ、どうかした?」
どきりとしたエッダは、とっさにお茶に視線を走らせた。
「ごめんなさい。お茶、渋くなってしまって」
エッダが謝ると、イグナーツは「ああ」と頷いて、ティーカップを傾けた。
「確かにいつもより少し渋いけど、でもおいしいよ?」
「それならいいけれど……」
答えながら、エッダも一口お茶を飲む。確かに不味いというほどではない。だが、エッダの胸のうちはすっきりしない。言葉で好意を表せないなら、もっと美味しいお茶を淹れたかった。それなのにこれである。情けない自分に嫌気が差してきて、ついついため息がもれてしまう。
お茶を飲もうとしていたイグナーツが手を止めて、カップを置いた。カップの中には、あと一口ほどお茶が残っている。
「エッダ、どうしたの?」
「何が?」
「今、ため息ついたよね? なんだか朝からぼんやりしているみたいだし、何か悩み事でもあるの?」
そう言うと、イグナーツは眉尻を下げて、目を伏せた。
「もしかして、俺何かやった?」
声を落として、イグナーツが言う。予想外の言葉に、エッダは思わず声を上げた。
「そんなことないわよ!」
イグナーツが何かしでかしてしまったなど、そんなことはない。彼と一緒に暮らすようになって一月経つが、本当にまるっきり何もない。イグナーツがやって来て困ったことはなかった。むしろその逆である。
とにかく、彼はよく働く。家事も畑作業も、何一つとして嫌がらない。名門貴族の生まれだというのが、まるで嘘のような働きぶりである。
そんなイグナーツと一緒に暮らすようになってから、エッダの毎日は以前よりずっと充実している。朝起きればイグナーツがいることにまず幸せを感じるし、一緒に食べる食事は質素だが、何を食べても美味しく感じる。その食事の用意だって、献立を考えるところから楽しい。彼のシャツを仕立てることに夢中になって、気がつけば日が暮れていた、なんてこともあった。
イグナーツがそばにいてくれることが、そして彼のためにあれこれ仕事ができることが、たまらなく幸せだった。
それに、イグナーツはエッダのことを愛してくれている。彼の真っすぐな好意に恥ずかしくなることも多々あるが、幸せで胸がいっぱいになるのもまた事実。
そう思った瞬間、エッダの胸がちくりと痛む。
もしかしたら、これは自惚れなのではないか。楽しいのは自分だけで、実はイグナーツは不満をためているのではないか。何故ならば、エッダは彼に「好き」という言葉を伝えていない。お茶だって、渋く淹れてしまった。
エッダは唇をなめた。不安を上手くぬぐえない。エッダは思いきって口を開いた。
「……貴方は何もしていないわ。それよりも、貴方の方こそ私に何か思うところはないの? その、例えば不満とか」
イグナーツが視線を上げ、ぱちぱちと瞬きをする。
「不満なんか……」
ぼんやりとつぶやいた後、イグナーツは「あ!」と声を上げた。
「不満、ある!」
エッダはどきりとした。聞かなければよかったと、後悔する。
イグナーツはわずかに眉をひそめた。
「エッダが、いつも俺より早起きなところ」
「え?」
思いもよらない言葉に、エッダの口から疑問の声がこぼれる。
イグナーツが口を尖らせる。そのすねたような顔つきは、いかにも子供であった。
「なでられるのも好きだけど、たまには俺もエッダの寝顔を愛でたい」
はたまた思いもよらない言葉がイグナーツの口から飛び出してきて、エッダはうろたえた。
「な、な、何よ、その不満。私の顔なんか愛でて、何がいいのよ」
エッダの顔はあばただらけだ。多くの人から醜いだの汚いだのと言われてきたとおり、美しさとはほど遠い。一般的には愛でる対象にならない造形だ。
「いいに決まってるだろ。絶対、幸せな気持ちになれる」
小さく笑いながらイグナーツが見つめてくる。子供らしい表情が一転、その大人びた流し目は「そうじゃないの?」と、エッダに問いかけているようだ。
エッダは言葉に詰まった。心当たりがあり過ぎる。エッダは毎朝、眠っているイグナーツに触れている。その行為に、美醜は関係ない。イグナーツの顔立ちは整っているが、美しいから彼に触れるのではない。それはエッダもよく分かっている。先ほどの発言は、照れ臭くてとっさに口をついて出てしまったのだ。
恥ずかしさを取り繕うように、エッダはお茶を飲んだ。冷めたせいか、渋味が増している。その苦みは舌だけでなく、エッダの心にも広がる。ふわふわと浮き上がった気持ちが、また落ちた。
さっきのは照れ隠しとはいえ、ひねくれていた発言だ。どうして、こうも素直でないのだろう。彼に想いを返せないのも。
普段はここまで気にかからないのに、今日はどうしても引っかかってしまうエッダである。目標が達成できなかった、という負い目があるせいだろうか。ティーカップを置くと同時に、また息がこぼれた。
「エッダ、手を出して」
ふいにイグナーツが言った。ちらりと見やれば、彼は手を差し出している。その彼の手に、エッダは手を重ねた。すると、イグナーツはエッダの手の甲に、そっと口づけた。
「好きだよ、エッダ。誰よりも」
イグナーツが告げる。
エッダは顔が熱くなるのを感じた。彼の言葉はまったく嫌ではない。だが、まったく慣れていないのだ。
「と、突然、何を言ってるのよ」
おろおろとするエッダとは対照的に、イグナーツは落ち着いている。
「不満はないのか、とか聞いてくるから。好きって気持ち伝え足りてなくて、エッダのこと不安にさせたんじゃないかと」
「貴方、毎日言ってるじゃない」
「うん。だけど、不安って些細なきっかけで湧きあがる時があるでしょう?」
イグナーツがエッダの手に頬をすり寄せる。ふわりと、イグナーツのぬくもりが手のひらに広がった。
「何かあったなら、言ってね。こうしてそばにいられるようになったんだから」
そう言いつつも、「言いたくなかったら無理しないで、言いたくないって教えてね」と、イグナーツは笑った。
とたんに、エッダの胸がきゅっと締めつけられる。
「自惚れではないか」だなんて、どうしてそんな愚かなことを思ってしまったのだろう。それは、彼の気持ちを踏みにじる行為だ。そもそも、そんな風に思ってしまった発端は、エッダ自身にあった。彼に「好き」と気持ちを伝えられない自分が原因なのである。
エッダは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。イグナーツの頬を、指先でなでる。イグナーツが目を閉じる。
「……ありがとう、イグナーツ。その、それから、ごめんなさい」
「何がごめんなさいなの?」
静かな声で問いかけながら、イグナーツは目を開けた。一瞬答えに詰まったエッダは、少し遅れて言う。
「その、貴方の気持ちを疑って変なことを聞いてしまったから、自分が不甲斐ないと思ったのよ」
「エッダのせいじゃないよ。俺の方が至らなかったんだ」
「違うわ。本当に違うの。全部私のせいなのよ」
「どうしてそうなるの?」
エッダは唇を引き結んだ。今度こそ完全に答えに窮する。
イグナーツの問いに答えることは、ほとんど彼に好意を伝えるようなものだ。加えて、悩んでばかりで行動できない情けなさも相まって、ますます言いづらい。手のひらに広がる温かさに、疑心はない。不安は消えたが、しかし恥ずかしさまでもなくなったわけではなかった。
エッダが黙っていると、イグナーツの顔つきが真面目になる。エッダの手を握る彼の手に力がこもる。
「エッダ」
切実な、祈るような呼びかけだ。
そんな風に呼びかけるだなんて、イグナーツはずるい。エッダは膝の上に置いた左手を握りしめると、おもむろに口を開いた。
「私、貴方の好意に上手く返事ができてないから……。ええと、だからその、そういうの貴方のように言えなくて、だから不満なんじゃないかと、その……」
くすりと笑い声が聞こえた。イグナーツの手から、少し力が抜ける。
エッダがイグナーツをうかがい見ると、柔和な鳶色の瞳とぶつかった。とても、優しいまなざしだ。
「何言ってるの。エッダは俺にたくさん気持ちをくれているじゃない」
「どこが?」
「毎日食事の用意をしてくれたり、俺のシャツを仕立ててくれたり、いつも美味しいお茶を淹れてくれたり。それから、昨日は俺の好きな香りのハーブをお風呂に入れてくれたじゃない」
「……それは、夫婦なら当たり前のことじゃないの?」
「そう? 頭、毎日あんな風に優しくなでるのも?」
すっかり知られてしまった秘密を持ち出されて、エッダは黙りこくった。頬が熱を帯びて、熱くなってくる。
けれど、エッダはイグナーツの言葉に納得できなかった。そんな彼の言い分に、甘えてはいけないとすら思った。
イグナーツがエッダの指先に唇を寄せる。
「俺、王都にいた時とは比べものにならないくらい幸せだよ。エッダに想いを受け止めてもらえて、それでこうして共にいられるんだもの」
指先に吐息がかかり、じんわりと甘い痺れが広がる。
エッダの胸が締めつけられる。彼の言葉に甘えたくなってしまう。甘えたくなるけれど、それでは何も変わらない。朝から渦巻いている悩みも、晴れないままだ。
エッダは目を伏せた。結局、ぐるぐると考えてばかりでどうしようもない。さっさと一言「好き」と言えばいいのに、何故か言えない。自分でもわけが分からないくらい恥ずかしいのは何故なのだろう。イグナーツの気持ちに疑いの余地はなく、恐れる必要だってない。彼はたくさん好きだと告げてくれる。それなのに、エッダは一言も返さない。そんなのは、いけないのに。
その時、せわしない小鳥の鳴き声がした。声が聞こえた方を見れば、コマドリが数羽、イヌバラの茂みの間を飛び交っていた。
「早く俺たちのぶんを取っとかないと、全部食べられちゃうね。俺、ローズヒップジャム楽しみにしてるのに」
笑い混じりにそう言うと、イグナーツはそっとエッダの手を両手で包み込んだ。
「そろそろ休憩終わりにしようか。ローズヒップ摘むの、終わってないんでしょう? 手伝うよ」
イグナーツの声音は安心させるかのように穏やかで、しっかりしていた。
「……そうね」
エッダは頷いた。確かにイグナーツの言うとおりだった。悩みはつきないが、今はまだ仕事の途中だ。早く終わらせなければ、昼になってしまう。
イグナーツはふっと息を吐くと、エッダの手を離した。
「カップ、片付けるね」
イグナーツは残りのお茶を飲みほすと、銀盆にてきぱきとティーセットをまとめて立ち上がった。エッダも残っていたお茶を飲み、イグナーツにカップを差し出す。その瞬間、ふいにイグナーツと目があった。
彼が柔らかく微笑む。日差しを受けて輝く、とても美しい笑みだった。
目を奪われたエッダは、呆然としてしまう。
カップを受け取ったイグナーツは銀盆を持って屋敷の方へ去ってゆく。残されたエッダの胸の鼓動が、徐々に高まる。頬が体が熱を帯び、胸の奥から何かが奔流となってあふれ出てくる。
イグナーツが行ってしまう。行かないでほしい。言うべき言葉がある。伝えたいことがある。
そう思った瞬間、エッダの中でばちりと何かが弾けた。エッダは慌てて立ち上がる。イグナーツの姿はまだ見えるところにあった。
「イグナーツ!」
とっさに呼び止めれば、イグナーツは振り返って微笑み、「なあに?」と一言首を傾げた。その柔らかい応答に、エッダの全身がさらに熱くなる。
エッダは気がついた。
イグナーツに何を言われても、納得できなくて当たり前だ。「好き」と言えないことが、こんなにも気になってしまうのだって当然のことなのだ。
イグナーツがどう思っていても、何を言ってくれたとしても、エッダが彼に「好き」と言わなければ悩みは晴れない。何故なら、エッダが言いたいと思っているからだ。言葉でちゃんと彼に想いを伝えたい。彼が言ってくれるから応える、という以上に伝えたいのだ。ただ伝えたい。それなのに言えないからもどかしくて、悩んでしまっているのだ。
エッダの心臓は早鐘を打つように慌ただしく、血が沸き立つような感覚に陥る。体は騒がしいのに、言おうと決めた言葉はやはり喉の奥で詰まった。どうして、たった一言を伝えるのに、これだけ緊張するのか。気持ちを素直に言葉にするというのは、とても難しい。
呼んだくせに言いよどむエッダであったが、しかしイグナーツは待ってくれていた。
太陽の光を受けて、庭の植物たちはきらきらと輝いている。その中に立ち、エッダを見つめるイグナーツ。彼もまた、陽光を浴びてきらめいている。
ただ、彼がそこにいてくれることが、奇跡のように思えた。エッダの熱がさらに高まる。
エッダはゆっくりと唇を動かした。
「す、好き」
声が震えそうになるのを懸命にこらえながら、エッダは想いを紡ぐ。
「私、貴方のことが好き。だ、誰よりも、その、ええと……」
声が消え入りそうになる。エッダは腹に力を込めると、思い切って叫んだ。
「愛しているわ!」
ついに言えた。言いきった。だが、イグナーツの方を見ていられなくなったエッダは、視線をそらしてしまう。
ちゃんと伝わっただろうか。言葉は足りただろうか。彼はどう思っただろうか。そんな思いがエッダの胸のうちに湧きあがってくる。けれど、やはりイグナーツを見ることができない。
早歩きのような忙しない足音と、続けざまに金属音が鳴った。ようやっと、エッダがそろそろと視線をやってみれば、テーブルのところにイグナーツの姿があった。どうやら引き返してきたらしく、彼はティーセットをテーブルに置いて、深々とうなだれていた。髪から覗く耳が真っ赤だ。一体どうしたというのだろう。
「イ、イグナーツ?」
エッダが呼びかけると、イグナーツは顔を上げ、潤んだ瞳でねめつけてくる。
「……エッダ。お願いだからそういうことは、両手がふさがってる時に言わないでくれる?」
「えっ?」
エッダは思わず声を上げた。胸もどきりと跳ねる。何か、まずいことをしたのかと、不安がふくらむ。
だが、落ち込む間はなかった。
「両手がふさがっていたら、すぐに抱きしめられないだろ!」
そう言いながら、イグナーツはエッダを抱きしめた。突然のことに、エッダはまた声を上げてしまう。イグナーツに拒まれたという不安は消えたが、エッダの心はまったく落ち着かない。鼓動はうるさくなる一方だ。
エッダの耳元に吐息がかかる。
「エッダ、愛してる」
イグナーツのささやきは、とびきり甘かった。エッダの全身が熱くなる。さっきよりもずっと熱い。
また、イグナーツの息がエッダの耳をくすぐる。今度は「本当に幸せ」という言葉が聞こえた。その言葉を聞いた瞬間、エッダは好きと言うことに対して、何をあんなにためらっていたのだろうかと思った。イグナーツがこんなにも喜ぶならば、恥ずかしさなど大した敵ではないのではなかろうか。イグナーツを幸せにすると、結婚する時に誓ったのだ。
エッダはかすかに首を捻り、イグナーツを見る。
「わ、私……」
急に強烈に恥ずかしくなって、エッダの言葉は途切れた。
恥ずかしさは強大な敵であった。一度乗り越えただけでは、そう簡単に倒せないようだ。
二度目は、また言えなかった。恥ずかしさに加えて悔しさがこみ上げてくる。エッダはイグナーツの肩に顔を押しつけると、代わりとばかりに言った。
「……最高に美味しいローズヒップジャムを作るわ」
「やった。楽しみにしてる」
少し掠れた声を弾ませると、イグナーツは腕に力を込めてエッダをかき抱く。
――やっぱり、「好き」と言う練習をしようかしら。
そんなことを思いながら、エッダは深呼吸をした。ほんのりと薫るのはセージの香りだ。その彼の匂いがとても心地よくて、エッダはそっと目を閉じた。




