第六十六話 『帰って来たものと招かれざるもの』
「ステラ……何故逃げなかった」
「それは……」
ステラは言い淀むと、怯えたように瞳を揺らして目を伏せる。
その彼女の鼻先に、ザムゾンはサーベルの切っ先を突き付けて勝ち誇った笑みを浮かべた。
「無駄な足掻きは終わりだ平民。サーベルを捨て、地面に犬のように平伏して貴族たる俺に刃を向けた罪を己の肉体と命を全て使って償え。もう一度言う。命令だ平民」
さっきから何だ? 犬だの命令だの五月蝿い奴だ。
俺はゆっくりと構えを解きながら派手派手しい装いの巨漢――ザムゾンを睨む。
――しかし、あんな雰囲気の奴だったか?
態度は相変わらず傲岸不遜だが、教会で対峙したときのような余裕が感じられない。
まあいいか。
それにしてもステラ、何であいつ……時間は十分にあった筈だし、敵もアイツを無視していた。ステラなら逃げるのは簡単だった筈だ。
それなのにいつまでもあんな所に……そりゃ捕まって当然じゃないか。
「その顔は何だ平民。名門ホルシュタイン伯家の嫡子たる俺が、ザムゾン・フォン・ホルシュタインが直々に命じているのだぞ。何故従わない」
俺が言うことを聞かず、苛立ちを露にするザムゾン。奴の取り巻き連中もサーベルやダガーを弄びながら剣呑な雰囲気を漂わせている。
……絵面がまるでやくざ者とチンピラだ。全く貴族の嫡子が聞いて呆れる。
俺は強く舌打ちをしてサーベルをザムゾンに突き付けた。
「あんた、ここはイスターリ宮中伯の屋敷だぞ。ホルシュタイン伯の嫡子だろうが夜中に郎党引き連れて押し入るなど許されることじゃない」
「――下賤の平民風情が口応えするか。愚民はこれだから度し難い。イスターリは下人を使って俺から花嫁を奪い、伯爵家の名誉と俺の誇りを辱しめた。これはその報復なのだ。この屈辱を晴らすには貴様を八つ裂きにしても足りぬ」
報復……成程。やはり奴は誰からかロメオの正体を知ったのだろう。それがこの襲撃の目的か。
だとしても、だ。
「なら、報復するのは俺だけでいい。他の人間を巻き込むのは筋違いじゃないか」
「それは貴様の態度次第だ……何度も言わせるな。命令に従え」
ニヤリと口を歪め、ザムゾンは俺に見せ付けるようにサーベルの切っ先をステラの頬に沿わせる。
ステラは短く悲鳴をあげて目を伏せ、取り巻き達の嗜虐的な笑い声が俺の神経を逆撫でした。
あんなクズに従う義理はさらさら無いが、だからといってステラがあの状態では動けない。
仕方ないか。
「……わかった」
俺は溜め息をつくとサーベルを下ろし、遠くに投げ捨てた。
「カズマっ!」
ステラの悲痛な叫びが夜の森に響く。
「ふん。漸く従う気になったか……だが」
ザムゾンは満足げにステラからサーベルを引くと、大股で俺の側にやって来る。やけに殺気だった奴の目に俺が眉を顰めた――その瞬間。
目の前に強い火花が散り、顎に受けた衝撃に思わず膝をつく。口に広がる血の味に俺は低く呻いた。
「俺は『跪け』と言ったのだ。貴族の前で立っていいのは選良たる貴族のみ。平民風情に許されることではない」
ザムゾンは侮蔑の笑みを浮かべ、起き上がろうとした俺の肩を踏みつけにじる。
この野郎、調子に乗って……っ!
切れた唇の血を拭い、俺はザムゾンを睨み付けた。肩に食い込むザムゾンの足を振り払いたくなるのをグッと堪える。
まだだ。まだ引き付けなければ……
「それが貴人に向ける目か。先ずはその目を抉り出し、耳と鼻を削ぎ落としてくれる。それから指を一本づつ切り落とし、体を細切れに切り刻んでくれよう……すぐに死ねると思うな?」
そういって舌舐めずりをするザムゾンの表情は嗜虐の愉悦に歪んで狂気じみてすら見える。
はったりや脅しを言っている目じゃない。
「……狂ってるな。あんた」
「貴様の罪に相応しい罰だ――甘んじて受けろ」
ザムゾンはそう鼻で笑い、サーベルを逆手に持ち替え振り上げる。その切っ先を睨み付ける俺……その時。
「――あがっ!」
「ぐぇっ――!」
後方……ステラが捕まっている場所から男達の悲鳴が響く。
「――な?!」
突然倒れた手下を振り返り、驚愕の声をあげるザムゾン……今だっ!
俺は肩を踏みつけるザムゾンの足を振り払い、奴の胸ぐらに掌を突き付け『ことば』を叫ぶ。
「『衝撃』っ!」
『ことば』の生み出した圧力波がザムゾンを吹き飛ばし、轟音が静寂を引き裂いた。
「――ぎゃっ!?」
すぐ後ろで蛙が潰れたような悲鳴があがる。
声に振り向いた俺は、反射的に身構え、しかしすぐに肩を落としてホッと息を吐いた。
そこに居たのはぐったりと横たわる男達と、金の瞳と灰色の毛をした狼人――
「クリフトさん!」
「帰還が遅くなり申し訳ございません。カズマ様」
クリフトさんが何時ものように微笑みを浮かべている。殺伐とした戦場でも、この人が側に居ればそれだけで安心できるから不思議だ。
「ステラ、捕まりなさい」
「え?! きゃっ!」
クリフトさんがステラに短く告げ、戸惑う彼女を強引に抱き抱える。そしてそのまま俺目掛け飛び込んできた。
囚われの身から逃れたステラは父親の腕を振りほどいて俺に駆け寄ってくる。
「……カズマ、ごめん。私がドジしたせいで」
彼女はそう言うと、俺の頬に手をあてて唇を噛んだ。自分のせいで俺が殺されそうになったと責任を感じているらしい。
「俺は大丈夫。口が少し切れただけだ。それより親父さんには何も言わないのか?」
「う……うん」
蟠りがとけていないのか、俺の言葉にステラはばつの悪そうな顔で俯いてしまう。
まあ、難しい年頃だし、いろいろあるのもはわかるが……
微妙な雰囲気を変えようと、俺はクリフトさんに話題を振った。
「クリフトさんが無事でよかった。音沙汰が無かったから心配していたんです」
「申し訳ありません……あちらで少々不覚を取りまして。まったく歳は取りたくないですよ」
見ると彼の左腕や胸に包帯が巻かれていた。俺の視線に気付いたのか、クリフトさんは複雑な表情で笑う。
いや、これは『少々』どころの怪我じゃないだろ。クリフトさんほどの人が大怪我とか、一体何があったのか……
と、その時。
「おのれ野良犬風情が。貴族を妨げるか!」
駆け付けた手下に支えられ、ふらつきながら起き上がったザムゾンがクリフトさんにサーベルを突き付け怒鳴る。
ザムゾンの野郎。魔法を至近で食らったはずだが、もう立てるのか……しかも、いつの間にか奴の手下に周りを囲まれている。
迂闊だ……クリフトさんの帰還で全部終わった気になっていた。
「……イスターリ宮中伯家の執事、クリフトと申します――ホルシュタイン伯爵の御嫡子、ザムゾン様とお見受け致しますが」
クリフトさんはザムゾンに向かって一礼し問うた。だが、ザムゾンは嫌悪に顔を歪める。
「ふん。貴人の視界に入るな。不愉快だ野良犬」
苛立ち混じりに吐き捨てるザムゾンにクリフトさんは少し語気を強め、問い掛けを続けた。
「……御家ほどの名家が何故このような暴挙を起こされたか? 畏れ多くも陛下より政の一端を任されている当家に弓引くは、陛下に弓引く事と同じこと……それを分かっての狼藉か」
「よく吠える。地獄の底でその男に聞け――構わぬ。三人とも殺せ! その首まとめて屋敷の焼け跡に晒してくれる」
ザムゾンがそう言い放ち、手下達がサーベルを構える。ざっと数えて八人……一人四人か。
殺気だつ彼らを見渡したクリフトさんはため息混じりに頭を振った。
「これだから血の気の多い若者は……仕方ありません。カズマ様、後でゆっくり説明していただきます」
「……聞いてもあまり面白い話ではありませんよ?」
俺の軽口に、クリフトさんは口元を弛めて肩を竦める。
「……ステラの事、任せましたよ」
「はい。クリフトさんも」
クリフトさんには頷いて見せたが、俺の強化魔法は時間切れが近い。得物も腰に差した短剣一本。それで倍以上の武装私兵を相手にするのだ。
……状況は改善していない。むしろ客観的にみれば追い詰められている。
それなのに、俺は笑っていた。
俺はこの状況を楽しんでいるのか……そう、他人事のように思ったとき、背後で狼が遠吠えをあげた。
空気を震わせる狼人の咆哮に男達は一瞬怯み、クリフトさんが短く息を吐いて彼等に躍り掛かる。
「ステラ、上手く逃げていろ!」
「ちょっ……なによそれ!」
俺の言葉にステラが抗議の声を上げた。クリフトさんに自分の事を任されたのに放置するのか――そう言っているのだ。
が、攻撃は最大の防御。俺は構わずベルトから短剣を抜いてこちらに向かってくる男達に躍り掛かる。
「死ねよっ! 化物!」
「死ぬかよっ! 『 大地よ』っ!!」
先陣を切って俺に斬りかかってきた男の足元に『ことば』を放つ。と、男が踏み込んだ地面が薄氷のように砕けて消えた。
踏み込んだ重心を支える足場をなくした男は悲鳴をあげる間もなくつんのめるように顔面から倒れ込む。
「なっ!?」
後続の男も倒れた男を避けようとして体制を崩す。その隙は逃がさない!
すかさず俺は印を組み換えて次の『ことば』を叫んだ。
「『蜘蛛の糸』っ!」
起き上がろうともがく男達目掛け、無数の白い糸が降り注ぐ。
魔法で織られた強粘性の糸は絹糸のように繊細で鋼のように強い。二人の男は魔糸に絡まれ折り重なるように地面に転がった。数時間はあのままだ。
「おのれ魔法使いめ!」
と、糸達磨になった男達を躱した私兵が左手から斬りかかってくる。さらに後ろから一人、俺の腿を突いてくるのが視えた。
「ちぃっ!」
俺は短剣を素早く逆手に持ち換えて肩口目掛けて振り降ろされるサーベルの一撃を弾き、背後から腿を狙った突きを身を翻して躱す。
そのまま突きを外した私兵の鳩尾に短剣を捩じ込むように突き立てて蹴飛ばし、体勢を建て直した前の一人に飛礫を撃ち込んだ。
親指程の弾丸に眉間を撃ち抜かれた男は、派手に血と脳漿をぶちまけながら吹き飛ぶ。
「おのれ化け物め! 殺すなら殺せ!」
「……馬鹿か。誰がそんな面倒な事をするかよ」
魔糸に雁字搦めになった私兵二人が折り重なってもがきながら悪態をついてくるが、俺は疲れを吐き出すように溜め息をついた。
全身に籠った戦いの熱が冷めていく。
――化け物、か。そうかもしれない。
あの時……相手を殺す事を躊躇わなくなった時に感じたあの感覚は……
「カズマっ! 避けてっ!」
その時、ステラの叫ぶような悲鳴が耳に突き刺さる。
瞬間、迫る殺意。反射的に地面に身を投げた俺の耳元を鋭く空気を引き裂く音が掠めた。
「おのれがよっ!」
「ちぃっ!」
続いて振り下ろされる一撃を転がりながら躱し、腕の力で体を跳ね上げる。
「丸腰の相手に背中から不意討ちか。それでも貴族騎士か? ザムゾンっ!」
「騎士道は騎士だけのものだ。平民風情には無用!」
間合いを取りながら問う俺に、サーベルを振るいながらザムゾンが答える。
こいつ……っ!
「死ねよっ! 平民!」
サーベルが空を斬る音が断続的に響く。
俺は迫る刃を躱しながら周囲の状況を確認した。
クリフトさんの方は既に終わっていて、厳しい表情を俺に向けている。ステラも息を飲んで俺の戦いの行方を見守っていた。
この場でサーベルを振るっているのはザムゾンだけだ。
額を狙った振り下ろしを体を半身ずらして躱す。重心を乗せた一撃を躱されたザムゾンは大きく前のめりになりながら俺との間合いを取った。
「くそっ! 何故当たらん?! 何故避ける?!」
肩で息をし、鬼のような形相で俺を睨むザムゾン。
彼との立合いは二回目。しかも教会で決闘した時より剣が大振りで読みやすい。『視る』までもない。
まさか自分の斬撃は外れないとでも思っていたか?
「避けるなぁっ!」
血を吐くような絶叫とともに突きを放つザムゾン。俺は再度体を半身ずらして切っ先を躱し、そのまま体を男に密着させてサーベルを持つ右手首を掴んで押さえ付けた。
「ぐっ! 俺に触るな化け物!」
「お前の敗けだ。ザムゾン」
俺はそう言って左手で男の襟首を掴み、足を払って柔道の足技のように引き倒す。
「うぎぇっ!」
背中を地面に強かに打ち付けたザムゾンは情けない声を上げた。
「生きている部下を連れてさっさと退け」
「……」
「報復なら何時でも何回でも受けてやる。だが、お前の相手は俺だ。ほかに手を出すな」
俺の言葉にクリフトさんがなにか言いたげな表情でザムゾンを睨む。
自分達が長年住んだ屋敷を燃やし、好き勝手暴れたザムゾンをそのまま帰すのか? クリフトさんはそう言いたいんだろう。
しかし相手は腐っても伯爵家の嫡男坊だ。騎士団に通報しても捕らえてくれるとは限らないし、更に面倒なことになる予感がする。
「……畜生! 何故だ?! あれだけ兵が居れば簡単に勝てるんじゃなかったのか?! 何故勝てない!? あの役立たずどもがっ!」
投げ飛ばされたままの格好でザムゾンが吠えた。そして悔しさに地面に拳を叩き付け叫ぶ。
「俺は貴族だぞ?! 名門ホルシュタイン伯家の嫡男だぞ?! こんな事が認められるか!」
こいつ、この期に及んでまだ言うか。
カッとした俺は、ザムゾンの胸ぐらを掴むと吐き捨てるように叫んだ。
「『貴族』? 『名門』? だからどうした! そんなものはクソくらえだ」
「黙れっ! 貴族死ねと言ったら平民は死ね! それが当たり前だ」
俺の言葉に顔を歪め、地団駄を踏み喚き散らすザムゾン。その姿はまるで子供だ。
こいつ、一体どんな教育を受けて今まで生きてきたんだ? こんな奴がシャルロットの夫になろうとしてたのか?
「……あんたにシャルロットを渡さなくて本当に良かったよ。ザムゾン」
俺は彼の胸ぐらを掴んだ手を乱暴に放すと、背を向けた。斬りかかって来るかもしれないが、その時は遠慮なく一発ぶん殴ってやる。
「……ふふふ。そうか。それはいい」
さっきまでの怒声が嘘のように喜色に上擦ったザムゾンの声に、俺は振り向いて眉を顰めた。
ザムゾンは力なくサーベルをぶら下げ、ユラリと立ち上がる。その目は焦点が定まらないまま虚空を見つめ、口許は不気味な笑みに歪んでいた。
どう見ても普通じゃない。
「そうしよう――それがいい――そうすべきだ――ふふふふ……ふふふ」
何度も頷き、気持ちの悪い笑い声を上げたザムゾンは、不意にサーベルの刃を俺に突き付ける。
ザムゾンから吹き付ける異様な殺気。一分の隙のない構え。まるで別人だ。
この気配……まさか?!
「カズマ様っ!」
「カズマ!」
ザムゾンの突然の変化にクリフトさんが鋭く叫び、ステラが悲鳴をあげる。
「うふふふぅひひひあはぁひひひ……あひゃひゃ!」
奇妙な声で笑い、ザムゾンはサーベルを自らの首筋に当てた。
「待てっ! 止めろ! それは駄目だ! 目を覚ませザムゾンっ!!」
だが、ザムゾンは目を見開き、狂気じみた笑みを張り付けると俺にゆっくり囁くように告げた。
「さあ、これからもっと楽しくなるよ……くくくっ!」
『ザムゾン』は己の喉笛にサーベルを突き立て、躊躇いなく引き斬る。瞬間、鮮血が噴水のように吹き出し、ザムゾンの豪奢な服を赤く染めた。
そのまま自分の作った血の海に仰向けに倒れ込むザムゾン。あれだけ深く切り裂けば頸動脈切断、出血性ショックでほぼ即死だろう。
組み敷いた時にサーベルを奪わなかった俺のミスだ。そこに付け入られた。
「チクショウっ! 何て事を……っ!」
白け始めた森に俺の叫びが虚しく木霊する。




