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倍速の種

 倍速の種。

 その奇妙な種を手に入れたのは、商店街の一角で行われていたフリーマーケットでのことだ。

 売り人の話によると、種を育てて実を食べれば、『倍速』で生活することが出来るというのだ。

 詳細を聞いても詳しいことは教えてもらえず、どうせ適当な嘘だろうとは思ったが、値段は五百円と、それほどでもない価格だった。

 男はその場で一分ほど悩んだ末、面白半分でその種を購入してみた。

 種を手に入れたのはいいが、これだけでは育てられないと気づき、家に帰る途中でホームセンターの植物販売所に寄り、陶器の鉢植えと肥料土も買った。土はどんなものが良いのか全く分からなかったため、レジの所にいた若い女性店員に訊いてみた。半目気味で、覇気の感じられない頼りなさそうな女性だったが、他のスタッフは見当たらないため仕方がない。

 女性店員からは、どんな植物を育てるのかと訊ねられたが、自分でも分からない種なので、そんなことは知るよしも無い。曖昧に返答を濁した結果、比較的万能な土を薦められ、言われるがままにそれを購入して帰路へ着いた。

 男の住まいは築20年の賃貸アパートである。

 一人暮らしのその部屋が迎えてくれるのは寂しさだけ。

 二十代半ばを越え、小さな会社の、いちサラリーマンとしての日々。生活にはなんの起伏もなく、ただ同じような日々の繰り返し。何か夢を掴みたいと思ってはいても、せいぜいが宝くじを購入することくらい。それだって、一万円すら当たったためしもないのだ。

 だからといって、こんな小さな種一つに新たな希望を見てしまった自分をバカらしく思い、嘆息を零す。それでも、ただ棄てるのはもったいない。

 煙草を一本咥えながら、買ってきた鉢植えと肥料土、そして種を持って、ベランダに出る。

 コンクリの壁で囲まれた申し訳程度のスペースしかない床に鉢植えをゴトリと置くと、肥料土の袋を破り、鉢植えの縁ギリギリまで土を敷き詰める。後は中心にくぼみを作り、そこに種を植えて水を掛けてやれば、とりあえず終わりだ。

 男は露店で買った種を指で摘むと、いぶかしい目でそれを見つめた。

 種は楕円形で茶褐色、直系二センチ程。一見するとアーモンドのようでもある。

 匂いは一切せず、何か不思議な力を宿しているようには到底思えなかった。

 男は軽く鼻をならしてから種を土の中へ埋めると、コップで水道水を一杯くれてやった。


 その日から、男の植物を育てる生活が始まった。


 とはいえ、野菜や果物なんて作ったことの無い不精な男である。せいぜいが小学校の頃に朝顔を育てたくらい。

 日陰が良いのか日向がいいのか……または、どのくらい水をやったら良いのかなど、一切が手探りであった。

 最初は変化の見えない日々にもどかしさを感じていたが、それでも一週間後には、鉢植えの中から小さな芽が一つ出てきた。芽は日に日に大きくなっていき、ふた月も経つ頃には根が鉢植えの底から張り出し、枝葉はしなるほどに伸びた。

 そして更にひと月後。植物は花開き、ついに一つの実をつけることに成功した。

 それは赤く丸い、さくらんぼのような形で、匂いを嗅いでみると、栗の花のようなツンとしたものがあった。少なくとも、自分の知らない果実であることは間違いなかった。

 男は柄にも似合わず感動的な気持ちになったが、本来の目的は植物を育てることではない。出来た実を食べて、その効果を確かめることにある。

『倍速の実』ということは、単純に考えれば、格段に速い動作が出来るようになる、ということではないかと男は予想した。

 もし足が驚異的に速くなるなら、短距離走の選手を目指すのもいいかもしれない。

 昔はオリンピックに憧れていたし、中学時代には陸上部だった男にとって、それは夢のような話でもあった。

 運動から離れ、ずいぶんと余計な肉のついた今の実力が、仮に100m16秒台だとしても、倍速になればその半分――僅か8秒で走りきることが出来るわけだ。

 これは、どんなトップアスリートでも到底歯のたたない記録である。

 オリンピックで世界の最速ランナー達を置き去りにすることが出来たら、どんなに気持ちが良いことだろうか……。

 そんな妄想を膨らませながら次の日を迎えると、男は適当な理由をつけて会社を休み、近くの公園に出向いた。

 午前中の公園は閑散としていて、老人が一人、片隅のベンチに座っているだけ。

 これなら誰に邪魔をされることもなく、効果を確かめることが出来るというものだ。

 硬くなった身体をストレッチで伸ばし、軽い準備運動を終えると、育てた赤い実をジャージのポケットから取り出した。

 これを食べることには一抹の不安もあるが、それでも、まさか死にはしないだろうし、駄目元なのは承知の上であると、思い切ってその実を口の中に放り込み、一口噛んでみた。

 すると、潰れた実から溢れ出した果汁が、たちまち口内に広がる。

 ――苦いっ!

 それはとてつもなく苦かった。まるで渋柿でも食べたかのような、強烈ないがらっぽさが、口の中に纏わりつく。

 とはいえ吐き出すわけにはいかないと、持ってきていたペットボトルの水で、一気に胃へと流し込んだ。

 口には軽い痺れが残り続けたが、とにもかくにも、これで準備は出来た。

 口をすすぎ、ようやく一息ついたところで、まずは一本、公園の端から端までの直線を走ってみた。

 運動不足の身体は想像以上に重かった。足に数十キロの重りでもついているんじゃないかというくらいに腿が上がらず、動きが倍速になったようには思えなかった。

 ――……まだ実が消化されていないのかもしれないな。

 しかしその後も、何度となく走り続けてみたが結果は変わらず……。夕方近くまで一人で粘ってみたものの、ついに倍速の実の効果は、全く持って見えず仕舞いだった。


 汗だくでアパートへ帰ると、男は洗面台の鏡で自分の疲れた顔を見た。

「くそっ。こんなガセネタに振り回されるなんて……」

 我ながら馬鹿なことをしたと思いつつ、目立ち始めた白髪を一本抜き棄ててから、汗を流すために風呂場へと向かった。その背後で、はらりと舞った白髪が床に落ちる。


 倍速の実――、その効果は確かに出ていたのだ。


 とはいえまさか、自分の『命の速度』が倍になってしまったと知るのは、まだしばらく後のことであろう……。                                          

                                            終。

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