ばあちゃんと椿の花
3/17、冒頭にプロローグに当たる部分を追加しました。
「ハア、ハア、ハア…!」
真っ暗な家の中。
恐怖と不安と緊張で呼吸が荒くなって、バクバクと心臓の音が身体中に響いた。
今にも叫び出しそうになるのを必死に耐える。
歩くとギシッ…ときしむ、古い廊下を進む。
アイツに気づかれるんじゃないかって怖くて、このままUターンして逃げ出したくてたまらなかった。
でも…
(追い出さなきゃ、アイツをこの家から追い出さなきゃ…!)
この家に居るのは、俺だけじゃない。
ばあちゃんと母さんも居るんだ。
俺しかいない、あの化け物に立ち向かえるのは俺しかいないんだ…!
アイツがふたりを襲う前に、俺がアイツを倒さなきゃ…!
――アアア゛ァァ゛ア…
「っ…!」
まるで地獄の底からとどろくような音が…いや、“声”が聞こえてきた。
それと同時に嫌な異臭が鼻をついて、俺は顔を歪めた。
――近い、近い、居るわ。
――近い、近い、そこだ。
さっきの恐ろしい声とは別の、無邪気なころころとした声が俺の耳元でささやく。
それに励まされるように俺はギュッ両手を握りしめると、廊下の角からそっと顔を出した。
(居た…!)
俺の家に入り込んだ、化け物の後ろ姿。
俺より大きくて、恐ろしくて、カタカタと身体が震えた。
けどそれよりも俺はある事に気がついて、ザッと顔を青ざめることになった。
(この先にあるのは、ばっばあちゃんの部屋だ…!)
アイツ、ばあちゃんを襲うつもりだ!
あっあんなやつにばあちゃんを、殺させやしない!
意を決して俺は廊下の角から飛び出ると、武器を構えてそいつの背後に立った。
どうして、こんなことになったのか。
さかのぼること、一週間前――…。
――キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン…
「はーい、じゃあ今日はここまで。みんな気を付けて帰るように、さようならー」
「「「先生、さようならー」」」
担任の先生がヒラヒラと手を振って出ていくのを合図に、一気に放課後の騒がしさに包まれる教室。
俺は教科書の詰まった空色のランドセルを肩に担ぐと、一目散に教室の後ろのドアへ駆け出した。
「あ、おい孝太ー! グラウンドでサッカーして帰ろうぜー!」
「わりー! 俺今日はパス!」
友達の雄大の誘いに、ごめんと片手を顔の前で立ててそのままじゃあなと手を振る。
えー!?っと不満そうに上がった声は聞こえないふり。
今日はって言ったけど、俺は最近ほとんど放課後の遊びの誘いを断っていた。
案の定俺がいなくなったあとの教室じゃ、残された雄大たちが不満そうに口をとがらせていた。
「ちぇ、またかよ。孝太のやつ、最近付き合い悪いよなー」
「しょうがないよ、孝くんのおばあちゃん病気なんだって。だから家の手伝いとか、色々しなきゃいけないんだよ…」
東雲孝太、十歳。
地元の小学校に通う、ぴっちぴちの五年生だ。
少し茶色がかった普通の髪に普通の顔立ち、割と運動が好きなどこにでも居る普通の小学生が俺。
ただこの春に学年が上がって少しだけ変わったことがいくつか。
一つは春休み中に身長が少しだけ伸びて、整列の順で真ん中から少しだけ後ろの方になったこと。
体力測定で50m走のタイムが縮んで、学年で十番内に入ったこと。
あとは通学路にある駄菓子屋の飼い猫シロが、可愛い子猫を五匹生んだこと。
住宅地にするとかで、近くの山に工事が入って立入禁止になったこと。
そして…
――ガララララ…
「ただいまー」
「おかえり孝太、帰ってきてすぐで悪いけどお祖母ちゃんにお薬持って行ってあげてくれる?」
「おっけー」
「あ、先に手洗いなさいよー」
分かってるーっと返事をしながらギシギシと鳴る廊下を通って、自分の部屋にランドセルをポイッと放り投げた。
母さんに見つかったら怒られるけど、見てない時くらいいいよな。
「孝太ー、母さんちょっとスーパーに買い物に行ってくるから。すぐ帰ってくるけど何かあったらスマホに連絡してね、おやつは冷蔵庫に入ってるから」
「おやつってケーキ? シュークリーム?」
「おしい! 今日は水ようかんよ!」
「!? おしいってどこが!? 全然かすってもないじゃん!」
俺のツッコミにカラカラと笑って出かけていく陽気な母さんを見送ると、手を洗った俺は薬と水差し、あと自分のおやつをお盆に載せて奥の部屋に向かった。
昔の古い家独特の、木と紙とお香が混じったような匂いが肺に広がる。
目的の部屋の前に着いた俺は片手でお盆のバランスを取りながら、もう片方の手でふすまを開けた。
部屋の中は縁側から入ってくる日の光でほわっと明るくて、中央には畳の和室にはあまり似合わない金属製のベッドが。
上半身を起こせる介護ベッドに横たわっていたその人は、俺に気づいて優しく目を細めた。
「キヨばあちゃん、ただいまー。薬持って来たよ」
「おかえりぃ孝ちゃん。早かったわねぇ、もう学校終わったのかい?」
「うん、今日は五時間授業だったから」
キヨばあちゃん、俺の祖母ちゃんで母さんの母さんだ。
今月の頭、つい数週間前に持病が悪化して元気だったばあちゃんが寝たきりになってしまった。
そう、ここはばあちゃんの家。
いわゆる母さんの実家ってやつだ。
ただ実家って言っても、俺ん家のマンションとばあちゃん家は同じ市内にある。
ばあちゃん家は俺の通う小学校を間に挟んで、俺ん家のマンションとは正反対の場所にあるんだ。
最初はばあちゃんを俺ん家のマンションに引き取ろうとしたんだけど、ばあちゃんが住み慣れた家から離れるのを寂しがったから。
だから母さんの方が実家に戻って、泊まり込みで世話をすることになったんだ。
マンションに残ったのは、近くの駅から電車通勤して残業の多い父さんだけ。
俺も母さんに付いてって、ここ最近はばあちゃんの家から学校まで登校していた。
通学距離が長くなって朝十分早く起きなきゃならなくなったけど、ばあちゃんの傍に居られるならそれくらいへっちゃらだった。
「ばあちゃん、毎日寝てばっかりでつまんないよな? 俺にできることあったらさ、何でも言ってよ」
「ありがとうねぇ、孝ちゃんは優しいねぇ。孝ちゃんこそ無理しないで、ばあちゃんのことはいいから、お友達と遊んできていいんだよぉ」
「別に無理とかしてないよ、それに友達もみんな塾や部活とか忙しいからさ」
少しだけ嘘をつく。
確かに外で遊べないのは少し体がムズムズしたけど、体育の時間や昼休みにいっぱい動いてるし。
何より優しいばあちゃんのことが大好きだから、俺はほぼ毎日学校から帰るとばあちゃんの部屋に直行。
部屋に置かれたばあちゃん用の小さなテレビで一緒に時代劇を見たりして、ばあちゃんの話し相手になっていた。
ばあちゃんの詳しい病名は知らない。
少し入院したあと自宅療養って流れになったけど、それがいいことなのか悪いことなのか俺には分からなかった。
具合い悪そうにしてることも多くて少しやつれてしまったけど、でも入院してる時より家に戻ってきた今の方が元気に見える。
にこにこと機嫌よさそうに笑ってるキヨばあちゃんを見てるとこのまま治るんじゃないかって思ってしまう。
元気になって、また前みたいに庭でせっせと草いじりして、台所に立って美味しいキンピラゴボウを作ってくれるようになるんじゃないかってさ。