その右手と左手は要らない
空から女の子が落ちてきた。
存在しない親方に伝える暇もなく、私は持っていた荷物を放り出し、たいして鍛えてもいないひょろひょろの両腕を差し出した。
私の耳に届いた嫌な音は、手首の折れる音か、私の心が折れる音か、どちらだっただろう。
慌ただしく周囲の人間が騒ぎだし、その中心でへたりこむ私の腕の中で、少女は去った筈の危機に今頃恐怖を覚えたのか、ぼろり、大粒の涙を溢した。
わんわん泣きわめく少女を見つめながら、私は僅かに身動ぎするだけで激痛を訴える我が両の腕との今後の付き合い方について思考を巡らせ、大音量の泣き声につられてちょっと泣いた。
図書館に行ったのは偶然であった。普段から本を読まない私が近寄る領域でもないので、弟から頼まれた貸出本の代理返却という任務がなければ立ち寄ることはなかったことだろう。
カウンターで手続きを済ませ、さあ帰ろうと踵を返した途端の出来事だったのだ。子どもの無邪気な声と、焦燥の滲んだ咎めるような声。頭上から降ってきたそれらに、何気なく上を見上げた。
二階スペースの手すりに乗り上げた幼い女の子がぐらり、バランスを崩し、その小さな体を宙に落とそうとしている光景に息が止まった。
空、ではないけれど、図書館の二階から降ってきた女の子は、弟にパシらされた不憫な私に、ジブリ的展開ではなく右手首の骨折と左手首の捻挫を与えたのである。
治療費云々は親同士が話し合って解決した。ペコペコと頭を下げる相手の親に対して、私の母は手を振って軽く答えていた。
私の両手首を代償に無傷で済んだ落下少女は、泣きわめいたせいで真っ赤になった顔で「ありがとおございました、おねえちゃん」と自分の母にしがみつきながらカンペを読むようにお礼を言ってくれた。数日後には『おねいさゃん、あいがとうございました。おねいさゃんのおかげでわたしはげんきです』とクレヨンで作製されたお手紙まで寄越してくれた。
……まあ、幼いとわからないもんだよね。本人は傷ひとつないもんね。別に、透けて見える言わされた感と書かされた感に複雑な気持ちになったりなんてしてないもんね。おねえさゃんは心が学校の校庭くらい広いんだぜ。サッカーできちゃうわ。
いや、それに関してはもういいのだ。目の前で小さな女の子がグチャッとかなっていたなら、とんでもないトラウマを生み出してくれたことだろうから。一生引きずる自信がある。虎にも馬にも私は勝てねえ。動物園で馬に人参をあげようとして、間近の迫力に怯え失禁した幼少時代の悲しい思い出を私は忘れない。というか、動物番組を見るたびに母がほじくりかえしてくるので忘れられない。もうやめて。それこそがトラウマだわ。
閑話休題。
今の問題は、日常生活にあまりに大きな影響を与える不自由な両手。そして、
「あの子を守ってくれたこと、本当に感謝しているんです」
「責任をとらせて、あなたの手の代わりを務めさせてほしい」
「……え?」
二人の男女の荒唐無稽な懇願である。
彼らはあの場にいたらしい。落下少女の兄と姉であるこの二人は、自分たちが保護者として連れていった図書館であのように妹を危険にさらしてしまったこと、私に怪我を負わせたことを非常に心苦しく思っているそうだ。
病院で治療を終えたところに待ち受けていた彼らにより近くのカフェに連行された私は、ひくひくと顔が引き攣るのを感じた。注文してもらったココアは、カップの取っ手が掴めないので序盤に諦めた。
机にのせたぎっちり固定された右手と左手にはそれぞれ、痛まないようにそっと二人の手を添えられ、向けられる真摯な瞳が辛くて背筋が変に伸びた。うーん、なんだかおかしな状況が生まれている気がする。
未だ理解の及ばない提案への返答はさておき、どこか見覚えのある二人にたどたどしい口調で名前を聞けば、なんと同じ高校に通う後輩だった。関わりはないが、それはそれは、有名な二人だった。
彼らは恐縮する私を無視して真剣な顔で述べる。
「治るまで、俺があなたの右手になります」
「じゃあ、私が左手」
年の離れた妹を溺愛する、美形変人双子兄妹。これが、学校中が彼らを語る言葉だ。
右手担当らしい兄の方が、ココアの入ったカップを呆然とした私の口元に運ぶ。傾ける勢いが予想を超え、口の端から垂れそうになったところをすかさず妹の方がおしぼりで拭った。難しいね、と整った顔立ち二つが真面目に頷き合っている様子に目眩がする。
笑って断っても困り顔で断っても怒り気味に断っても、勿論泣きながら断っても拒否された。
ということで、その日、私は負傷した両手の代わりに、イケメンな右手と美少女な左手を手に入れたのである。
意味がわからない。そんな見目の良い右手と左手は要らないと思う。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った数分後、覚束無い手つきで教科書を片付けていると、教室内がざわっと控えめに反応した。誰が来たかなど見なくても予想がつき、思わず軽い溜め息をつく。
もう一週間が過ぎたのに、このクラスメイトたちは未だに彼らの存在に浮わついているらしい。まあ、私もまだまだ慣れないけど。
「教科書を片付けるくらい俺らがやるから、休んでてください」
「はぁ……同じ学年で同じクラスだったなら授業中も側を離れず教科書を捲るのも板書をとるのも欠伸をするときに口を押さえるのも私たちがやるのに……」
「先輩は右利きなんだから板書は俺の仕事だろ」
「じゃあ私が教科書を捲る」
本気で右手と左手をこなそうとする彼らに、一体どう慣れればいいというのだ。
昼休みのため、昼食を持参して先輩の教室に躊躇いなく飛び込んできたこの双子は、周囲の好奇の目に一切の反応を示さない。彼らくらい心臓が強ければなあ、と思うが、それより私の両手首がもっと強ければこんな不思議な状況にはならなかったのになあとサポーターに包まれた両手を見下ろした。ああ不甲斐ない。
ぼんやりしている間に近くの席の椅子を借りた二人が私を囲うように座り、机の上は片付けられ、お弁当が用意されていた。彩りも栄養バランスも完璧なお弁当。
「わー今日も美味しそ」
「あ、ありがとう、ございます……」
コンビニの菓子パンをちびちびと齧る私が不憫だったのか、それとも二人のお弁当を見る目が相当に物欲しげだったのか。数日前から私の分のお弁当を作ってくれるようになった左手担当の後輩ちゃん、略して左ちゃんが、少し照れたように微笑んだ。
さらりと揺れる黒髪を耳にかけて、照れたことを誤魔化すように目を伏せてお茶の用意をする様子につい見惚れてしまう。普段は表情が薄い人だから、こういうのを見ると同性にも関わらずきゅんきゅんくるわ……。私の近くの席の男子がだらしない顔をしているので確実に惚れたなあれは。
見た目の麗しいこの双子は当然おモテになるが、告白の断り文句が一律『妹との時間が何より大事なので無理』だそうです。落下少女、とんでもなく愛されてらっしゃる。可愛かったもんなあ。
「はい先輩」
「ん」
右手担当の後輩くん、改め右くんが、私の口に卵焼きを運ぶ。着々と食べ進め、時折左ちゃんがお茶を飲ませてくれる。美男美女を侍らせ何をしているんだろう、と冷静になったら死にたくなるので、今はこの美味しい食事に専念するしかない。
初めは二人のファンだかなんだか知らないが、物言いたげな視線を感じたこともあったのだが、世話をされる私が死んだ目をしているのを見てかやがてなくなった。諦めないでよ。いっそ糾弾してくれよ。それを理由に離れるから。
プチトマトを口に運んでくれる右くんと目が合い、にっこり微笑まれた。そしてざわめく周囲。恐らく下手くそであろう笑顔を返しながら、溜め息をつきかけた口を差し出されたトマトで埋める。なんだろう、最近よく笑うなあこの二人。
こんな持ち主の居心地が悪くなる右手と左手は要らないと思う。
二人はどこまでも右手と左手を務めようとした。朝早くに迎えに来て、身支度から朝食まで補助し、私の分の荷物を持ち登校し、休み時間の度に現れては教室内をざわっとさせた。勿論放課後も家まで着いてきて、制服を着替えさせてもらい、夕食の補助を終えたところで自分たちの家に帰っていく。風呂とトイレだけは懇願して勘弁してもらった。おかしい、どうして私が必死に頼み込んでいるんだろう。私の立場が弱すぎて悲しい。
しかし完璧に私の介護、もとい世話をしてくれた二人のお陰で、怪我をした両手を無理に動かしてしまうようなこともなく、順調に回復した。
両手の回復。それはつまり、代わりの両手を手放すということである。
「だから、もう二人の補助は要らないんだ。今までありがとう」
完治した左手と、完治間際の右手を見せつけるように顔の横に持ち上げ、いつも通り朝から家に来た二人に笑いかける。
にこにことご機嫌な私に対して、二人は神妙な顔をして私の手を見つめていた。
「……右手はまだ完全に治ってはいないんですよね。なら俺が、」
「兄さん、それは」
「でも」
何かを言い募ろうとした右くんの腕を掴み、左ちゃんが咎めるように首を振った。責任感の強いらしい二人だから、完全に治っていない右手が心配なのだろうか。真面目だなあ。
自分の鞄を左手でしっかり持ってみせ、もう大丈夫であることをアピールしながら登校した。学校に着くまでの間、二人の口数はいつもより少なかった。
右くんと左ちゃんを侍らせて、ご飯を食べる私を見た。
諦観の眼差しでどこか遠くに思いを馳せながらブロッコリーを咀嚼する私は、自分を挟んだ二人が誰をも魅了しそうな笑みをたたえていることに気がつかない。いや、気がついていても違和感は覚えないのだろう。頭を働かせていないのだから。我ながらぽんこつである。
年の離れた妹を溺愛する美形変人双子兄妹は、笑わない。
噂は知っていた。所詮噂だと思っていた。
何かがおかしいと気がつくには、しかし遅すぎたのだ。
目が覚めたら、カーテンに囲まれたベッドに寝かされていた。ああ、ここは見たことがある。去年の夏の終わり、体育祭の練習に張り切りすぎた結果、熱中症で運ばれたのだ。
自分の意思で来たことはない保健室に、今回もまた知らぬうちに運ばれたらしい。何か夢を見たような気もするが、もう思い出せなかった。
意識がはっきりするに従い、どくどくと鈍痛が走る額にそっと手を当てると、少し腫れていた。ハンカチに包まれた氷水入りの袋が枕元に落ちていたので、私のたんこぶはこれで冷やされていたのだろう。
さて、何故こうなったんだっけ。
自分の手で鞄を持ち、自分の手で欠伸をこぼす大口を押さえられる喜びに少々浮かれていたのは覚えている。
久しぶりにクラスの友人と過ごした昼休み、片手で食べられるおにぎりと、楊枝で刺して食べられる手頃なおかずをお弁当に持たせてくれた母に感動したのも覚えている。味は左ちゃんのが美味しかった。
そうだ、放課後だ。
帰りのホームルームを終えた教室に、右くんと左ちゃんが現れたのだ。私が怪我をして以来、姿を見せないことはなかった二人が一日ぶりにやって来たものだから、クラスメイトはざわっとした後にそわそわっとしていた。
二人から話があると言われほいほいついていき、それで、
「……あれ?」
それで、どうしたんだっけ。
ガラリ、ドアを開ける音がして、咄嗟に目を閉じた。驚きと、何か具体性はない不安と焦燥に、心臓がやかましい。
静かな足音が近づいてきて、ゆっくりとカーテンが開けられる。足音は二人分だった。
「あ、まだ寝てる」
「頭打ったんでしょ。大丈夫なの?」
クラスの友人だろうか、なんて希望の入り混じった予想はあっさりと裏切られた。ここ暫くずっと一緒に過ごしていた人たちの声を聴き間違えることはない。右くんと左ちゃんが囁くような声で言葉を交わしていた。私がまだ寝ているから気を遣っているのだろう。ああ、起きるタイミングを逃した。
あ、今起きました~、みたいな演技をできるだろうか。人って起きる瞬間はどんな感じだっただろう。瞼を決して開けることなく、表情を無にしたまま、脳内で小さな私がどうしようどうしようとぐるぐる走り回っていた。
「まさか手で庇おうともせず頭で受け止めるとは思わなかったんだよ」
「私たちがいたから手を使う習慣が疎かになっていたのかもね。でももっと違うやり方があったんじゃないの?」
「お前だって賛成しただろ」
何の話だろう。耳に届くどことなく不穏な会話に、ますます起床のタイミングが逃げていくのがわかる。こっちおいで、戻っておいで。
「手が使えなくなりさえすればよかったのに。こんなにおでこが腫れちゃって。先輩が可哀想」
手が使えなくなりさえすれば?
起きてさえいれば目をかっ開いて間抜けに驚いた顔になっていたことだろう。視線を感じるので彼らは私を見つめながら話しているのかもしれない。目は僅かでも開けられない。代わりに脳内の小さな私が飛び上がっていた。
「だって俺らが先輩の近くにいるには、これ邪魔だし」
これってなんだろう。知りたいけど、知りたくない。とりあえずわかるのは、今は絶対に目を覚ますべきでないということ。掛布団からはみ出した手を中に仕舞い込みたくて仕方ないけれど、どうにか堪えた。私は死体私は死体私は死体。
「先輩には俺たちがいればいいのに」
「うん。だからこの右手と左手は要らないよね」
いや要るよ!
死体が死体らしく青褪めている間、脳内の私は必死に叫んでいた。
もう絶対、空から女の子が降ってくるシチュエーションには遭遇しないようにしようと決めた。ジブリのあの映画も嫌いになった。
明日も私のこの右手と左手が無事でありますように。
お読みいただきありがとうございました。
双子が主人公に執着したのは、彼女が最愛の妹を超えて手のかかるぽんこつだったから、だと流石に可哀想なので、多分何かどこかが琴線に触れてしまったのだと思います。きっかけとか経過とかもっと考えるべきだった、ぽんこつは私か……。
なんだかホラー染みた右くんと左ちゃんですが、今後は主人公と手を狙い狙われる追いかけっこな楽しい関係を築くことと思います。