第六十五話 『鉄火と修羅場』
「……何よこれ」
ステラが足元に突き刺さった黒塗りの矢に怯え、声を震わせる。
今宵は新月。しかも星明かりも見えない闇の中にもかかわらず、正確に矢を射掛けて来たのだ。射手はただ者ではない。
こんな芸当ができるのは――だが、何処にいる……?
俺はステラを背に庇うように地下道の出口に立つと、外の闇に意識を凝らす。
その時。不意に突き刺さる殺気! 体が反射的にダガーを振るい、感じた手応えに背筋が凍る。
そして、俺の感覚が僅かなマナの揺らぎを捉えた。
この感じ……この神経を逆撫でするような悪寒は――まさか?
「くくくっ……それでこそ。それでこそだ。カズマ・アジム」
脳裏にまとわりつくねっとりとした囁きに俺は強く舌打ちする。
――あの野郎っ!
思わぬ人物の突然の妨害。しかし『何故? 』という戸惑いより『やはり』という思いが強い。
俺は知っている。奴は目的のために手段を選ばない。
だが、夜の闇から滲み出るように姿を現した男の姿は俺のイメージとは違っていた。
黒いローブに身を包んだ小柄な老人。髑髏に土気色の皮を貼り付けたようなその姿はあの悪魔的に美しい少年とは似ても似つかない……だが。
「あんたが首謀者か」
「……『然り』でもあり『否』でもある。たが、お主にはどちらでも良いことであろう?」
老人は薄い唇を歪めて笑うと、枯れ枝のような指を絡めて印を組んだ。
「『光よ』」
低く、地の底から響くような声で紡がれる『ことば』。瞬間、拳大の光の玉がいくつも生まれ、夜の森を照らした。
暗闇の中で突然スポットライトを当てられたみたいだ。夜目に慣れた俺はあまりの眩しさに思わず目を閉じる。
――不味いっ!
次の瞬間に来る一撃に備え身構えた。だが、一撃は無く、代わりに敵意を孕んだ複数の気配が迫る。
「居たぞっ!」
「囲めっ! 逃がすな!」
「……ちっ!」
あの老人、俺達を足止めして光で居場所を曝すのが目的か。
すぐに茂みから抜き身のサーベルを手にした黒装束の男達が飛び出してくる。ざっと見て十四、五人程。
男達はサーベルを構え、俺を取り囲む。俺はダガーを構え直すと男達を睨み付けた。
流れる沈黙と高まる緊張感……俺は粘つく唾液を無理矢理飲み込むと、ちらと地下道の出口に身を潜めるステラを一瞥する。
少女の表情は突然の状況に青ざめて、わなわなと震えていた。
戻るべき家は焼け落ち、進む先は武器を手にした襲撃者が取り囲む。闇は光によって払われ、身を隠すことも逃げることもできない。
状況は絶望的。だが、本当に絶望するには早い。
俺もステラもこの状況を脱する術は持っている。ただ『二人一緒に』逃げることが絶望的なだけだ。
あとは連中がどこまで俺達の事を把握しているか……
「ここは俺が抑える。その隙に逃げろ」
「……!? あんた、何言って――」
低く小声でそう囁くと、ステラは戸惑い声をあげる。俺は有無を言わさぬ口調で続けた。
「闇に紛れて走れ。人間には無理だが半狼人ならできる……そうだろ?」
「バカ言わないで。そんなことできるわけないじゃない……私一人なんて……イヤよ」
声を震わせて頭を振るステラ。俺はそんな彼女を突き放すように早口で言う。
「俺は奴等と戦える……でも、この状況でお前を守りながら戦うのは正直無理だ」
「足手まとい……ってこと?」
「そうだ」
「……っ?!」
俺の答えに、ステラは悔しそうに唇を噛み締め俯く。彼女は気の強い娘だ。プライドを傷付けられて怒ったのかもしれない。
少女は短く息を吐いて顔を上げると、拗ねたような、怒ったような複雑な表情で俺を睨み付けた。
「言ったからには……私が逃げ切るまで持たせなさいよ? それで、必ず迎えに来て。私一人にして……し、死んだりしたら……絶っ対に許さないから」
「ああ……任せろ」
『私を残して死んだら許さない』……か。前に同じことを言われたな。
俺は苦笑いを浮かべてステラに小さく頷くと、黒装束の男達に躙り寄る。
さて。後は連中を如何に俺に引き付けるか……柄じゃないが、イキリ倒させてもらう。
俺は大きく息を吐くと、ダガーを男達に突き付けて言い放った。
「お前ら、俺が大賢者にして帝国宮中伯たるメアリム・イスターリの弟子と知っての狼藉か? 何が目的だ」
「……」
わざと挑発するように問い掛けるが、答えはない。俺はそんな彼らを嘲るように鼻で笑う。
「なんか言えよ。狗になり下がって言葉まで無くしたわけでは無いだろ?」
「お前は死ぬ……死人が殺した者の素性など聞いても無意味だ」
俺の挑発に、正面に立った男が苛立ちを圧し殺した声で答えた。流石にプロだ。なかなか我慢強い。
「つまらんな。戯曲の噛ませ犬でも、もう少し気の利いた台詞を吐くぞ。俺を殺すんだろ? なら早く始めよう。こっちは熟睡を邪魔されて不機嫌極まりないんだ……さあ! 来い! |さっさと来い《フリュー! フリュー!》」
「……殺れ! 嬲り殺しにしろ!」
流石に堪忍袋の緒が切れたのか、先頭の男が声を荒げる。
噛み付くような殺気、波濤のように迫る圧迫感と共に、十数の黒装束が音もなく俺に迫る。
だが、お陰でよく見える!
先ずは下と……右っ!
這うように低い軌道で放たれた斬撃を飛び退って躱し、そこを狙って放たれたナイフをダガーで弾く。
「『力よ』っ!」
地を蹴って間合いを稼ぎながら、胸に手を当て『ことば』を紡ぐ。血が激しく廻る感覚とみなぎる力に、自然と笑みが溢れた。
俺は追撃してきた男の斬り降ろしをダガーで受け流し、その顔面に気合いを乗せた拳を叩き込む。
何かが潰れる鈍い音と共に拳に鈍痛が走る。俺の一撃を眉間に喰らった男は鼻血を噴いて吹き飛んだ。
俺はそいつを一瞥し、そのままの勢いでナイフを投げた男に向かって駆ける。
「ちぃっ!」
ナイフ男は構えたナイフを投げ捨て、サーベルを抜いて斬りかかって来た。が、俺は構わず拳を突き付けて『ことば』を叩き付ける。
「『突風よ』っ!」
至近距離で強烈な風圧の直撃を受けた男は、吹き飛ばされて背後の樹に激突。そのまま力なく崩れ落ちた。
――先ず二人!
「死ねっ!」
「――っ!」
――直後、右正面から刺突、同時に背後から袈裟懸け!
「ちっ!」
俺は刺突をダガーで弾き、男を背後に回り込むように躱す。直後、背後で男の悲鳴。俺は振り返り様、味方を斬った男の眼前に腕を突き出した。
「この――」
「『突風――爆』」
仲間を斬った男は、恨み節を言うことなく爆風を叩き付けられて吹き飛ぶ。
――これで四人……あと何人だ?!
ダガーを構え直し、上がった息を落ち着かせながら、俺はふと足元を見た。魔法の光で白々と照らされたそこは、流れた血で濡れている。
血に沈むのは袈裟懸けに斬られた男……一歩間違えれば血に沈んでいたのは俺かもしれない。
その光景に、頭から冷水を浴びせられたような悪寒に背筋が震えた。
彼は同士討ちで死んだ。
だが、俺はこうなることが分かっていた。分かった上で……そのつもりで男を仲間に斬らせた。
俺は降りかかった火の粉を払った。これは正当防衛だ――動揺を押さえようと頭の中で言い訳じみた言葉が駆け巡る。しかし、目の前の死体やムッとする血の臭いは消せない。
彼は――俺が殺した。人を殺した。
ダガーを構える手が震える。喉がからからに渇き、粘り気の強い唾液が喉に絡み付く。
同時に頭の隅で警鐘が鳴った。脳裏に呆れたような、冷めた声が響く。
――その程度で動揺してどうするんだい? ほら、立ち止まっている時間はないよ? 周りを見て。死にたいの? っていうか死ぬの?
ハッとして周囲に目を走らせる。敵はまだ十人近く。サーベルをギラつかせながらジリジリと俺との間合いを詰めてくる。
さっきよりも鋭く尖った殺意が俺を貫き、抉る。戦いの熱から冷め、俺の心に恐怖が滲む。
――何を迷っているの? 殺さなければ殺される。実に単純なことじゃないか。今ここで君が死ねば、あの半狼人の娘はどうなる? あの赤毛の跳ねっ返り娘は? 彼女達にまたあの日のような絶望を、恐怖を味わせるのかい? 数十、数百のやり直しの果てに君が得た世界を、また振り出しに戻すのかい?
「……それは」
絶対に嫌だ。二度と御免だ。
俺の思いを読んだのか、『声』は上擦った声で囁きかけてくる。
――なら、剣を取るんだ。来たのは彼等だ。殺し、打ち倒すために。殺されるために、打ち倒されるために。誰かを殺すということは誰かに殺されるということだ。闘争の本質とはそういうものだ。君は何も気に病むことはない――さあ、続きを始めよう。彼等に闘争の何たるかを教えてやろう。
「五月蝿い。厨二のガキが耳元で囀ずるな」
こんなところで死ぬ訳にはいかない。相手はプロ。不殺なんて気にできるほど甘くはない。
ここは修羅場。一瞬でも迷えば死ぬ。なら……
俺は手にしたダガーを腰のベルトに挟み、足元に転がる死体からサーベルをもぎ取ると、八相に構えた。
――覚悟を決めろ。俺!
「どうした? まだ四人殺られただけだぞ? ビビッてないでかかってこい!」
「貴様っ! 舐めるなぁっ!」
怒りの絶叫とともに黒装束の群れが動く――その瞬間、言い様のない感覚が全身を包んだ。
自分を囲む男達の動きが、一瞬先まで視える。視界に無い相手の動きも全てだ。膨大な情報量に酔いそうになる。
来るっ! 背中から斬撃!
俺は体を反転させて降り下ろされるサーベルを跳ね上げると、返す刀で袈裟懸けに斬り捨てる。
斬られた男が仰向けに倒れたその向こうから一人、さらに背後に一人!
「――ちぃぃっ!」
右から迫る斬り上げを弾き、振り返りざまに背後の男を袈裟懸け、そのまま腰を落として背中を狙った突きを躱し、すれ違いざまに胴を薙ぐ。
振り抜いた切っ先から鮮血が飛び散り、地面の落ち葉を濡らし、重い音を立てて男が崩れる。
「くそっ! 何て早さだ」
「化け物め……奴には背中にも目があるのか?」
黒装束達から動揺と恐怖が伝わってくる。このまま退いてくれればいいが……そうもいかないだろう。
上がった息を落ち着かせ、立ち上がった瞬間、ふと嫌な予感がして体を反らせた。直後に頬を矢が掠める!
地面に突き立つ黒塗りの矢に俺は舌打ちした。
――あの爺ぃっ! 今度はなんのつもりた!?
「そこまでだっ! 平民!」
夜の森の、血の臭いに満ちた空気を震わせる野太い大音声。
サーベルを下段に構えながら声の方を目線を移した俺は、思わず眉を顰めた。
いつの間にか俺の背後、屋敷への地下道の出口に数人の男達がいる。黒装束が数名。皮鎧を着込んだ男達が数名。
そして、きらびやかに装飾された――血塗ろの修羅場に恐ろしく場違いな白絹の衣装を纏った大柄な男。
そいつは俺のよく知る顔だった。
「あんたは――ザムゾン・フォン・ホルシュタインか」
何であいつが……? あいつは俺を知らないんじゃなかったのか?
しかし、俺の疑問は次の瞬間吹き飛ばされる。
「平民。命令だ。剣を捨てろ……さもなくばこの雑ざり者の首を削ぎおとす」
そうザムゾンが言い放つと、皮鎧を着込んだ一人が彼の前に少女を引きずり出して無理矢理跪かせる。
乱れた銀髪。悲しげに伏せられる洋紅色の瞳。力なく伏せられた耳と尻尾。
「ステラ……何故逃げなかった」
「それは……」
唸る俺に、目を逸らして言い淀むステラ。
ザムゾンは勝ち誇ったようにニヤリと笑い、サーベルの切っ先をステラの目の前にちらつかせた。
「無駄な足掻きは終わりだ平民。サーベルを捨て、地面に犬のように平伏しろ。貴族たる俺に刃を向けた罪を己の肉体と命を全て使って償え……もう一度言う。命令だ平民」
……何てこった。全部台無しだ。
俺は溜め息を付くと、サーベルの構えを解いた。




