前編
1.
今は現代。あるところに住んでいた女の子は、
自分の夢の中で生み出した怪物に囚われ、
長い、長い間眠りから覚めることができませんでした。
じゃあ、今までのは全部夢の話?
物語のエンディングは、世界の元凶に気づいた彼女が、天から降りてきた一振りの剣を手に一刀両断!
思った通りだった?
あっけない結末にがっかりした?
怖いことなんて何一つ起こってなかった、そんなのつまらない?
それじゃあ、本当に起こったことってどんなことだったのかな?
とにかく、ここからは、女の子が生きるこの現実世界で、本当に起こったことの話。
始まり、始まり…。
2.
「嘘みたい…」
ベッドの上で、長い髪の女性は顔を覆って呟いた。
そして続ける。
「6,7,8…私、8か月以上も眠ってたの?」
その問いに薄い色の金髪をした白人男性が日本語で答える。
「うん。ご両親の話によると、今日まで一度も目を覚まさなかったそうだよ」
「石…」
彼女は呟いた。
「石?」
金髪の男性は訊ね返す。
「石、ログボのチケット、どれだけ損したんだろう…」
「もしかしてグラブルの話?」
彼は半分呆れたような調子で尋ねた。
彼女はどうやら眠りに落ちる前に夢中になっていたスマホのゲームの逸失利益の話をしているらしい。
突然彼女が声を上げた。
「ああ!」
「なにごとか」
「オリヴィエからオールドコルタナがドロップした記憶があるんだけど、これってひょっとして夢なの?!」
彼はため息をついた。
「楽しい夢を見ていたみたいでなによりだよ」
「…嘘でしょー」
「課金、すればいいじゃん」
「…課金してすぐ強くなれるゲームじゃないんだもん」
彼女は悲しそうに首を振っている。
「それよりさ」
彼はそう言って身を乗り出した。
「君の夢に俺は出てきた?」
彼女は顔を上げて、彼の顔を見つめて微笑んだ。
「よく覚えていないけど、出てきたよ。なんだか、楽しかった」
3.
俺と彼女の出会いを話すならまずは自己紹介、それから彼女の話をしようかな。
俺の名前はジャスパー・ライリー。
見た目でもうわかると思うけど、日本人じゃないよ。
生まれも育ちもマンハッタン。
幼いころからお世話になってる近所のお兄さんが作った会社で働いてるよ。
仕事の内容は…まあ、便利屋みたいなこと。
今は仕事の関係で東京にいるよ。
見た目の良し悪しなんて気にする方じゃないけど、彼女からは「優しい顔立ちだね」って言われるんだ。
それって暗に男らしくない顔立ちをしてるって言われてるみたいで、なんかあんまりうれしくないんだよね。
わりと若く見られる方かな?
彼女の名前は亘理卯月。可愛い名前だよね。
髪が長くて、日本人形みたいな子だよ。
見た目が可愛いんだけどね、俺が彼女を好きな理由はそれだけじゃないんだ。
まず料理が上手なこと。
卯月がメイプル味のケーキを作ってくれたことがあったんだけど、あんまり甘くなくて美味しかったな。
見た目が思ったようにならなかったと言ってたけど、よくできてたと思う。
時々、手料理を振舞ってくれるんだけどすごく美味しいよ。
色々食べたけど、全部美味しかった!シシャモ以外。
それから、とても優しいところ。
涙もろいかな。ドラマやアニメで登場人物が死ぬと必ず泣くんだよね。
日本人って忖度の文化があるっていうか、人の気持ちを汲むところがあるよね。
彼女も人の気持ちがよくわかるみたいなんだよね。
でもね、
卯月のそれは、正常の範囲を超えているんだ。
度が過ぎた共感っていうのかな。
人の心がわかってしまうみたいなんだよ。
時々どこからどこまでが自分で、他人なのかわからなくなってる時があるみたいなんだよね。
そういうとき、卯月が戻ってこなくなるような感じがしてちょっと怖い。
でもいいこともある。
先に言ったように、とても優しいし、彼女にとってお金を増やすことは難しいことじゃないみたいだよ。
出題者の気持ちがわかるとかで、択一式で取れる資格は色々持っているみたい。
じゃあ、彼女との出会いを話そうかな。
彼女と出会ったのは、俺が休暇でバリに行った時だ。
サイクリングしてたら、民家の庭で女の子が本を読んでたんだ。
黒い髪と、白と青のまだらみたいなワンピースが可愛くて、日本人か、中国人だなって思った。
そしたら本の表紙が日本語だったからさ。
友達が日本人の彼女できたって言ってたの思い出して、俺も思い切って声かけてみたんだ。
「こんにちは」
彼女は日本語で話しかけられたのにびっくりしたみたいだった。
驚いた顔でこっちを見て、はにかんだ顔で「こんにちは」って返してくれた。
「日本人?」
って尋ねると、
「はい。あなたは、ご近所の方ですか?」
「ううん。俺は休暇で遊びにきただけ」
「私は両親の引っ越しに付き合って滞在しています。日曜日には日本に帰ります」
「偶然だね。僕も月曜から日本で仕事なんだ」
「…日本語、お上手ですね」
「ほとんどアニメと、ネトゲで覚えたんだ」
アニメとネトゲという単語に卯月は食いついてきた。
「私もアニメよく見ます。ネトゲも」
そう言って嬉しそうに笑った。
「気が合うね。よかったら休みが合う日に一緒に遊ばない?」
彼女は俺の提案に驚いたみたいだったけど、
「はい。喜んで」
そう笑顔で答えた。
それから週末ごとに卯月と遊んでるんだけど。
心配なことがあるんだ。
俺と卯月って付き合ってるのかな?
日本人って「付き合ってください」「わたくしでよろしければ」ってやり取りがないと付き合ってないみたいなところあるよね?
なんか付き合ってないような気がするんだよな。
付き合ってるのかな。付き合ってないのかな。
どっちだと思う?
4.
「お疲れ様でございました。もう帰っていいですよ」
両親と共に家の玄関を上がった卯月は彼らの前でぺこりと頭を下げて言った。
卯月の母は呆れたように言い返す。
「お騒がせしました、申し訳ありません、でしょ。心配だからもう少し居るわ」
目覚めた後みっちりと2週間入院継続して様子を見られた卯月は、一日も早く自由な生活に戻りたかった。
続けて母は訊ねてくる。
「ところで、毎週お見舞いに来てくれてた子、彼氏?」
その問いに、卯月は慌てて否定する。
「違うよ。ただの友達。バリで一緒に遊ぶ友達が出来たって言ったでしょ?」
「あら、あの子がそうなの。礼儀正しい子ね」
「それに日本語上手いしね」
卯月が真っ先に向かったのはトレーディングルームだった。
体力づくりのために置いてあるエアロバイクに、母のパジャマが打掛のように掛かっていた。
「…」
母が後ろから顔を出す。
「もう。すぐにパソコンに触ろうとする。体の負担になるでしょ?」
さらに続けていたずらっぽく笑い、
「快気祝いに『おでかけ』しない?」
『おでかけ』は体に障らないのだろうか。
卯月は、
「急いで連絡取らないといけない人がいるの。悪いけど二人で行ってきて」
「あらそう、残念ねー」
そう言いながらもその口ぶりはウキウキを隠せない。
父と母はいそいそと出かけて行った。
卯月はトレーディングルームの椅子に座ると、充電器に刺さったままになっているスマホを手に取った。
ラインを開き、メッセージを送る。
わさび【猫屋敷さん。こんにちは。わさびです。入院していました。長く連絡とれず、本当に申し訳ありません。】
『わさび』というのは、卯月のネットゲームのキャラの名前だ。
『猫屋敷』も本名ではなく、相手のキャラの名前である。
返信はすぐにあった。
猫屋敷【おお】
猫屋敷【わさびさん】
猫屋敷【心配しておりました。お体のほうはもう大丈夫なのですか?】
わさび【一応大丈夫なのですが、寝たきりだったのでだいぶ体力が落ちていますw】
猫屋敷【なんと、おいたわしい】
わさび【それで、頼まれていた絵なんですけど、あれからすぐ入院しちゃって、まだ何も手を付けてない状態で】
猫屋敷【ええ、ええ、無理なさらないで下さい】
わさび【本当にすみません】
猫屋敷【とんでもない。…もしよろしければ、グループのほうにも顔を出してもらえませんか。皆、待ちかねています】
わさび【はい。随分留守にしたので抜けた方もいるでしょうね】
猫屋敷【いいえ、みんな元気にしておりますよ。初心者さんのフォローはプリウスさんが中心になって回してくれました】
わさび【なんとありがたい。あとでお礼を言っておきます】
続いて卯月はグループチャットの方へ入った。
わさび【こんにちはー】
Metre【!】
みょん【!!】
ぷらずま【リーダー!】
アルファ【わさびさん!】
トメィトゥ【わーさん!】
Sou【わーさん!!】
ナイト【おひさー!】
オポッサム【生きておったかー】
プリウス【待ってたよー】
卯月が挨拶をすると、グループにインしていたメンバーが次々と挨拶を返す。
わさび【入院してまして、長く留守にして申し訳ありません】
茅野風香【まじでー!】
めろ【大丈夫?】
黒【もう一緒に遊べるの?】
わさび【はい、少しずつリハビリしようと思いますw何か大きな変更はありましたか?】
Metre【アルティメットアムドゥスキアが実装されて廃れていったのじぇ】
鮭とば【レベル80解放されたよ。条件があるから、わさびさんすぐには80になれないね…】
トメィトゥ【エキスパート専用ブロックがあるよ。特定の条件を満たした人だけ入れるブロックなんだけど、わーさん、あれから極独行った?】
ナイト【ロケットおっぱい】
ナイト【ごばくよー】
ぷらずま【何の話してたんだ…】
ナイト【最悪やで】
プリウス【ほんとだな】
ilmi【アルファさんが能力付けで破産してました!】
アルファ【言うなしwww】
めろ【武器をどうするかだよね】
利休【しばらく通常ブロックに戻って一緒に緊急ぐるぐるしようか】
茅野風香【そしてバッヂを集める】
ナイト【オスマントルコという単語に興奮】
ナイト【ごばくよー】
プリウス【さっきからお前は何なんだw】
めろ【集まるブロックを決めておこうかね】
プリウス【カジノ専用とかでいいんでない?】
わさび【色々変わってるみたいで楽しみです】
オポッサム【早くレベル上げたいのう】
Metre【あー、わーさん、メートル、またタロットしてもらいたいのじぇ】
みょん【みょーん。みょんも占って欲しいみょん】
ぷらずま【こら、お前たち、わさびさんは病み上がりなんだぞ】
わさび【あ、いいですよ。明日でいいですか?いつもの時間にマイルームで、メートルさんからやりましょうか。みょんさんは明後日で】
Metre【ありがとじぇー】
みょん【ありがとみょーん】
の右側に【今夜は大和かー】
わさび【ではまた夜にぷそにの中で】
黒【まったねー】
Sou【わさびさん、さっそくやる気だね!】
Metre【みんな喜ぶのじぇ】
プリウス【各員に通達:今夜はカジノ専用ブロックに集まれ】
5.
ゲームのバージョンアップ情報を読むだけで膨大な時間がかかった。
そんな卯月が他に知ったことは、株価が上がったことと、ポケモンGOが流行ったらしいということ、視聴するつもりだったアニメがすっかり終わっていたことくらいだった。
すっかり真夜中になった頃、父と母が帰ってきた。
「ただいまー」
上機嫌そうな声が玄関から聞こえる。
「卯月のオヤツ買ってきたわよ」
ウキウキとリビングへ向かったが、テーブルの上に載っていたのはプチトマトであった。
卯月はオヤツと聞いて、クリームたっぷりのコンビニプリンのようなものを想像してしまった自分の気持ちを返して欲しいと思った。
しかし、目覚めてから毎日面会に来る両親が持ってきたお菓子やらなにやらのせいで、すっかり甘いものを当然に食べるようになってしまった。
よくないことだ。
卯月はついでに全員分のお茶を淹れた。
両親に訊く。
「ねえ、いつ帰るの?」
コートをハンガーにかけながら母が、
「お父さんと話し合って、卯月が一か月普通にしてたら帰ることにしました」
さらに卯月の方を向いて、
「少しでもおかしいと思ったら卯月も一緒に連れてくことにしたから」
卯月は思わず声が大きくなる。
「それは絶対嫌!」
「『前みたいなこと』があったら困るでしょ?」
「…それはもう大丈夫だもん」
「卯月が大丈夫だって思ってるだけでしょ」
母は席について、
「とにかく一か月みっちり観察しますからね。お父さんとお母さんと一緒に規則正しい生活を送るのよ?ゲームをやりすぎたりしたらパソコン捨てるからね」
自由な生活はまだまだ遠いようだった。
6.
Metre【おにぎり】
Metre【おにぎりぎりぎり】
ミルヒオーレ【おにぎりギリギリ(賞味期限的な意味で)】
はちくま【ギリギリおにぎり(見た目的な意味で)】
めろ【どっちも食べたくないな】
Metre【ぐーちゃぐーちゃもーちゃもーちゃ】
プリウス【普通に食え】
わさび【お待たせしましたー。よろしくおねがいしまーす】
はちくま【よろー!】
プリウス【よろしく】
Metre【よろしくなのじぇー!】
めろ【よろしくね】
ミルヒオーレ【よろしー】
ヒロ【よろしゅう!】
Ryu【よろしくー】
あかり。【よろりん】
Metre【ああー、わさびさんが来たというのに、メートル、すっごくおしっこしたくなってきたのじぇ】 プリウス【行ってこい】
はちくま【つペットボトル】
めろ【今日のレベルアップクエは、ボスオンパレードです】
プリウス【一周に5分もかからない】
めろ【経験値もとっても美味しい】
プリウス【なので暗影のときはなるべく周回するのがおすすめ】
めろ【ここにいる数人はまだカンストしてないので、ぼちぼち集まる予定です】
Metre【ただいまのじぇ。ダッシュで行ってきたのじぇ】
Ryu【おかー】
ミルヒオーレ【おかおか】
プリウス【おかえりん】
めろ【おかえりー】
わさび【おかえり】
はちくま【おかえり!】
あかり。【おかえりよー】
Metre【メートルもまだカンストしてないのじぇ。わーさんとおそろいなのじぇ】
プリウス【メートルは防具作れ】
Metre【作りたいけど、いい感じにどれもこれも揃ってないのじぇ】
わさび【私はまだ一つも…】
プリウス【渡せたらいいんだけどねー】
めろ【まあ出発しましょう】
7.
「そんなわけで、一か月ぶりだねー」
「おつかれ卯月」
卯月とジャスパーを乗せた白い小さな自動車が昼下がりの国道をとことこ走る。
卯月が言う。
「オールドコルタナは武器編成に入ってました」
「あー、それ夢じゃなかったんだね、よかった」
「夢の中で、ジャスパーが『最強の犬デッキが完成した』って言ってた気がする」
ジャスパーは笑って答える。
「MURAMASA?もうずいぶん前からやってないよ」
続けて尋ねる。
「お父さんとお母さんはもうお帰りになったの?」
「お帰りになった」
「久々の親子水入らずだったね」
「窮屈だったよ。よかったことといえば、お財布とバッグを買ってもらったことかな」
「親子仲良くてなにより」
「わりとうざいよ。習慣になってるとかでウォーキングに連れていかれたし。ちょっとゲームするだけでうるさく言われるし」
「ゲームも色々とかわってたでしょ」
「ぷそにはもうサモナー一本で生きてくことにしました。ジャスパーもやりなよ、ぷそに」
「俺は14ちゃんが忙しいからなあー。14勢とぷそに勢が争ってるの見て楽しむだけにしとく」
「いいよー、ひたすらグルグル」
「…それ楽しいの?そういえば卯月、Himechanやってたんだっけね」
「Himechanじゃないですし、おすし。チームマスターだよ」
ですし、おすし。というのはジャスパーから感染った口癖だった。
ジャスパーは尋ねる。
「どう?メンバーは集まった?」
ジャスパーの問いに卯月は嬉しそうに答えた。
「集まったよ。丁度100人」
「100人?!」
8.
車窓から動物園の外郭が見え始めると、卯月のテンションは上がった。
「動物園だ!」
ジャスパーも呼応する。
「動物園だ!」
「zoo!」
「zooー!」
「はははは」
「あはははは」
駐車場に自動車を停めて、二人は歩いて動物園の大きな看板が掲げられた門をくぐった。
さすが日曜日ということか、親子連れがとにかく多い。
卯月はさっそく象を見つけうれしそうに走り寄っていく。
「見てジャスパー!すごく大きい」
象は鼻を使い、水浴びをしているようだった。
週末の外出は買い物になりがちだが、たまにこうやってアミューズメント施設を挟んで気分転換を図る。
卯月は子供の様に手すりから身を乗り出す。
目が輝いていた。
そんな卯月を見てジャスパーも嬉しそうに笑う。
対岸に同じように寄り添って象を眺めているカップルがいた。
ジャスパーの足元に3、4歳くらいの小さな子供がやってきて、はしゃいだ声を上げながら手すりをバシバシ叩いている。
ジャスパーは、のんびりと水で遊ぶ象と卯月を交互に眺めていた。
その時、
象を眺めていた卯月の眼差しが、冷たい、氷のような眼差しに変わっていた。
時々あるのだ。
自分が何か失礼をしたのかと慌てるのだが、どうもきっかけがわからない。
本当に何もないとき、突然こうなるのだ。
友達に相談してみたことがある。
すると彼はこう言った。
「そりゃお前、あれだよ、黒歴史を思い出してるんだ。あるだろ?突然記憶の底から浮かび上がってきて人目もはばからずのたうち回りたくなることが」
それはあるといえばあるのだが、本当にそんな理由で卯月がこうなってるのだとしたら、逆におもしろい。
しかし、卯月のそれには、もっと違う何か、恐ろしいものが潜んでいるように見えてジャスパーの胸には不安が広がるのだった。
9.
「かわいいねー」
二人は猿山の前で猿たちを眺めていた。
卯月が見つけた子猿を目で追って、仲間の猿にちょっかいを出したりするのを見て笑いあっていた。
ジャスパーは猿を眺めながら言う。
「たまには動物園もいいねえ」
卯月が答える。
「いいねえ」
「卯月、どっか他に行きたいところある?」
「え、今日?」
「今日じゃなくて、また後日、どっか希望があるかなって」
卯月は少し悩んで、
「科学博物館とか、美術館とか」
「なかなか渋いチョイスだね」
「ジャスパーは嫌い?恐竜とか宇宙」
「いや、俺もわりと好きだよ」
卯月は思い出した、と言わんばかりに嬉しそうな顔で、
「あ!戦慄病棟に行きたい!」
某テーマパークのウォークスルータイプのお化け屋敷だ。
ジャスパーは苦笑いをする。
「ええー」
「何?ジャスパー、怖いの?」
「怖くないよ」
言ったジャスパーの顔は引きつり気味だった。
「ただちょっとその日は、俺、おなかが痛くなる予定だから」
「何?!おなかが痛くなる予定って!やっぱり怖いんじゃない!」
卯月は笑いながらジャスパーを責める。
笑っていた卯月がふと笑うのをやめ、じっとジャスパーの目を見つめる。
「思い出した。私、夢の中で、あなたにプロポーズされたの」
ジャスパーは口元を抑えて、卯月から顔を背けた。
斜め上を見上げ考え込むような仕草をする。
それから卯月に向き直って、照れくさそうに言った。
「…わかった。式はいつにする?」
卯月は少し驚いた顔をして答えた。
「あ、私、まだ結婚とか考えてない」
「え、何?!今の!」
10.
ジャスパーが、卯月が普段良くしてもらってる友達にお土産を買って帰ることを提案し、卯月もそれに賛成した。
プロポーズ空振りも、それほどダメージになっていなかったのか、ジャスパーも卯月もニコニコとしている。
二人がショップの扉をくぐると、そこには色とりどりのお土産たちが待ち構えていた。
特にぬいぐるみ類は様々な動物を模したものがあり、その種類は膨大だった。
抱えきれぬような大きさのものもあり、抱き心地を想像すると、卯月も思わず欲しくなった。
それを察知したようにジャスパーがすかさず、
「欲しい?」
と尋ねてくる。
卯月は笑顔で首を左右に振る。
古くなった時のことを考えると買えないのだ。
命がそこにあるようで、可哀想になってしまう。
ストラップに文房具、どれも可愛く思えたが、最終的には消え物が一番困らないだろうというところに落ち着いて、カラフルな缶に入ったクッキーを選んだ。
お土産の袋を後部座席に置き、二人は自動車に乗り込んだ。
エンジンをかけてハンドルを握ったジャスパーが尋ねる。
「卯月、どこか寄りたい?」
夕飯にはちょっと早すぎる時間だった。
昼食に甘いものをたらふく食べた卯月のお腹もまだ空いてないだろう。
卯月は少し考える素振りを見せて、はっと思いついたように言った。
「あ!寄ってほしいところ、ある!」
11.
十数分後二人が立っていたのは…。
「ここは…」
絶句するジャスパーとは裏腹に、卯月は目を輝かせている。
パチンコ店であった。
ずらりと並ぶ遊技台が、とてつもない爆音を響かせている。
一つ一つが大音量で鳴り、それが何百台と並んでいるのだ。内何割が稼働しているのかはわからないが、言うなれば音の地獄だった。
それに加え、地鳴りのような音がどどどどどと鳴り響いている。
呆然と立ちすくむジャスパーの手を卯月が取って引っ張る。
「こっちこっち」
言われるがままについてゆく。
足元の絨毯がやけにフカフカしていた。
ぐいぐいと手を引いていく卯月が口ずさむ。
「海はどこかなー」
「海?」
「あ、あった」
卯月はジャスパーの手を引いたまま、同じ機種がずらりと並ぶコーナーへと入っていった。
二つ空いた席を見つけると、一つの席を指し、
「座って」
ジャスパーに指示する。
言われるがままに座ると、卯月は隣の席に腰を下ろした。
目の前の遊技台には液晶画面があり、カニや魚が蠢いている。なるほど、テーマは海なのだろう。
卯月はジャスパーに尋ねる。
「初めて?」
何気に声が聞き取りづらい。
聞かれるがままに答える。
「う、うん。やったことない」
パチンコの存在は知っていたが、入店は初めてだ。
「そっか」
卯月はカバンから財布を取り出し、一万円札を出して、
「じゃあ、今日は私が出してあげるね。縁起物だから」
ジャスパーのサンドに入れた。
卯月に言われてボタンを押すと、玉が出てきた。
「ハンドルを握ると玉が出るから、こっちに捻って調節して。この辺に打つと」
とんとんと遊技台の真ん中にある部品を指す。
「ここに入るから、狙ってね」
卯月は卯月で自分のサンドへ一万円札を入れた。
ジャスパーは困惑しながらも、ハンドルを握り続けた。
突然、液晶画面の魚たちが動き始める。
魚たちにはナンバーがついていてスロットゲームになっているようだった。
やがて変動が止まり「リーチ」と掛け声が上がる。
卯月が覗き込んで、
「魚群だ!幸先いいね!これで当たっちゃうかも」
はしゃいでいるがまったく何だかわからない。
やがて絵柄が止まり、薄緑のアザラシのようなものが3匹揃う。
「すっごーい!ジャスパー!やっぱりビギナーズラックってあるね!私も両親に初めて連れていかれたとき、数回転で当たったんだ」
そして盤面の下部を指して、
「ここが開くから、ここを狙ってね」
「はあ…」
言われるままにハンドルを微調整する。
遊技台の下に置かれたプラスチックケースに玉が落ちていく。
ジャスパーは騒音に考慮して、卯月の耳元に話しかける。
「ねえ、ねえ卯月」
「ん、何?」
「これ、やめてもいい?」
「え、どうしたの?」
「なんか面白さがわからないし、ここすごく五月蠅いし、なんかすごくタバコ臭いし、さっきから頭痛がしてきて…」
「そう…?わかった。私が変わるね。ジャスパー外で待ってて」
「うん、ごめんね」
ハンドルをパスして、ジャスパーは席を開けた。
12.
外に出たジャスパーは深呼吸をする。
パチンコ店の扉が閉まると、騒音は吸い込まれるように静かになった。
自販機でコーヒーを買い、スマホを弄りながらそとのベンチで待つこと20分。
卯月からラインが着信した。
【ごめん。確変が終わらないの。どこか入って待っててくれる?】
確変がなんだかわからないが、どうも退場できないらしい。
ジャスパーはラインを返した。
【すぐそこのネカフェに入るから】
【ごめんねー】
13.
ネカフェで漫画を読んで待つこと1時間。
息を切らせて卯月が駆け込んできた。
「おまたせえ」
そしてジャスパーの目の前に一万円札を突き出す。
「すごいね!ジャスパー。おめでとう!これはジャスパーのものだよ」
6枚あった。
ジャスパーは首を振る。
「いやいやいや、そもそも卯月のお金だったし」
「ジャスパーの引きが良かったんだよ」
「いや卯月がもらってよ」
「…そう?じゃあ半分こ」
そういって3枚を手に押し付けてくる。
「あ、ありがとう」
今までにない押しの卯月の勢いに、思わずジャスパーは受け取ってしまう。
ジャスパーは一万円札をポケットにしまうと、立ち上がった。
「うん、じゃあ行こう」
「うん、行こう」
レジで精算を済ませて、二人は外に出る。
パチンコ店に停めたままになっていた自動車に乗り込んで、ジャスパーは卯月に尋ねる。
「卯月お金いっぱいあるじゃん。パチンコする必要あるの?」
「人の営みの中でギャンブルほど不合理なものはないの。得るものはなく失うものだけ…」
卯月は芝居がかった口調で言った。
何かの作品の受け売りなのだろうが、ジャスパーはあえて追求しなかった。
「パチンコにはよく行くの?」
「半年に一回くらい。そうすると海に新しい機種が出てるから、それで遊ぶの。勝ったらラッキー、負けたらご祝儀」
「『海』のファンなんだねえ」
地味なギャンブルだったら、卯月にはポーカーの方が向いているだろうと思ったが、なんでも根を詰めてやる性格なので余計なことは言わないでおいた。
14.
イタリアンでおなかをいっぱいにした二人を乗せて、夜の国道を小さな白い自動車がとことこ走る。
卯月が寝ている間に起きた世を騒がせた事件、お見舞いに行った時病院であった面白いこと、放送が終わったアニメの見どころ、つまらないラジオにツッコミを入れたり、話題は尽きなかった。
ふと、卯月がしみじみといった感じで言う。
「…あー、日曜日が終わっちゃうねえ」
「市場が動き出す月曜日のほうが、日曜日より卯月は楽しいでしょ」
からかうように言うジャスパーに、卯月はぽつりと呟いた。
「そんなことないよ」
ジャスパーはちらりと横目で卯月を見るが、彼女は窓の外を向いていた。
白い自動車が卯月宅の塀の前で停まる。
「着きました、お嬢様」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、また日曜日にね」
「うん。ジャスパー、お仕事頑張ってね」
「うん。卯月も頑張ってね、あ、お土産忘れないように」
「そうだった」
卯月は自動車から降り、後部座席のドアを開ける。
お土産の袋を手に取って、
「じゃあね。ありがとう」
「うん。ありがとう」
ドアを閉めた。
じゃりじゃりと砂利を踏みしめながら庭を歩く卯月の後ろで、白い自動車はゆっくりと方向転換し車道へ出ていった。
玄関前に立った卯月はもそもそとバックを探り、カギを取り出す。
そんな卯月の耳元に、
「外人男をたらし込んで」
そんな小声と共に、女の笑い声が届く。
しかし卯月は何の反応も示さない。
卯月には聞こえていなかったのか、それともこれは空耳なのか…。
15.
それから卯月は何度も精密検査を受けたが、どこにも異常は発見されなかった。
こんなことでもないと、健康診断を受ける機会がない卯月は、色々な数値が見れて喜んでいた。
退院から半年たっても、何事もなく過ごしていた。
今日も今日で淡々と日常生活を送る卯月のもとに、ジャスパーからラインが着信する。
【卯月、今日のご飯は何?】
時間は4時だ。
いつもならこの時間は保存食を仕込んでいるのだが。
【今日のごはんはスーパーのお弁当です。五穀米の彩り弁当】
【卯月が好きそうなお弁当だね!でもお弁当買うなんて珍しい】
【今日は大掃除と荷物が届く予定があったから。友達からテレビもらったの】
【へえ、そりゃいいものをもらったね】
【新しいの買って使ってなかったんだって。でもこれも割と綺麗で薄いし大きい】
【それはラッキーだ】
【普通の番組が観れればそれでいいんだけど、使いこなせるかな。最近のテレビって複雑な気がして】
【大丈夫大丈夫】
卯月はテレビを観ない人間だったので、友人からテレビをもらい受けたということが、ジャスパーにとっては意外だった。
16.
秋祭りの終わるころは、もう夜はずいぶんと冷える。
退院したころは寒く、暖かくなってきたとおもったらすぐ暑くなり、そしてまた寒くなった。
寒さに弱い卯月は靴下を二重に履き、もこもこのパジャマを着て、風呂から上がるとすぐ寝床に入るようにしていた。
布団に入る前に卯月は靴下を脱いだ。
くたくたになった毛布の感触を足裏で直に感じながらでないと眠れないのだ。
この季節、布団に入る瞬間が最高に幸せだ。これで昼まで寝ていれたなら、もっと幸せなのだが。
布団の中で、靴下を脱いだ足が早くも冷たくなり始めていた。
足同士をこすり合わせながら明日の予定を考えていると、卯月はいつの間にか眠りに落ちていた。
身の毛もよだつような女の絶叫だった。
卯月は目を覚ました。
素早く枕もとの時計を確認すると時間は午前の6時である。
眠い目をこすりながら起き上がり、布団の上に広げておいたジャンパーを羽織る。
カーテンを開けて、ベランダへの窓をそっと開けると涼しい空気が流れ込んできた。
サンダルを履いてベランダに出る。
絶叫はパン屋の方から聞こえていた。
しかしパン屋の駐車場には、いつも止まっている軽自動車が二台あるだけで人の姿はない。
いや、それだけではない。
なにか見慣れないものが置かれている。
それは黄土色をした太い棒のようなものだった。
それがキャンプファイヤーの薪のように交互に組まれて積み上げられている。
卯月はもっとよく見ようと、ベランダを後にし、足早に家の階段を降りた。
卯月は簡単に髪をシュシュでまとめると、マスクをかけ、愛車のキーを持って外に出る。
愛車の鍵を開けると、中から乗せっぱなしにしていた眼鏡を取り出す。
卯月はあまり目が良くなく、運転には眼鏡が必要だった。
眼鏡をかけると視界がクリアになった。
辺りはしんと静まり返り、気温は低い。
卯月は小さく身をすくめると、敷地から外に出た。
目の前にはパン屋とその駐車場が見える。
当然今の時間は閉まっている。ショーウィンドウにはロールスクリーンが降りていた。
卯月は例のものに注目した。
車道を一本挟んでいるとはいえ、さほど道幅は広くない。積み上げられているものの形状が良く見える。
それは片方が断面を見せており、もう一方に向かって細くなっていた。
断面は赤黒く、真ん中に白い部分がある。
細くなっていった先に何かが光っていた。
金属の輪だ。指輪である。
それは小指に嵌められた指輪で、土気色をしたそれは人の腕であった。
人の腕がキャンプファイヤーの薪のように「井」の字の形になって組み上げられているのである。
腕が作り物ならば悪すぎる冗談、本物ならば大事件である。
しかし土気色になったその色は卯月にも見覚えがあった。
もう亡くなる直前に祖母の見舞いに行ったとき、病院着から出た手足がこんな色をしていたのだ。
何気に卯月が右を見る。
小さな空き地を挟んで、そこは花屋の猫の額ほどの、コンクリを敷いた駐車場になっている。
丸いものがいくつも落ちていた。
大きなものは漬物石くらいでピンク色をしており、小さなものはピンポン玉くらいで黒い斑がある。
それぞれ10以上はあった。それらが朝日の光を浴びててらてらと輝いている。
ぞくりと背筋に冷たいものが走る。
直視していられなくて、卯月は目を反らした。
勢いで左を見る。
申し訳程度の柵があり、シャッターの下りた八百屋の店舗が見える。
その店舗の手前のスペースが駐車スペースになっているのだが。
そこに何かが落ちている。
卯月はそれを見て思った。
胴体だ。
他に形容がしようがない。
手足と同じように土気色になった裸の人間の胴体である。
あるものには乳房があり、またあるものは小さかった。
胴体には手足と首が無く、あるべき場所は赤黒い切断面を見せている。
それが、首の部分を内側に向けて、ぐるりとストーンヘンジのように並べられていた。
卯月は数える。全部で20体あった。
マネキンである可能性も考えたが、マネキンには陰部は無いだろう。
やがてパン屋の住居部分の玄関が開き、パジャマのままの主人が出てくるのが見えた。
卯月は目が合う前に自宅へと引き返した。