義民の末裔 その五
さて、国家老としては三人居た。苛税取立てを献策した城代家老の内藤治部左衛門、弟の内藤舎人、そして、苛酷な課税取立てで立身出世を重ね、家老となったと云われる中根喜左衛門の三人である。この三人の中で、国許随一の実力者とされたのは舎人であった。
したたか者との評判を取っていたが、和歌、俳諧に明るい内藤一族の血を引いていたためか、舎人は夫妻揃って歌人としても知られていた。一揆の頭取、柴原村の長次兵衛からは斬首の際の辞世の句で、『悪魔舎人にせめて一太刀』、と指弾された人物であったが、兄には忠実な弟であり、或いは、兄から言われ、敢えて悪役の役目を一手に引き受けていた人かも知れない。
一揆が終息した後で、舎人は一揆の責めを負って浪人し、近在の四倉というところに隠棲し、家財道具を売って細々と暮らし、困窮した淋しい晩年を送ったと云われている。
この三人が郡奉行を呼び、増税案を示した。三人の郡奉行の中で、三村務右衛門が百姓に同情するような発言をしたが、内藤舎人に、お前の言うことは重々承知しておる、但し、この増税案は恐れ多くも政樹様から直々にお示しになられた案件である、反対するのは誠に不忠の極み、何とかするのが郡奉行たるお主たちの仕事ではないか、と強く叱責された。
結局、仰せの通り致しまする、と郡奉行の三人、三村務右衛門、遠山治兵衛、宇野与太夫は頭を垂れて承服した。まさに、長いものには巻かれろ、我が身大事という奉行たちであった。その後、郡奉行たちは名主を始めとする領内各村の村役人を集め、今回の増税の内容を示し、協力を求めた次第であった。名主たちが一様に驚き、頭を抱えたことは言うまでもない。また、藩は側用人・三松金左衛門、郡代・川崎刑部、奉行・原田八太夫といった石高三百石以上の藩重役の三人をこの増税徴収の担当と決め、否応無しの徴収体制を構築した。この三人の中で、郡代の川崎刑部は三百石・家老格の家柄で増税徴収の最高責任者となり、百姓の怨嗟の的となった。
一方、名主を中心とした村内の会合、名主同士が集まった各村合同の会合が秘密裡に開かれ、一揆を以てこの苛税の重大局面を打開すべし、という決議に至った。そして、一揆に関する申し合わせをいろいろと決めた後で、その結論を、発起人を隠すための傘連判廻状に書き上げて、村々に廻送したのであった。七月上旬、名主の総会で最後の相談が行われ、【惣じて、百姓は小刀一本を持つ事、叶わざれば只農具、山刀・鎌・鋤・鍬を携い、出立の装束及び用意は左の如くすべし】と以下の十ヶ条の申し合わせまで決めた。十ヶ条の定め(実際は、十一ヶ条)には、古木綿を着用する事、頭巾は砂を入れた藁で作る事、蓑着用の事、人数は一組を百人とする事、五日分の飯米を各自用意する事、汁椀一個を用意 水飲用とする事、竹の節をくり抜き法螺貝とする事、家一軒より一人の他、出でまじき事、当年の貢米は一粒にても納めざる事、廻船の木綿帆にて陣幕とする事、常陸国水戸界、白河界、相馬仙台界に五百人宛を置き他領の加勢を防ぐ事、といったことがこと細かく記載されていた。
九月十三日、夜半秘かに、百姓たちの年貢減免を書き連ねた、十八ヶ条の請願書が傘連判廻状として、領内の各村に廻された。その廻状には、平城下に参集する日取りまで書かれていた。九月十六日、百姓が一斉に決起するという不穏な情報が磐城平城内で囁かれていた。しかし、藩としてこの事態に対応する、といった動きは一切無かった。
私たちは街角の喫茶店でコーヒーを飲みながら、元文一揆の話をした。
「この一揆の巨悪は誰だと思う」
私は佐藤に訊ねた。佐藤は暫く考えてから、私に言った。
「俺自身は、内藤治部左衛門がどうしても気に入らないな」
「内藤備後守を手玉に取って、騙したからかい」
「うん、それもあるけど、一揆が終わった後の処分でも、治部左衛門は結局、隠居しただけだろう」
「弟は浪人して生活が困窮したのに比べて、身の振り方が上手という印象を受ける」
「武藤、君もそう思うだろう。弟に散々悪役をやらしておいて、本人は隠居で済んだのは、何となく、嫌な感じがするね」
「でも、殿様は別として、殿様以外の藩重役は今で言うと、世襲制の高級官僚なんだろう。現在のように、一代限りの官僚とは違って、子孫の恥になるようなことはしないと思うけど。どうなんだろうか」
「一代限りの今の官僚は無責任極まるか。確かに、そうかも。でも、世襲制の官僚よりは野心的な仕事をすると思うけどね」
「佐藤よ、その野心的な仕事、というのも実は曲者だぜ。民の方を向いた野心的な仕事ならばいいけれど、多くは自分が所属している省庁の事務方トップを向いた野心的な仕事では、民益にはならず、省益、ひいては個益、つまり個人益となってしまうもの」
「おっ、武藤もなかなかきついことをぬけぬけと言うじゃないか。官僚と言えば、俺たちと高校同期で、東大の法学部に現役で入った松田。武藤、知っているだろう。あの松田は東大に入ったその日から司法試験と国家公務員上級試験、両方の合格を目指して勉強を始めたということだよ。何でも、松田の言うことには、司法試験は別として、国家公務員上級試験に合格して官庁に入れば、若くして、民間会社よりはレベルの高い仕事が出来るというのが魅力なんだ、ということだよ。国を動かす、というのは一人の男として堪らない魅力だということさ」
「若手キャリア官僚として、国の政策を動かす、という魅力か。分かるけれど、いつまでその気持ちが持続するか、だ。今は、天下りが当たり前だけれど、松田も官庁に入れば、将来の天下り先を意識するような卑しい根性になってしまう恐れもないとは言えない」
九月十七日、領内の百姓たちが一斉に蜂起して、各村から磐城平城に向け、進撃が開始された。史書には『一抹の妖気』が俄かに湧き起こり、『檄文一通』が各村を駆け巡り、この一揆になったように記載されているが、この一揆は突然起こったものではなく、数ヶ月という期間をかけて入念に密議の上にも密議を重ね、周到に準備されたものであることは疑うべくもない。
一揆勢は二尺五寸の白木綿の小旗に村名と組名を書き、この決起に、不参加の村があれば容赦なく焼き払う旨を事前に全ての村に警告していた。そして、その警告通り、不参加を表明した村の割元名主の屋敷、百姓苛めの豪商の屋敷を襲って、家屋敷は勿論、家財道具、什器に至るまで徹底的に破壊した。一揆勢は磐城平城への進撃の過程で、狐塚村の割元酒屋・与右衛門宅、赤沼村の割元・七右衛門宅、平三町目の割元米屋・市郎左衛門宅、更には、平紺屋町の豪商・丸屋七右衛門宅を襲撃したのであった。市郎左衛門は藩役人の三松金右衛門と誼みを通じていると噂されていた米屋であり、また、丸屋七右衛門も賄賂を藩役人に贈り、密接に結託し、米の価格を操作したりして巨利を占めているとされていた豪商であった。一揆の攻撃対象となった割元名主と云うのは、関西で言えば、大庄屋のことで、世襲の村役人名主で豪農であった。
郷村の中では財閥であり、村内の百姓から見れば、日常的な生殺与奪の権を握る地域のボスであり、普段から百姓の怨嗟の的となっていたのである。
百姓たちは、『天網恢恢疎にして漏らさず』、おらたちが天網であるとばかり、日頃の怨みを存分に果たしながら、意気揚々と磐城平城に向け、進撃したのであった。そして、最終的には、磐城平城の東、鎌田口に五千人余、南は谷川瀬口に三千人余、白土八幡の境内には二千人余、西は長橋付近に三千人余、北は平久保(平窪)一帯に三千人余、好間口に四千人余と一揆勢が竹槍、蓆旗を掲げながら集結したのであった。
その後、夕方頃から、【所々で大声を立て、百姓たちは平城下へ集まり出したと聞いております】となり、【城の大手門まで百姓たちが押し寄せた】と史書にあるように、百姓一揆の群れは続々城下へなだれ込み、磐城平城を囲み始めたのである。その状況は、『磐城史料』の表現に依れば、【勢い、驟雨の野を過ぎ、怒涛の沙を捲くが如く】であった。
百姓たちは藩の町内取締所であった『会所』等、藩政務を預かる屋敷にも乱入し、貢税関連含め、藩の書類等を破棄し、焼却した。続いて、二町目にあった藩の獄舎にも殺到し、牢舎を打ち破り、荒田目村の喜惣治を始め、新徴課税の減免を訴えて、入獄の憂き目に遭っていた百姓寄りの名主、村役人を牢から出して、労ったと云う。喜惣治は入牢の経緯も然ることながら、入獄後十一年という長期間、劣悪な牢内環境に耐え抜いた英雄として、一揆の頭取になって欲しいと、一揆衆から懇願されるまでに至った。そして、その夜は、夜を徹して城下の辻々に篝火を盛大に焚き、酒屋の酒蔵を開けて、酒盛りをして気勢をあげた、と伝えられている。
一方、侍たちは甲冑具足に身を固め、城に籠もり、大手門等の城内各門を警護した。
コーヒーを飲みながら、佐藤が私に語りかけてきた。
「元文一揆では、相当な時間をかけて、一斉蜂起の相談がなされたんだろうな」
「佐藤の家で、そのことに関する言い伝えはないのかい」
「聞いたことがない。と、言うか、極秘事項で秘密裏に相談されたと思うよ」
「残されている資料では、一抹の妖気が鎌田山に漂い、檄文一通が村々に廻送され、決起した、と簡単に記載されているが」
「一抹の妖気、か。なかなか文学的な表現だけど、実際は、誰かが精力的に村々を歩き、一揆実行を説得して廻ったと思うよ。俺の先祖の武左衛門さんか、吉田の長次兵衛さんか、或いは、若者同士ということで、二人して村々を廻って歩いたか」
「武左衛門さんと長次兵衛さんは相当の仲良しだったらしいけど、どんな時に知り合ったのかな」
「普通は、村が違えば、それほどの交流の機会は無いと思うし、実際はどうだったんだろうな。磐城郡全体の名主会でもあったのかな。そこで、知り合ったとか」
私たちは暫く考え込んだ。
「それと、気になったのは、百姓一揆を事前に藩は知っていながら、何も手を打っていないことだ。何でだろう。正確な情報とは見ていなかったのかなあ」
私が疑問を佐藤にぶつけた。佐藤は少し考えた後で、ぼそっと呟いた。
「事前に知って、行動を起こすかどうか、それが問題か。まるで、ハムレットだな。起こすべきか、起こさざるべきか、それが問題だ。武藤よ。君なら、どうする」
「情報がどこかで停滞せずに、藩の重役まで流れたと仮定する。藩重役は何もしない、と考えるのが妥当だろう」
「俺もそう思うよ。だって、事前防止はうまく出来る保証が無い。保証の無い話には乗らない。失敗した場合は、自分が失脚する話になるから。まして、武士の場合は失脚した場合は、藩を追放されることとなり、先祖伝来、後生大事に守り、伝えるべき俸禄を失ってしまうのだから。子孫に対する最大の罪となる」
「事前防止、未然防止は地味で、あまり評価されないものね。火事でも、防火より消火の方が華々しくて目立ち、実績としては評価される。家老まで情報が上がっていたとしても、おそらく何もしなかったと思う」
佐藤がポツリと言った。
「殿様しか、判断しないか。家老以下、誰も判断し、決定しない場合は、ね。まして、この時は、備後守は江戸に在府中か。早馬でも二日以上はかかるし、藩主の判断を仰ぐことは時間的に不可能だったんだろう。と、すれば、事前の素早い行動にはリスクが伴う。リスクを負わないのが泰平の世の武士たる所以だ。おそらく、家老か番頭クラスで握り潰されたんだろうな。起こってから、何とかする、といった方が分かりやすく、リスクは少ない、といったところか」