転生前に主人公が寄る例の何もない空間で案の定神と対面してしまったけれどつい最近可愛い彼女ができたので絶対に現世に戻りたい男の話
「あぶなぐあああっーーー!」
「あぁーっ! 飛崎くんが私を庇って暴走トラックに!」
【1】
というような流れの部分まで俺はしっかりと覚えている。
そして案の定何もない白い空間に一人で佇んでいる。
「ち、畜生……! 完全に死んでる……! そして転生させられる……! 成績こそ普通だがここぞで輝く頭の閃きを持つ俺にはわかる……!」
「ほほう、話が早い人間が来たみたいで助かるよ」
俺の声に呼応するように、何もない場所からすう、と女が現れた。案の定絶世の美女だった。
「君は死んだ」
「ぜぇえええーーーーってえ言うと思った! 絶対言うと思ったそれ! 神の手違いとかそういうやつだろこれ!」
「残念はずれ。僕以外の神の気まぐれさ」
「若干雑ぅ! それであれだろ! もう生き返れないとかいうやつだろ!」
「残念あたり。でも僕は数ある神の中で最も優しい神でね。こうして君を迎えに来たというわけさ。どうも大体の話はわかっているようだから端折って話すけれど、次はどんな世界に生まれ変わりたいかな?」
「いやじゃああああーーーー!!」
俺は盛大に頭を抱えて叫んだ。
完全に見覚えがある。
親の顔より――、とは言わないが、親戚の集まりにいつもいる酒癖の悪い中年男性の顔よりはまず多く見ている展開だった。
何らかの理由――トラックとか――で主人公が死んで、謎の虚無空間で曖昧な神と対面して、覆水は盆に返らないけどこれも何かの機会だしさ、特典つきでもっかい人生やっちゃいなよ!みたいな展開になるやつ。
転生ものだ。
「俺の人生、転生ものだったのか……。なんか人と違うっていうか? 理性的で達観してるっていうか? そういうところあるからプレミアム感あるし主人公なのは間違いないと思ってたけど……。そうか、転生ものか……」
「そうそう。すっぱり諦めをつけて明日への希望とともに異世界に旅立ちたまえよ」
「でも絶対嫌」
俺はきっぱりと言った。
けれど神はノーリアクションだった。くそう、転生ものの神なんだったらもっと子犬みたいに激しい感情のブレを見せてみろってんだ。
「最近彼女ができたの! 今が幸せの絶頂なの! 異世界転生とかしたところでどう考えても今より幸せになれないから行きたくないの!」
「今が幸せの絶頂なら後は下がるだけじゃないか。少しずつがっかりしていくくらいなら今死んで生まれ変わった方がいいと僕は思うね」
「絶頂ってのは言葉の綾だろ! これからどんどん距離が近づくにつれて恋心は穏やかに胸に秘められやがて甘やかな愛へと変わるんじゃ! 俺の人生は恋愛ものなんだよ!」
そこまで言ったところで、急に白野江さん(彼女)(三千世界で一番可愛い)(ごく幼いころに結婚の約束をして、一年前に再会を果たした)(二人そろっていまいち距離を測り切れていないからお互い初々しく『白野江さん』『飛崎くん』と呼び合っている)の顔が思い浮かんだ。思い浮かんだのでふふっ、と喜びに溢れた笑みが漏れてくる。テンションが温まってきた。
「えー、一番飛崎。白野江さんとの恋愛風景の一コマやります」
「やらなくていいよ」
「やります。
『飛崎くん、覚えてる……?(裏声)』
『ああ。昔、よく二人でここに来たよね(地声)』
『うん。昔はこんな夜じゃなくて、お昼だったけど……あ、満月(裏声)』
『いや(地声)』
『え?(裏声)』
『満月は明日なんだ。今日はええっと、十四夜……(地声)』
『そうなんだ。てっきり私は……(地声)』
『あ、ごめん。野暮なこと言って(地声)』
『ううん。嬉しかった(地声)』
『え?(地声)』
『今日が満月じゃないなら、飛崎くんとまた一緒にいる理由ができるから……。ね。明日、二人で満月を見ない?(地声)』」
ぬふー、と俺はご満悦で息を吐いた。
白野江さん可愛いシーンランキング上位の一幕である。
「月がぶち壊れた後でも一緒に満月を待ちてえ……」
「途中から君一人になってたみたいだけど」
「うるせえな心の声で聴けよ。白野江さんの美声を……やっぱ聴くな。俺以外の人間が白野江さんの声を聴く必要はこの世にもあの世にもどこにもない」
「そうか、それじゃあね、」
神は言うと、ごそごそと背後の虚無の空間をまさぐり、でん!とフリップボードを取り出した。
「そんな性欲余らせたガキのための転生プランがこちらです」
「言い方ぁ!!」
「へっへっへ。まあお聞きくださいよお客様。まずこちらに一匹、どこにでもいる平凡なエテ公がおりまして」
きゅっ、とマジックペンで神が囲んだのはどう見ても俺の似顔絵(写実主義)だった。
「初っ端からケンカ売ってんのか?」
「で、ここに神の力でスペシャルなステータスがどーん」
ぺりり、とフリップからシールを剥がすと、そこには豪華絢爛の衣装を身にまとった猿(風刺画)が一匹。
「それに群がる女性キャラクターがわらわらわらわら」
ぺり、と剥がれてものすごい数の蟻に集られたえげつない猿(写実主義)。
ぺり、と剥がれて人間同士のあられもない場面(エロ漫画)。
ぺり、と剥がれて死体になった猿とその死骸から装飾品を剥ぎ取っていく中年の姿(写実主義)。
「と、このように素敵な人生を送ることができます」
「どこがだよ!!」
俺は叫んだ。
途中で挟まれたエロ漫画描写のせいで顔が真っ赤になっているのがわかり、めちゃくちゃ怒ってるように見えたかもしれない。あるいは突如興奮した猿のように見えたかもしれない。
「何にも素敵なところないだろ! 虚しすぎるわこんな人生!」
「でも冷静になって考えてごらんよ。どんなに立派に生きた人間だって最後には屍になって鳥に食われたり蛆に集られたりして肉片を撒き散らすわけ。それを考えれば生きてる間に幸せな夢を見られただけでもとってもグレートなことなんじゃないかな」
「だったらせめてその幸せな部分をフィーチャーしろよ! 一瞬で終わったじゃねえか! 営業下手すぎ部長かお前は!」
「……確かに、それには一理あるな。よしわかった。これからそのくんずほぐれつの幸福部分を大判フルカラー190ページで、」
「あんな九相図みたいな絵見せられて今更興奮できるほど肝太くねえよ!」
「してるじゃないか」
「……し、してる……。俺は一体何を考えて生きてるんだ……?」
「もう死んでるけどね」
待て待て一旦冷静になろう。
完全に向こうのペースに乗せられている。ここはいつも通りクールに本質を捉えた会話をしていこう。
「……何と言われようと転生する気にはならない。大体俺は純愛派だからそういうハーレム的なものは魅力的に映らない。というか白野江さんと比べたらあらゆる愛が霞む」
「純愛派っていうなら一度に全体に手を出さずに、一章ごとに一人ずつ真剣恋愛して攻略していけばいいじゃないか」
「根本的な解決になってねえだろ! ……違う違う、クールになれ……。
俺は白野江さん一筋なんだよ。そして小指の先が触れ合うだけで真っ赤になるようなもどかしい関係から年単位かけて手を繋ぐ計画を立ててる最中なの」
「オラオラ系のイケメン転校生が来たら二秒で寝取られそうなポジションだね、君」
「てめえ! 言っちゃならねえことを!」
その言葉が逆鱗に触れ、ものすごい破壊衝動とともに俺は神に襲い掛かった。
そして瞬きにも満たない短い時間でどピンク色のリボンにぐるぐる巻きにされて床に転がされた。
「んーっ、んーっ!」
「へへへ、その無様な姿で見ているんだな、愛しの彼女が……」
「んんgのっごごごgーーーーっ! んがいおgはいおh!!!」
「いや冗談だよ。少し大人しくしててくれ。話が進まないから」
何とか身の自由を取り戻そうとごそごそ芋虫のようにごそごそと動いてみるがひとつも解放されそうな気配はない。
くそう、小さいころからやってた謎の古武術が全く役に立たなかった。転生前に会う神ってもっと弱いものだろ。
「さっきのがまあ王道? っていうか定番プランなんだけど、ほかにも色々商品を取り揃えておりまして……」
商ってるのか。対価に何を要求されるんだ。
「二番人気の学園プラン! 学園でキャッキャウフフな日々を送るプランだよ」
紹介が雑すぎる。
「この学園プランも色々派生があってね……。
まず最近の流行りが馬鹿にされてる俺だけど~系。一般に不遇とされるポジションながら前世から引き継いだ経験を生かしてどんどん地位を獲得してくって話で……、まあ無理か。学生身分の君に大した経験があるわけでもないし、ジョック気質でもないからカースト頂点とか絶対立てないもんね。次!」
言って、神はがあん!と乱暴にフリップボードを床に叩きつけた。親の仇みたいな投げやりさだった。謎の勢いに変な笑いが出てしまった。ていうかジョックがスクールカースト頂点って認識はどうなんだ。最近はSNSとかやりまくりのなよっとした感じのが強いってこの間映画で見たぞ。いやでも神の言うことだしな……。いやでも転生させてくるタイプの神か……。
そんなことを考えてる間に「次!」「次!」と神はどんどんフリップボードを投げ捨てていく。フリップボード職人の朝は早く、夜は遅い。労働環境の是正が叫ばれている。
「あ、これはどうかな。悪役令嬢転生プラン。君こういうの好きでしょ」
「んー」
俺が週四で女装してた話はやめろ。
喋れないながらも首を横に振ってこたえると、神はそのフリップも床に叩きつけて、憂い顔で溜息をついた。こいつはフリップとどんな因縁があるんだ。
「あれもダメ、これもダメか。あとは料理が上手くてちやほやきゃっきゃとか、内政能力が高くてちやほやきゃっきゃとか、ダンジョン経営能力が高くてちやほやきゃっきゃとかあるんだけど、君はどれもダメだしな……」
料理はともかく内政と経営はやってみなきゃわかんないだろ。お前俺のステータスでも見たのかよ。
「真面目な話さ、君はもう生き返れないわけさ。それならイヤイヤ言わずに自分の来世を真剣に厳選した方がいいと思うけどね」
イヤイヤダメダメ言ってたのは半分くらいお前の方だけど。
と言ってやろうと思ったけどやっぱり口は縛られたままなので、無言で解除を要求した。
「はい」
「っぷは!」
思いのほかあっさり解いてくれた。立ち上がって手首足首の柔軟運動。
神は続けて言う。
「で、どうなのさ。僕のプランが気に入らないって言うなら、君の希望を聞かせてくれよ。最大限配慮しようじゃないか」
「絶対嫌だ。俺は現世に戻る。白野江さんが俺を待ってる」
「……だからさ、生産的な話をしようぜ。君はもうすでに死んで、」
「そうだな生産的な話をしよう。お前さ、」
「神じゃないだろ?」
【2】
「俺が死んだことを否定するつもりは毛頭ない。確かにあの瞬間、突っ込んできたトラックは俺を殺したよ。もちろんこれまでに死んだ経験なんてないけどさ。いくらなんでもありゃわかる。取り返しがつかなくなるんだよ。その感覚だけは、はっきりとわかった」
神と名乗った存在は、何の反応も見せないまま、俺の話を聞いていた。
「でもさ、だったらこの場所はなんだ? 死んだ俺がどうしてこんな風に思考して、会話することができる?
……その疑問の答えが『神』へと辿り着く前に、もっとシンプルな回答が浮かぶはずだ」
無意識に口元を手で押さえていた自分に気が付く。
怯えていた。
「これは臨死体験だ。
お前は神なんかじゃなく、死に際の俺の脳が見せた閃きなんだよ」
「……ふうん。面白い話だ」
「お前が神だって主張を明確に否定する材料はないよ。人に神は想像できない。人智を絶するような高等存在なのかもしれないし、あるいは人とほぼ同等の価値観を持つ、お前みたいな存在なのかもしれない。神にとっての人が、人にとっての塵芥なのか、それとも演劇の登場人物なのかは、少なくとも俺からは観測することができない。
だけど俺は、現代的な、無宗教の考え方に毒されてるからな。こんな状況ならお前が神だって話を信じるよりも、臨死体験による幻覚だって考えた方が納得が行くんだ」
「……参ったな」
神は……、いや、幻は、腕を組んで言う。
「理性的に誤った人間ほど説得に難いものはない。……もう少し続けるといい。説得の手立てを考えてみようじゃないか」
「説得って言葉ひとつでまたあんたの神らしさが減った。俺の尺度でな。
……臨死体験については俺も詳しいわけじゃない。が、ある程度例示することはできる。
たとえば走馬灯。これが一番メジャーだろうな。生まれてからの記憶が死ぬ間際になって頭の中に浮かんでは消えていく。古代から続く最も一般的な臨死体験だ。
幽体離脱。魂や意識が自分の身体から脱け出して……、ってやつだ。これもまあメジャーだな。死にかけたから魂が離れて……、っていうのは素朴な発想として受け入れやすい。
三途の川。幽体離脱と一種セットにもなるのかな。意識だけが別の場所に飛ぶ。この白い空間も、そういうものと捉えることができる。
そして、光体験。
臨死体験のレビューなんかを見るとかなりの頻度で出てくるんだ。死にかけた人間が、強い光を見る。これは特に宗教的体験に結び付けられやすい臨死体験で、しばしばこれを見た蘇生者はこんな証言をする。
――神を見た、と。」
俺はじっと、幻を見つめた。
反応は、ない。ただ話の続きを待つように、向こうもじっと、俺を見つめていた。
「俺は明確な宗教的バックグラウンドを持たない。同時に学術的なものもな。だから、これは単なる想像だ。
臨死体験とは、つまりは死に際の閃きだ。脳の内部で起こる最後の思考活動。その目的や機能を一つに絞ろうとは思わない。生物には要も不要も問わずして残された習性だってあるんだからな。
ただし、その中に意味を見出すことはできる。
これは俺個人の話だ。自分がこういう状況に何を求めてるかはわかるよ。
これは、現実逃避だ」
異常に口が渇く。
ごくり、と生唾を飲み込もうとしても、乾いた喉がひっついて離れただけ。げほ、と一つ小さく咳をする。あるいは、この苦痛すらも錯覚かもしれなかった。
「苦痛から逃れるための来世信仰だ。
親切な神が目の前に現れて、来世での成功と幸福を約束してくれる。そうすりゃほら、話は簡単だ。俺は後は死を受け入れて終わりに身を任せるだけでいい。
大丈夫、俺は絶対に幸せになれる……。
そんな明日への希望を抱きながら、穏やかに死んでいくんだよ。
この空間が異常に見覚えのある設定なのも、お前の口から出てくる言葉が聞きなれたものばかりなのもそれで納得いく話だ。
俺の記憶が作り出した閃きだ。記憶から想像しやすいものが選択されている。お前の話す言葉は俺の言葉から生成され、俺に聞こえの良いように編集されていく――」
一歩、二歩。
靴音はならず、ただ俺は歩む。幻の、目の前に泊まる。
ねめつけるように、そいつを見た。
「お前は死への誘惑だ。
――そこをどけ。白野江さんを、一人で置いていくわけにはいかない」
幻は、しばし考え込むように、俺の瞳を覗き込んでいた。
俺は、目を逸らさなかった。震える腕も、脚もそのままに、幻と向き合っていた。
「――ふむ」
幻は、そう言うと肩を竦める。
「お手上げだ。
お前は俺の見る幻だ――、そんな主張に対抗する術を、少なくとも今の僕は持っていない。無敵理論だね。この空間の中では」
そして、すう、と横に避けて、道を開けた。
「行けよ少年。
そして、けして振り返るな」
まるで黄泉平坂だ。
口に出そうとして、引っ込める。まるで、なんかじゃない。ここは正真正銘の、黄泉平坂だった。
幻とすれ違う。
俺は歩く。
「あ――」
そして、光が見えた。
真っ白で、強烈な白い光が、視界いっぱいに広がる。
それは一見優しいようでいて、烈しい。火にも似たそれは俺の肌を、肉を焼くように、じんじんと、染み渡ってくる。
それでも、俺は歩みを止めなかった。
脳裏に浮かぶのは、白野江さんの笑顔。
――あの子を、世界でひとりぼっちになんて、絶対にするもんか。
「死とは、」
背中から、声。
振り向かなかった。
「死とは、万物すべてに等しく訪れる。
しかし君はそれを拒絶した。僕自身がそれについて、とやかく言うつもりはない。
だが――、これからの君という存在は、おぞましいほどの苦痛の中を行くだろう。
死を拒んだものに、終わりは訪れない。終わりなき虚無の中を、君は行くのだ。
引き返せよ、少年。今ならまだ戻れる。
死の腕で抱いてやる。僕が君を――安らかに、眠らせてやろう」
ああ、きっと。
これが最後の分岐点。
この瞬間を、俺は未来永劫後悔し続けるだろう。
だけど、知るもんか。
「遠慮しとく。一途なもんでね
――久しぶりに、友達と話したみたいで楽しかったよ。ありがとな」
人差し指と中指で、背中にピースサインを作って。
R.I.P.に別れを告げて。
「やはり――、神ならざる者は、皆愚かだ」
俺は、取り返しのつかない光に足を踏み込む。
【3】
「…………んん」
「ひ、飛崎くんっ!」
「白野江、さん……? 俺は……」
目を覚ますと、青黒い夜の影が目についた。
蝋燭の密やかな明かりが天井を薄く染めている。見覚えのない景色で、ただ、ぼんやりと光る世界で一番可愛い白野江さんの顔だけが現実に覚えた。
「飛崎くん、私を庇ってトラックに……。本当にごめんね。大丈夫? 痛いところはどこ?」
「ああ、うん覚えてる。大丈夫だよ。大したことない」
身体はベッドに横たわっていた。ここまで運んでくれたのは白野江さんだろう。体格差がそれほどないとはいえ、厳しい道のりだったに違いない。申し訳ない気持ちになる。
「う、嘘だよ。あんな風に轢かれて、大丈夫なわけない」
「いやほんとだって。咄嗟に受け身を取ったから全然どこも――、わ」
「あ、危ないよっ!」
身体を起こそうとして、支えにした腕から肩が抜けた。
不格好に倒れ伏そうとしたところに、白野江さんの腕が差し込まれて、抱き留められる。
「無理しちゃダメだよ……」
花のような吐息が、頬にかかる。
「あ、ありがとう。だけど、その。ちょっと、えーっと。……ち、近いといいますか……」
「……わあっ! ご、ごめん!」
言って、白野江さんはしかし気を遣ってゆっくりと、俺の身体をベッドの上に横たえていく。
あかん。
コートを着てないから白野江さんの柔らかい手のひらとか腕の感触が伝わってきて頭がおかしくなりそうだ。
「あ、ありがとう。白野江さん」
「う、うん……。こちらこそ。……ごめんね」
「いや、だから大したことないって。それより運んでくれてありがとう。たぶん久しぶりに寝たから、そのまま疲れが出たんだと思う」
「ううん、気にしないで。でも、そうだよね。最近ずっと気が抜けなかったし……」
「うん」
「…………」
「…………」
あかん。
真面目な話をしてる最中もさっきのドキドキが全く抜けない。白野江さんが耳まで真っ赤なのもたぶん蝋燭の明かりのせいだけじゃない。
がばり、と白野江さんが立ち上がった。
「わ、私、お水取ってくるね! ちょっと待ってて!」
「う、うん。ありがとう」
言うと、どたばた白野江さんは廊下に出ていく。そのときの足音で、すぐ近くに下り階段があることに気付く。
ということは、ここは二階以上だ。
周囲を見渡すと、ベッドのほかには机、本棚、クッションにテレビ。机の上には燭台に乗った蝋燭が乗っている。俺たちが持ってきたものだ。それからごちゃごちゃした雑貨棚に目を移し、元の部屋の主は若い男なんじゃないかとあたりをつける。
普通の民家だ。
動かなくなった俺を抱えながら、誰もいない建物を探し出すのも骨だったろうに。心の中で白野江さんに礼賛にも近い感謝の念を奏上しておく。
ゆっくりと、ベッドから足を下ろす。
「――っ。やっぱ、きついな」
ぎしぎしと、悲鳴にも似た軋みを上げる全身を、ほぐすようにゆっくりと、身体を起き上がらせていく。
すでに、死後硬直が始まっていた。
「く、フ、う――」
浅く息を吐きながら、何とか窓辺に寄って立つ。
二階の窓辺からは、他に明かりもなく、ただ暗く、深海の底に沈みこんだように静かに佇む住宅街が見えた。
そして、眼下には。
『ああアあ、ウゥウ――』
その身体の半分以上を腐らせた死体たちが、まるで幽鬼のように――、いや、幽鬼そのものの姿で、地を這いずり、彷徨っている。
あれが何であるのか、俺たちは知っているようで、何も知らない。
バイオ兵器、パンデミック、死者の呪い。
インフラがまだ生きていたころはそんな流言が飛び交っていたけれど、結局真相が公表される前に、世界は壊れてしまった。
あの頃の名残で、俺たちはそいつらをこう呼んでいる――死なない者たち、と。
何もかも、わけのわからないことだらけだ。月が壊れた、あの日から。
それでも確かなことは、俺には白野江さんがいるということ――。
「あーっ!!」
背後から上がった声にびっくりして膝から崩れ落ちそうになった。
幸い、窓辺に手をかけていたおかげで、ちょっと体勢が崩れるくらいで済む。
コップを持った白野江さんが立っていた。
「なんで大人しくしててって言ったのにそうやって動くのかな、もう!」
ぷんすか怒る顔があんまりにも可愛かったからつい噴き出してしまって、
「ごめん」
と謝ると、ますます白野江さんは頬を膨らました。馬鹿にしてるでしょ?とは彼女の言。とんでもない。
ずっと立っているのも足につらかったから、ベッドにそのまま腰かけた。すると白野江さんも俺の隣に座った。たったそれだけで、瞼の裏で火花が飛び散るくらいにときめいた。
「ダメだよ。あんまり無理しちゃ……。飛崎くん、いつもそうだもん」
沈み込んだ声からは冗談の色が抜けた。
本気で心配しているのが伝わってくる。それもそうだろう。目の前でトラックに吹っ飛ばされたんだ。心配だってされる。
だから俺は、努めて明るくこう言った。
「大丈夫。俺は不死身の男だからさ」
「……馬鹿」
ぐらり、と肩が揺れた。白野江さんの側に。
彼女の腕が俺の腰に回されている。抱き寄せられたのだ、と気付くのに数秒かかった。
「人はね、簡単に死んじゃうんだよ。だから、無茶しないで。……こんな世界でも、二人でいたいよ」
知ってるよ。
その言葉を飲み込んだ。
だから君だけは。
その言葉を吹き消した。
俺もだよ。
その言葉だけ、綺麗に舌先に飛び乗った。
ああ、こんなに速く、関係を進めてしまっていいものだろうか。
思いながら、これ幸いとばかりに俺は震える腕で、白野江さんの腰へと手を回す。
海の底のように冷たく、濡れた夜の空気の中で、俺たちは寄り添った。
世界で二人だけみたいに――あるいは。
本当に、世界で二人だけだから。
「ねえ、白野江さん。明日、朝一番に、ここを出よう」
「え――」
「反対なのはわかってる。だけど必要なことなんだ。
強がりじゃなくてさ、本当に痛みはないんだ。だけどもしかしたら、時間が経ったら悪くなってくるかもしれない。動けるうちに動いておきたいんだ。もしも生存者が集まる場所があるなら、今しか、動く時間はない。……白野江さんが疲れてるのもわかるんだけど。ごめん。どうしても、そうしたいんだ」
嘘は、なかった。
痛みはない。
時間が経ったら悪くなるかもしれない。
動けるうちに、動いておきたい。
一つも偽りのない言葉だった。
ただ、言わなかっただけだ――腐り行く、指先の感覚を。
「……でも、それならもう少し休んでからでも」
「俺もそれは考えた。だけど、不安なんだよ。……正直、咄嗟でわからなかったんだけどさ。あのトラック、ゾンビだったよね?」
「……うん、たぶんそう」
「それが気になるんだ。今まで道具を使うようなやつなんて見たことなかった。まして、車を運転するようなやつなんて」
白野江さんの、身体が強張るのがわかる。
「成長してる、ってこと?」
「偶然かもしれない。だけど、時間が経つほど不利になるかもしれないっていうなら、今動きたいんだ」
「…………」
白野江さんは、黙って考え込むようなそぶりを見せ、やがて、ピースサインを作るようにして、俺の目の前に掲げた。
「二つ、お願いを聞いてください」
なんなりと、としか言いようがない。
二つと言わず百個でも千個でも聞きたい。
「一つは、無茶をしないこと。……私のためでも」
「……うん」
前半部は何とかなりそうだ。後半部については今のところ保留しつつ、頷く。
「それからね……」
ぎゅっ、と白野江さんの腕に力がこもる。
彼女は頭の良い人だから、ひょっとすると本当に俺の身体に痛みがないか、確かめるための動作でもあったのかもしれない。
痛みは、なかった。
「……お互い、名前で呼ばない?」
俺は歓喜した。
狂乱と言ってもいい。
名前で呼び合うのにおよそ年にして五はかかると思っていたのが、この展開である。喜ぶなという方が難しく、そしてどう考えても喜んでいい状況だったので、喜んで、と素早く返そうとして、
――名前、なんだっけ?
舌先が、凍り付いた。
「……飛崎、くん?」
あれほど愛おしかった人の名前が。
ノートの隅に、自分の名前よりもたくさん書いた、白野江さんの名前が。
今、頭の中から、出てこない。
まるでもう、その部分だけ、記憶が腐り落ちてしまったように。
不安げに白野江さんが俺を見上げている。
何か返さなければならない。彼女を不安にしたくない。
「あ、いや。その」
泣くな。
泣くな泣くな泣くな泣くな。
わかっていたはずだ。
あのとき俺はすでに終わっていた。白野江さんのためにゾンビになって戻ってきた。
身体は腐り落ちる。
精神は爛れ落ちる。
それでも俺に終わりは訪れず、鳥に食われ、蛆に集られ、なお地を這いずり存在していく。
覚悟しただろう。
死を拒絶しただろう。
安らぎに背を向けただろう。
だから、泣くな。
けして、振り向くな。
「そ、その……、もったいないかな、って」
「……え?」
「ほら、結婚したら、苗字で呼ぶ機会もなくなるし……。あ、でも、白野江さんは別姓派?」
俺の言葉に、しばし白野江さんは動きを止める。
やがて、ぼふっ、と。
頭から湯気が昇りそうな勢いで真っ赤になった。
「けけけっけけけけ結婚って、そんな! ままっままままっままだ早、早くないでそうか!」
ああ、よかった。
どうにか誤魔化せた、って安心する端から俺も恥ずかしくなってきて。
「や、やっぱりそうですか?」
なんて照れ笑い浮かべて。
大丈夫、と感覚の消えゆく指先を握りしめた。
大丈夫、俺ならやれる。
身体と精神がまだ動く間に、必ず白野江さんを、ほかの生存者のいる場所へ届けることができる。
そして、その後は。
「でもさ、白野江さん」
勇気を出して、白野江さんの手に、自分の手を添えた。
柔らかく、温かな手に触れながら祈る。
どうか、この手の冷たさに気付かれませんように、と。
「約束する。
――絶対に君を、一人になんてしない」
飲み込んだ言葉が、呪いのように身体の自由を奪っていく。
それでも白野江さんは、俺の手を、握り返してくれたから。
「……うん。一緒に、いてね」
俺たちは夜空を見つめてる。
二度と満月の見えなくなった夜空を。
バラバラに砕けた月の破片ばかりがきらめく虚無の海を。
――絶対に君を、一人にしない。
――たとえ傍にいるのが、俺じゃなかったとしても。
俺は白野江さんの言葉に頷かないまま、ただ、寄り添っていた。