5 <逃亡者>
カエサルは特に当てもなく、ビルの立ち並ぶ街を歩きながら自分のことについて考えて
いた。
さっき会った『カエサル』の両親は、人の良さそうな、ごく普通の人間に見えた。両親
とはだいたいああいう感じなのだろうか。いや、自分の父親は数年前に亡くなったはずだ
……いや、母親はもっと年寄りで……いや、自分は入院中だったはず……そうだ、ここは
どこだ?自分はどうしてこんな所を歩いている?自分の名前は……!!
「―――――――!?」
カエサルははたと立ち止まった。矛盾する記憶が頭の中を渦巻いている。あんなに確か
だと思っていた『カエサル』という名前にすら、確信を持てなくなっていた。
両親は死んでいるはずだという記憶があるのに、まだ生きているという記憶もあるし、
どちらか片親という記憶もある。自分についてだって、まるで女性のような、彼氏との思
い出があったり、闘病中で妻も子供もいたという記憶さえも浮かぶ。しかしどれも断片的
で、何一つ結びつくものではなかった。
きっとこれは山京技研で脳をいじられたせいだ、とカエサルは思った。さっきディーが
ナビで話している時、『山京』と言っていたのを聞いた。きっともう奴等は自分の居所を
突き止めてしまったのだ。それで捕まえに来るに違いない。そう思ったカエサルは、衝動
的に逃げなければ、と判断し、走り出していた。
気が付いたらどことも分からない場所を歩いていた訳だが…、ろくに金も土地勘もない
ので、とにかく移動しているしか思いつかなかった。
カエサルは特に周りを気にすることなく、ただ、歩いているだけだった。向こうから歩
いてくる人間がカエサルとぶつからないように避けてすれ違っていたのだが、カエサルは
時折誰かとぶつかり、しかし特に反応を示す訳でもなく、相手は不審そうに彼を振り返り
ながらもそのまま歩いて行くのだった。
一人早足で歩いて来た若い男が、カエサルを避けようとせずぶつかった。それでもカエ
サルは何事もなかったかのように歩いて行こうとしたのだが、若い男はそうじゃなかった。
「オイ、おまえちょっと待てよ」
とカエサルの肩をつかんで乱暴に振り向かせる。
「わざとぶつかっておいて何も言わずに行くんじゃねーよ」
若者は茶髪を肩まで伸ばし、今風のチャラチャラした格好で、いかにも何も怖い物など
ない、といった感じだった。
カエサルはわざとぶつかった気はないし、男が何でそんなことを言うのか全く理解でき
なかったが、とりあえず相手の気がすむなら、と謝ることにした。
「よく解らないが、悪かった。すまない」
「ああ?」
男は納得しない。大げさに顔を歪めてカエサルに顔を寄せてにらみつけると、
「なんだおまえオートマタンか?にしてはチャクラ付いてねーな。サイバーロイドか?ど
っちにしろ、作りモンだな。ちゃんと機体制御できねえなら外歩くんじゃねえ!」
とまくし立てた。世間には脳以外全て義身躯という『人間』もいる。が、カエサルがあまり
にも表情がないので、全て作られた自律する人形、オートマタンなのではと男は口にした
のだったが、それがカエサルの中の『何か』に触れた。
「違う…!!僕はオートマタンじゃない!」
急にカエサルが声を荒げたので、男は立ち去ろうとした足を止めた。
「あ?何言ってんだ?別に興味ねーよ」
「違う!止めろ…!!僕はちゃんとした人間だ!」
「どっちでもいーよ、バーカ!」
次の瞬間、男は吹っ飛ばされていた。
うわっ、と周りの通行人が叫ぶ。男は背中を壁にしたたかにぶつけ、苦しそうにしてい
たがとにかく起き上がった。
「ぼ、暴走だ…!!オートマタンが人間に手を上げやがった…!!」
うめくようにそう言って、その場からよろよろと逃げ出す。通行人達はいっせいにカエ
サルを見た。
「なんだよ…、やめろ、そんな目で僕を見るな…!!」
通行人達の目にもカエサルがどこか不安定なのが見て取れたので、じりじりと彼と距離
を空け、遠巻きにしていた者は巻き込まれないよう、早々に逃げ出したりしていた。それ
が余計にカエサルを刺激し、カエサルは
「なんだよ、おまえらも僕が人間じゃないっていうのか!?おまえらみたいな奴らがいるか
ら、僕が人間に見られないんだ!!」
カエサルは急に手を振り回しながら誰彼構わず、建物のガラスを割ろうが停車中の車に
当たろうが暴れだした!
最早周りの人間達にとっては、彼が人間だろうがオートマタンだろうが関係なかった。
誰かがキャーと叫び、たちまち皆は逃げ惑う。たまたまそこに居合わせたオートマタンや
近くの店舗などで仕事をしていたオートマタンが『人間を守る』という最優先プログラム
のために出てきたが、手当たり次第に暴れるカエサルを取り押さえることはできず、逆に
カエサルが手放さずに持っている金属の箱に当たって破壊されたりした。
ふと、カエサルは恐怖でへたり込み動けなくなっているOLふうの若い女と目が合った。
カエサルはその女性の腕をつかみ無理矢理立たせた。
「や、やめて、放して!!助けて!!」
OLはもがいたが、
「うるさい、黙れ!!何もしない!」
とカエサルに大声を出されて押し黙った。何もしないと言うのを信じたのではなく、こ
れ以上怒らせたら本当に何をされるか分からなかったからだ。しかし彼女が大人しくなっ
たことで一応カエサルは満足したようだった。
『助けて』と言ったOLに反応して、会社の受付嬢でもしていたらしきオートマタンが一歩
前に出て言った。
「その人を放しなさい。あなたのしていることは犯罪です」
カエサルに機体の一部を破壊された他のオートマタンもそれにならい、受付嬢の隣に立
つ。頭が変な角度に曲がっていたり、腕が肘から取れていたりしてぎこちなく動きながら
も、完全に破壊されない以上、彼らは彼らのプログラムに従うため動き続けるのだ。痛み
の表情もなく、不平ももらさず、ただ動き続ける。
カエサルはそんなオートマタン達が怖かった。自分はこんな物と一緒の物なんかじゃな
い!
「やめろ…!僕に近付くな!!近付いたらこの女がどうなるか分からないぞ!」
カエサルが切羽詰って叫ぶと、オートマタン達は動きを止めた。それを見てカエサルは
OLの手を取ったまま走り出し、逃げた。
とにかく人通りのない方へと向かっていた。駅周辺から離れたらしく、回りは建物もあ
まり密集しておらず、工事中の店舗などもあった。ここまでは騒ぎがまだ届いていないよ
うで、誰もカエサルに注意を向ける者はいなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか、どうして逃げているのか、カエサルには分
からなくなっていた。女を半ば引きずるようにして歩いていたことを忘れかけた時、その
OLがようやくおびえた口を開いた。
「ま、待って…!!足が痛くて、もう歩けない。逃げたりしないから、少し休ませて」
カエサルは立ち止まり、一瞬不思議そうに女を見てから、手近な休業中らしき店のドア
を勝手にこじ開けて中に入る。そこは不動産屋のオフィスのようだった。
窓から離れた店の奥に入り、OLをイスに座らせた。女はカエサルを刺激しないよう、大
人しくしていた。しばらく二人は黙ったままだったが、やがてカエサルがポツリと言っ
た。
「きみも…、僕がオートマタンだと思うか?」
「え?」
とOLは顔を上げる。そんなことを聞くのはおかしいからだ。オートマタンは自分がオー
トマタンだと認識しているし、サイバーロイドはもちろん自分が何者か解っている。だか
ら正直に
「判らない」
と答えた。
「そうか…」
カエサルは怒るふうでもなく、疲れたように目を伏せる。
「僕も、自分が誰だか、もう分からなくなってきたよ…」
その彼の姿を見ているとさっきまでの恐ろしさが和らぎ、何となくOLはカエサルが憐れ
に思えてきた。
「…あなた名前は?それくらいは分かるでしょ?」
「僕は…、『カエサル』だと思っていた。だけど、それももう本当の名前だか分からな
い。…きみの名前は?」
「私はミレイ」
カエサルは今初めて彼女の顔をちゃんと見た。真っ直ぐの黒髪が背中まであり、目元が
優しそうで、ふっくらした顔立ちの若い娘だった。OLらしく事務用の淡いブルーの制服を
着ている。その左手の中指に光る銀色の指輪を見て、カエサルは何かを思い出しそうな気
がした。
「その指輪は…」
「え、ああ、これは…」
ミレイが言いかけた時、カエサルの何か妙な感じに気付いた。カエサルは指輪を凝視し
ながら頭を押さえている。
「それは、僕があげた…!」
いきなりの言葉にミレイは驚いた。
「な、何を言ってるの?これは」
「僕がきみの誕生日に、そう、あれは春の休日、前からきみが欲しいと言っていたペアリ
ングだ…!!」
ミレイは息を呑んだ。その通りだった。そしてそれを知っているのは、自分とそれを彼
女にくれた彼しかいない。しかしその彼は――――――
「な、何であなたがそれを知ってるの…?これは私達だけの思い出のはず。それに彼
は……!」
死んでいるのだ。半年前に。再びカエサルに対する恐怖がこみ上げてきた。
「あなたは…彼なの?」
カエサルも怯えた顔でミレイを見返す。何なのか自分でも解らない。彼女のことは改め
て見ても知らない女だ。でも、あの指輪は確かに『彼女』へ『自分』がプレゼントした物
のはず……。ミレイの言う『彼』とは誰だ?そんな人間のことなど知らない。
「違う…。僕は、カエサルだ…!!」
カエサルは無意識のうちに、金属の箱を守るように抱えていた。記憶が混乱している。
山京のせいだ……!!
ミレイはバカバカしい、と首を振った。このオートマタン(?)が彼のわけがない。彼が
死んだのはまぎれもない事実だし、この半年間、それを受け入れようとしてきたのではな
かったか。このオートマタンの電脳はおかしくなってしまったのだ。だから妙なことを口
走ったり、こんな行動を取っているのだ。
ミレイは余計なことを言ってまたカエサルが何かしないとも限らないので、黙っている
ことにした。
きっと自分が連れ去られる前、誰かが警察に連絡しただろう。その助けを待つのだ。