第八話 『夜会と葡萄』
ポンプで汲んだ水を木桶に溜め、目覚ましに顔を洗う。冷たい水が気持ちいい。
俺は早朝の冴えた空気を肺一杯に吸い込んでゆっくりと吐き出す。一息吸う度に頭が冴えていくのを感じる。
美味い空気とはこんな空気のことを言うのだろう。
俺がこの世界に来て一年と少しが過ぎた。
季節は緑萌える蠏月から花咲誇る獅子月に移り、夏真っ盛りといったところだ。
夏といっても故郷と違い、梅雨の長雨も夏の茹だるような熱帯夜も無い。湿度が低く気温も涼しいので、九州の強い日差しに慣れ親しんだ俺には少し肌寒いくらいだ。
それに、蝉が生息していないので、慣れ親しんだ夏の風物詩、あの騒々しい鳴き声がない。
「さて……やるか」
俺は気合いを入れると、壁に立て掛けた木剣を手にとって正眼に構えた。
粗削りで『剣』というより『削った木の棒』といった方がいい物だが、重さや長さが鍛練に丁度いい。
家の事で色々あって剣道を辞めてからも、なるべく時間を作って素振りをしていた。フリーターは体が資本。腕力と持久力を維持するには日々の鍛練が必要なのだ。
この国に来てもその習慣を変わらず続けている。
肩の力を抜いて、確かめるように剣を振る。
木剣を振りながら、かつて道場の師範に言われたことを思い出した。
『竹刀は腕力だけで振るな。無駄な力を省き、打撃の瞬間の一点に集中しろ』
『才能は大事だが、それだけで勝てるほど世の中甘くないぞ? 大事なのは鍛練の積み重ねと研鑽の努力。才能はそれらを引き立てる隠し味みたいなもんだ。才能に溺れるな!』
正面斬りを繰り返して体が慣れてくると、次は様々な型の素振りに移る。
右袈裟斬り、左袈裟斬り。右横胴から左横胴斬り、早抜き……
木刀を真っ直ぐ振り上げ、息を吸い、切っ先が弧を描くようイメージしながら振り下ろす。
切っ先が体の正面に来た瞬間に息を吐きながら木剣の柄に力を込めて振り切る。
それを何回も無心に繰り返す。
全身がしっとりと汗ばんで来たところで素振りを終え、木剣を壁に立て掛けると、木桶に水を汲んで頭から被った。
「ふうぅ……」
俺は大きく息を吐いた。やっぱり運動した後の行水は最高だ。
日が昇り、眩しい光が目を射る。雲ひとつ無い晴天。見てるだけで気持ちが晴れ晴れする。
「カズマ様、タオルをどうぞ」
不意にしっとりとした女性の声が聞こえた。振り向くと、いつの間にかベアトリクスさんが布を手に立っている。
「ベアトリクスさん、早いですね」
「メイドですから」
にっこり笑ってタオルを差し出すベアトリクスさん。俺は彼女に『ありがとうございます』と会釈してタオルで顔を拭った。
「それはそうと、カズマ様、何で服をお召しになったまま行水なんてされるんですか。もう全身ずぶ濡れですよ? 」
「あ、いや……脱ぐのは面倒かなって、さ」
俺の返事にベアトリクスさんは細い腰に手を当て困った表情をする。
「もう。風邪を引いてしまいます。朝餉の時間までまだありますから、体を拭いたら早く着替えてくださいね?」
「……すいません。急ぎます」
ベアトリクスさんに、まるでやんちゃを叱るお袋さんのように言われ、俺は急いで体を拭った。
「新酒の宴……ですか」
メアリム邸の書斎。
日課の薪割りの途中で老人から呼び出された俺は、手渡された手紙から顔を上げて小首を傾げた。
「うむ。ブルヒアルト伯爵の領地は良質なブドウの産地でな。毎年新酒の時期になると、貴族や豪商を招いてお披露目の夜会を開くのじゃ……ワシも伯が若い頃、面倒事を片付けてやった縁で毎回招かれておる」
「へぇ……『今年のヴォジョレー解禁』みたいなもんですか?」
「まあ、大体そんな所じゃ」
何となく言った俺の例えに、メアリム爺は苦笑いをして肩を竦める。
「それで、俺にご用とは?」
「うむ。社会勉強をさせてやる。ワシの従者として付き合え」
思いもよらない老人の言葉に、俺の目は点になった。
「……俺が、夜会にですか?」
「だから、そう言った。行けば旨いワインが飲み放題じゃ……悪い話じゃなかろう」
いや、そういう問題じゃない。
「俺では宮中伯家の従者として力不足では?」
親戚の結婚式位しか行ったことのない俺に、いきなりセレブが集うパーティーに付き合えって言うのは無理があるんじゃないか。
「クリフトには別の仕事がある。ベアトは屋敷を空けるわけにはいかぬ……お主しか居らぬのよ。宮中伯家の人間として恥じぬよう、基本的な礼儀作法は教えたはずじゃ。学習は実践してこそ身に付く。なにも迷う必要はないじゃろう」
「はあ……確かにそうですが」
爺さんの言っていることは間違いじゃない。礼儀作法は知識はあっても実践できなければ意味はない……だが、妙に引っ掛かる。
「まさか、お一人で行くのが面倒なだけでは?」
「そんなことはないわ馬鹿者。つべこべ言うな。答えは『はい』か『了解』か『かしこまりました』じゃ」
……爺さん、それ全部同じです。
「……わかりました。お供させていただきます」
俺は肩を落としてそう答えた。
「そうじゃ……カズマ、ひとつ言っておくことがある」
ふと、メアリム老人はその表情を引き締めて俺を見た。この老人、空気の切り替えが早い。
「何ですか?」
「異世界人という概念はこの世界に存在しない」
一瞬、老人の言っている意味が分からなかったが……つまりは、この国の人は『異世界』の存在もそこに住む人間も知らない、と言うことだ。
そりゃそうだろう。俺もこの国に来るまで知らなかったし、ラノベの中の空想だと思っていた。
「勿論、居らぬわけではない……お主とワシが居るからな。だが、ごく一部の人間を除いて、この世界の外からワシらのようなヒトが迷い込んでいると言う事実を知らぬ」
「……まるで宇宙人か地底人のようですね」
自分で言っておいて『上手いこと言うな』と感心してしまった。メアリム老人もニヤリと笑って頷く。
「まさにそのものじゃ。何が言いたいか、分かるな」
「わかりますけど……別に超能力者だったり、変身や巨大化する訳じゃないんですから、普通にしてればいいんじゃないですか?」
何処かのネット小説みたいに『遅れた文明社会で現代日本の知識をひけらかして俺最強』なんて悪目立ちすれば、異端か奇人か天才になるだろうが。
「ま、突然飛び出る杭は打たれるが、知らぬうちに飛び出ておった杭は周りに馴染む。これは世界が違っても変わらぬ……心に止めておけ」
何ですか? その理屈は。まあ、間違ってはいないけどさ。
……
……
……
……
夜会の会場となったのは、ブルヒアルト伯爵の屋敷にあるホール。
ホールから通じるテラスと中庭には篝火が焚かれ、中庭に咲き誇る季節の花々と綺麗に剪定された庭木を照らしている。
テラスでは楽団が優雅な音楽を奏で、ホールに並べられたテーブルには美しく盛り付けられた料理と大量の葡萄酒。
ホール自体は豪奢なシャンデリアが下がっている他は装飾らしい装飾がなく、それがかえってテーブルの豪華さを際だ立たせているようだ。
そのキラキラした場所で、きらびやかに着飾った貴族たちがワイン片手に談笑している。
うーん。去年までぼろアパートでその日暮らしをしていたフリーターには世界が違い過ぎる。
眩しすぎて目眩すら覚えるわ。
「カズマよ、よく見て覚えておけ。これがこの国の『光』じゃ」
魔導師の正装である白のローブに身を包んだイスターリ宮中伯が俺に低く囁いた。
随分重い言葉だな。『光』とくれば『影』か。
「この国の貴族連中は、今大きく2つの派閥に別れておる。ジムクント帝の改革に従う宰相とワシら宮中伯十家を中心とした『宰相派』と、旧来の政治への回帰を望む四公爵家ら大貴族の『公爵派』じゃ」
前に爺さんから聞いた話では、ジムクント帝は『上からの改革』を推し進める啓蒙君主らしい。
つまり、改革によって力を得たい貴族と既得権益を守りたい貴族の派閥争いか。どこの世界も同じだな。
「で、ブルヒアルト伯爵はどちらなんです?」
「伯は穏健派でな。両派から適度に距離を置いておる。故に、今回の招待客もかなり苦労して選んでおるようじゃ」
メアリム老爺が顎髭を撫でながら苦笑いを浮かべた。つまり、ここには対立する派閥の貴族達が顔を合わせているわけか……そう考えると華やかな会場が急に恐ろしく思えるな。
「イスターリ宮中伯。卿も来ていたか」
声を掛けてきた相手に、メアリム爺さんは一瞬面倒臭そうな顔をして、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「おお、これはウラハ公。長くお会いしておりませんでしたが、お元気そうで」
爺さんはそう言って胸に手を当てて会釈する。
「うむ。卿も息災のようで何よりだ」
声を掛けてきた壮年の男はメアリム爺に鷹揚に頷く。
男の小太りの体を纏う豪華な服は、大樹に絡み付き、その根を齧る大蛇の紋章が金糸銀糸をふんだんに使って刺繍されている。
……『怒りに燃えて蹲る者』の紋章ーー四公筆頭、ウラハ公ゲラルト卿その人だ。噂をすればなんとやら……か。
「ご子息は今日はご一緒ではないのですかな」
「あれは勤めがあってな。一年前、不埒な夷人に襲われて痛めた腰が未だ疼くようでな」
ウラハ公は芝居がかった口調でそう言うと、俺を一瞥して顔を顰める。
腰を痛めたと言っても軽く投げられただけだろう? 一年も疼くとかあるかよ。
俺は爺さんの後ろで控えながら、そう口の中で突っ込みを入れる。
「それは痛ましい……ハンス殿を襲った下手人が早く捕まることを祈りますわい。ワシも夜道は気を付けねば。色々とありますからな」
「いや、高名な大賢者殿を襲うような怖いもの知らずはこの国には居りますまい」
メアリム老人の言葉に、ウラハ公は呵呵と笑うと『では、これで』とにこやかな笑みを浮かべつつ去っていった。
「やれやれ。のっけからこれでは先が思いやられるわ……カズマよ、ワシは会わねばならぬ方々がおる。お主は外の風にでも当たっておれ」
メアリム老人はそう言うと顎で中庭を示した。つまり、『適当に外で時間を潰してこい』って事だ。
「わかりました。適当に飲み食いしておきます」
俺はそう言って、主に対する礼をして引き下がる。ここではメアリム老はイスターリ宮中伯であり、俺の主人だ。
うっかり屋敷で爺さんと接しているやり方をしてしまうと無作法者と見られてしまい、イスターリ宮中伯家の評判に悪い影響が出てしまうのだ。
常に人の目を気にして気を張っていなければならないから疲れる……正直早く帰りたいぜ。
そんなことを考えながらぶらぶら歩いていると、ホールの奥の方からざわめきに混じって何か言い争う声が聞こえた。
「……いい加減にしなさいよっ!」
「そんな言い方はないでしょう? お嬢さん」
……何だ?
見ると、どことなく軽い感じの青年貴族が涼しげな桜色のドレスを身に付けた赤い癖っ毛の少女に少し強引に迫って口論になっているようだった。
少女の方は招待主の紹介の時に見たな。確か、ブルヒアルト伯爵の次女シャルロット……だったか。
気の強そうな面持ちの人だったから、大方青年貴族にしつこく言い寄られて、キツい言葉で断ったんだろう。何れにしろ、痴情の縺れに徒に口を挟むのはどうかな。
俺がその場を離れようとした時、シャルロット嬢と目が合った。
少女がほんの一瞬、縋るような目をして困ったように表情を曇らせた。周りに青年を止めてもらいたいけど、誰も何も言ってくれず途方に暮れている……そんな表情。
そんな表情を見せられたら、後で何故助け船を出さなかったのかと後悔してしまうじゃないか。
俺はもう、後悔しないと決めたんだ。
なら……仕方ないか。
俺はため息を付くと言い争う二人の間に入り、『どうされました? 何か揉め事ですか?』と物腰柔らかに穏便に済まそうと声をかけた。
しかし、青年貴族の方はそれなりに酒が回っていたらしく、『従者風情が口を出すな』とキレ気味に言われ、それを俺は我慢強く宥めようとして……
何故か決闘する事になったのだった。
一年前の金髪野郎といい、この世界の青年貴族はなんでこうも血の気が多いんだ?