想いあふれる時・1
エッダはイヌバラの実へと伸ばした手をはたと止め、ため息を吐いた。一体、何度目のため息だろう。今日は一人になると、つい深々と息を吐いてしまう。
秋晴れの空は高く、屋敷の庭にはたっぷりと陽光が降りそそいでいた。イヌバラの茂みには、ローズヒップがたんまりと実っている。日の光を受けてきらめく赤色の実は、まるで丹念に磨いた赤珊瑚のように艶やかだ。
しかし、エッダの心は曇っているし、美しいイヌバラの実の赤色にも、今一つ心が浮き立たない。
――結局、結局一月経ってしまったわ。
朝からそんな思いがエッダの頭の中を駆け巡り、離れないのだ。
イグナーツと結婚して一月が経った。この一ヶ月の間に、エッダには達成させたかった目標がある。それは、イグナーツに「好き」と言うことだ。
そう、エッダは未だにイグナーツに「好き」と言っていなかった。そのことはイグナーツと結婚し、彼が屋敷にやって来たその日から自覚していた。だからこそ、一月経つまでにちゃんと伝えようと密かに思っていたのだが、できなかった。
彼と甘い雰囲気になることはもちろんあったが、しかしそんな時でも肝心の言葉は言えなかった。どうにも恥ずかしくて、黙ってしまう。もしくは、イグナーツの「好き」という言葉に対して、「私も」と答えてやり過ごすのがやっとだった。
イグナーツはエッダと正反対だ。彼は、結婚の約束をした時に「好き」と言ってくれたが、結婚してからは甘い雰囲気になった時はもちろん、そうじゃない時にも「好き」だとか「愛してる」とエッダに言う。というか、毎晩眠る前に口にする。彼の就寝の挨拶はこうだ。
「今日一日無事に過ごせたことに感謝を。また明日も共に健やかに。愛してるエッダ」
そう言って柔らかく微笑むイグナーツ。
思い返したら、無性に恥ずかしくなってきた。エッダは、ローズヒップを指先でもてあそんだ。
未だに、イグナーツのこの挨拶にエッダは慣れない。そして、このような彼の言葉の数々に上手く返事ができていない。別に、イグナーツからそれでとやかく言われたことはない。エッダが彼の言葉に上手く応えられなくても、彼に不満そうな様子は見られない。イグナーツは、このエッダの屋敷に来てからというもの、毎日とても楽しそうだ。
今日も朝早くから畑仕事に勤しみ、朝食の後は張り切って薪集めに出掛けて行った。相変わらずエッダが淹れたお茶を幸せそうに飲むし、日々のなんてない食事――例えば、インゲン豆とキャベツのスープやパン粥――をにこにこと笑顔で頬張る。それから、越冬にやって来た水鳥を一緒に見に行くことを、とても楽しみにしている。「もう少し涼しくなったら、果物パンやビスケットを持って、ちょっとした遠足気分で出掛けましょうか」とエッダが提案したら、彼は頬を赤く染め、きらきらと目を輝かせていた。それはもう、喜びが全身からあふれていた。
そんな様子のイグナーツである。はた目には、エッダとの暮らしに不平や不満があるようには見えない。
はた目には。その言葉がエッダの心に引っかかる。
何も、イグナーツに直接聞いたわけではないのだ。実は、心の底に不満をくすぶらせているかもしれない。「好き」といくら伝えても、はっきり返してこないエッダに対して。
そんなわけがない、とエッダはすぐさま否定した。表情豊かな彼のことだから、不満があったらそのまま顔や仕草などに表れるはずだ。毎日、楽しそうな様子なのだから、何か思うところがあるだなんて、そんなことはない。
――いや待て。だが、もしかして。
エッダはぶんぶんと頭を振った。こうして一人で思い悩んでいても仕方ない。エッダ一人では絶対に答えは出せないのだから、考えたところで無駄である。
それに、とエッダは思う。さえずりはオスしかしないというではないか。鳥の世界では愛をささやくのはオスのみ。だから、きっとエッダが「好き」と言えてなくても、それはそれで構わないことなのだ。無理して言う必要は、きっとない。
そう強引に結論づけて、エッダは止めていた手を動かし始める。悩むよりも、今は自分の仕事に集中しなければいけない。
エッダの屋敷の庭には数種類のバラがあるが、特に存在感を放っているのはイヌバラであった。前にこの屋敷に住んでいた人物が好きだったのか、エッダが屋敷に来た当初から、多量のイヌバラが奔放に茂っていたのだ。イヌバラは初夏に小振りの愛らしい花を咲かせ、秋になると真っ赤な実をつける。イヌバラの実とは、つまりローズヒップだ。採ったローズヒップはお茶用に乾燥させたり、ジャムにしたりする。北辺に来て七年、ローズヒップを摘んで加工することは、エッダにとって秋の恒例行事となっていた
エッダは赤い実を数粒採り、かごに入れた。それを繰り返すこと数回、また手が止まる。再びエッダは小さく息を吐いた。
小鳥はオスだけがさえずるだなんて、そんなのはていのよい言い訳だった。屁理屈である。そもそもエッダもイグナーツも鳥ではない。
イグナーツはこれでもかと好意を伝えてくれている。ならばやはり、それにしっかり言葉を返さねばならないのではないか。何も言われていなくても、不満な様子もなくとも、それは今の話だ。今はまだ些細なことで、イグナーツも気にしていないのかもしれない。しかし、その些細なことが積もりに積もり、やがて大きな不満になってしまうのではないだろうか。
一月経つ前に「好き」と言う。その目標は達成できなかったけれど、だからと言ってないがしろにするのはよくない。
――イグナーツが戻って来たら、勇気を出して言ってみようかしら。
そう思ったエッダであったが、そう思っただけで照れ臭い。前途多難過ぎて、エッダは目を閉じた。すると、ふとある考えが浮かぶ。
試しに今、言ってみればいいのではないか。イグナーツがいないところで「好き」と言う練習をしてみるのだ。
エッダは目を開けた。じわじわと心に満ちる恥ずかしさ。無性に手持ちぶさたなように思えてきて、エッダはローズヒップを指先でつついた。そうして赤い実をもてあそびながら、言ってみる。
「え、ええと……。その、イグナーツ」
愛しい夫の名前を口にした瞬間、脳裏にはその彼の姿が浮かぶ。言ってみようと思った肝心な言葉が、出てこなくなる。この場に彼はいないのに。練習なのに、このざまである。
エッダはローズヒップを一粒摘み取った。
「す、好きよ……」
どうにか言葉を絞り出した。しかし、とんでもなく小さい声だった。それなのに、エッダは頬どころか耳まで熱くなるのを感じた。恐らく、顔中真っ赤だろう。目の前のローズヒップに負けないくらいに。
やはり、恥ずかしい。たまらなく恥ずかしい。たった一言言うだけなのに、どういうわけかこれでもかと恥ずかしい。
エッダは採ったローズヒップをかごに入れた。それから、深呼吸をして気持ちを落ち着ける。きっと、こんなにも恥ずかしいのは、言い慣れていないからであろう。それならばもう一度と、エッダは再び口を開いた。その時。
「エッダ、戻ったよー」
「きゃああっ!」
突然イグナーツの声が聞こえて、エッダは思わず悲鳴を上げてしまった。
「エッダ!」
また、イグナーツの声がする。先ほどよりも鋭い声音だ。
エッダは振り返った。だが、イグナーツの姿はない。イヌバラの茂みから身を出して辺りを見てみると、ちょうど屋敷の角から人影が飛び出してきた。イグナーツである。彼の方もエッダに気がついたようで、いたく慌ただしく近づいてくる。
「エッダ、大丈夫? 何かあった?」
かなり焦っているのか、血相を変えたイグナーツはエッダに掴みかからん勢いで迫ってきた。たじろいだエッダは、数歩後ずさる。
「な、何もないわ。ええと、ちょっと棘が刺さって驚いただけよ」
エッダは口早にごまかした。まさか、「貴方に『好きだ』と言おうと練習していたら、突然声が聞こえたから驚いた」などと、恥ずかしくて言えるわけがない。
イグナーツが眉を跳ねあげて、エッダの右手を見る。
「大丈夫? どこに刺さったの? 血は出てない?」
「だ、だ大丈夫よ。痛かったけど大した傷ではなかったわ」
伸びてきたイグナーツの手から逃れるように、エッダはぱっと右手を後ろに回した。イグナーツがわずかばかり目をみはって、まじまじと見つめてくる。「本当に、大丈夫よ」とエッダは微笑んだ。頬が引きつっているような気がしたが、それでも強引に笑顔を保つ。
「そ、う。……それならいいけど」
イグナーツが手を下ろしながら言う。しかし、わずかではあるが眉をひそめており、納得はしていない様子だ。
言葉が途切れる。沈黙がやってくる。居ずまいの悪さを感じて、エッダは内心焦った。何か言った方がいい気がするが、上手いごまかしの言葉はこれ以上浮かんでこない。つい視線をそらしたら、イグナーツの背後に人影があることに気がついた。
使用人のマヌエラが薪の束を手にして立っていた。
「マヌエラ、どうしたの?」
エッダが声をかけると、イグナーツも振り返る。
マヌエラが手にした薪を揺すってみせた。
「イグナーツ様。ご心配なのは分かりますが、薪を放り投げてゆくのはいかがなものかと」
「ああ! ごめんなさい!」
イグナーツは急いでマヌエラに駆け寄ると、薪の束を受け取った。エッダの悲鳴にイグナーツの方も驚いて、薪を放り投げて駆けつけたようだ。さらにエッダはいたたまれなくなる。そんな心配されるようなことは何一つなかった。あんなに叫んだ己が恨めしく思えてくる。
老使用人の方を見やれば、彼女はじっとエッダを見つめていた。その視線はエッダを見透かすようだった。さらに居ずまいが悪くなる。
つと、マヌエラが顔をそらした。つられてエッダも、彼女と同じ方向へ視線を向ける。庭のブドウ棚が見えた。
「……イグナーツ様も戻ってこられたことですし、少し休憩されてはいかがですか。ずっと作業なさっていたのでしょう」
落ち着いた声でマヌエラが言った。その言葉はエッダにとって大きな助けだった。話をそらす絶好の機会である。エッダは大きく頷いた。
「そ、そうね。お茶でも入れて休憩にしましょう。イグナーツ、お茶は何がいい?」
エッダが尋ねると、イグナーツはぱっと破顔する。
「紅茶がいいな」
「分かったわ。気持ちのいい天気だし、外でお茶にしましょう。ブドウ棚のところで待っていて」
そう言うやいなや、エッダはそそくさと屋敷の方へと向かった。
『想いあふれる時・2』に続きます。




