第五話 『力と悪夢』
応接間に立て掛けられたアンティークのホールクロックが10回鐘を鳴らす。
この世界の時の流れは分からないが、結構夜も更けてきたようだ。
「もうこんな時間か。カズマよ、今日はもう遅い。行く当てがないなら今夜は屋敷に泊まってゆけ。 今後の身の振り方は明日ゆっくり考えるがよかろう」
「ありがとうございます。何から何まで良くしていただいて。このご恩は忘れません」
顎髭を撫でながらそう言って笑うメアリム老人に、俺は深く頭を下げた。
着の身着のままで夜の異世界に放り出された身としては、老人の申し出は非常に有り難い。
「大袈裟じゃの。困ったときはお互い様じゃ……ま、お主の不安はワシもよく分かるからな」
メアリム老人は苦笑して肩を竦めると、傍らに控えるベアトリクスさんを振り仰いだ。
「という訳じゃ。ベアト、確かあれの部屋が空いておったろう……こやつを案内してやってくれ」
「かしこまりました」
ベアトリクスさんはそう微笑んで、スカートを摘まんで軽く持ち上げ優雅にお辞儀をする。
「こちらのお部屋をお使い下さい。急なことで片付けも十分ではありませんし、狭い部屋ですから、ご不便をお掛けするかもしれませんが……」
ベアトリクスさんがそういって案内してくれた部屋は、俺が住んでいたアパートの居間ほどの広さだった。
1LDKの安アパート暮らしにとっては十分広い。これが『狭い』なんて贅沢だぞ。
「そんな、ありがとうございます」
部屋に入ってぐるりと見渡す。窓からは月の光が差し込んで明るい。ベッドと小さな机。それだけの簡素な部屋だ……客間というより、誰かの個室だったのだろうか。
ベアトリクスさんは片付けができていないと言ったが、隅に埃が溜まっている訳でもないし、閉め切られた部屋独特の澱んだ空気も感じられない。きっと普段から換気と掃除をしているんだろう。
ベッドも綺麗に整えてあって、普通にマットレスがある。
ファンタジーの舞台としてよく描かれる『中世ヨーロッパ』の寝具は藁にシーツを被せただけのもの、もしくは藁の上に直接寝るもの……そういう話をネットで見たことがあったから、これはありがたい。
そういえば、この世界の文化レベルって、俺の世界で言えばどれくらいなんだろうか……思ったより清潔な街並みやマットレスのあるベッド。少なくとも『中世』レベルでは無さそうだ。
まあでも、今はそんなことどうでもいい。
見ず知らずの世界に放り出された夜に、雨露をしのげる寝床にありつけた事を感謝しなければ。
「それにしても、ベアトリクスさんは日本語がお上手ですね……吃驚しました」
「ありがとうございます。旦那様がこの世界に来られてからずっとご一緒していますから。久し振りに話すので、上手く伝わっているか」
ベアトリクスさんはそう言って、はにかむように笑った。月明かりに照されたその笑顔は思わず見蕩れるほど美しい。
ん? 爺さんがこの世界に来てからずっと一緒って。爺さんがこっちに来たのが二十歳そこそこで、今は多分七十過ぎ位だろうか。
単純に考えて五十年は爺さんと一緒って事か……エルフの外見年齢ほど当てにならない物はないけど、ベアトリクスさんって何歳なんだろう?
と、俺はこの部屋に、微かに残り香の様なような何かを感じた。
メアリム老人も『あれの部屋』と言っていたから、以前屋敷に居た誰かの部屋なんだろうが……この気配、妙に引っ掛かる。
「……この部屋を前に使っていた人って、どんな人ですか?」
俺の問いに、ベアトリクスさんは少し困ったような表情で俺を見た。
「やはり臭いなど気になりますか?」
「いや、そんなんじゃないんですけど……」
上手く説明できないけど、この部屋に漂う気配を俺は知っている。
「ここは、2年前まで住み込みで働きながら旦那様に学問を教わっていた方が使っていた部屋です」
「その人は、今は?」
「より広い世界を見たいと旅に出られました……今はどこで何をなさっているか」
「……そうですか」
俺は前の住人が使ったであろう机を撫でてみた。細かい傷が刻まれ、良く使い込まれている。
この人はメアリム老人の元で何を学び、どう生きようと決意したのだろうか?
「……では、私はこれで失礼いたします。ごゆっくりお休みください」
ベアトリクスさんはにっこり微笑んで、スカートの端を摘まみ腰を落としてお辞儀をすると部屋を出ていく。
「異世界……か」
一人部屋に残された俺は、ベッドに座り暗い天井を見上げて独り言ちた。
異世界転移。頭では理解したつもりだ。だが、感情的な部分ではまだ整理ができていない。
正直、夢であって欲しいと思う。
俺は溜め息をつくと、勢い良くベッドに倒れ込んだ。思った以上に柔らかく、心地いい。
ここに来て、立て続けに色々なことが起こった。そのせいで身も心もクタクタだ。横になって安心したらどっと疲れが出た。
途端に襲う強烈な睡魔に抗えず、俺は意識を手放した。
……
……
……
……
大きな揺れにふと目が覚める。
ここは……どこだ?
俺はぼんやりとした頭を軽く振り、周囲を見渡した。
電車がレールの継ぎ目を刻む規則的な音と、車両の軋む音。天井から下がった吊り輪がリズミカルに揺れ、車窓を飛ぶように電柱が過ぎて行く。
夕陽の茜色に照された車内には、俺以外誰も居ない。
ここは、毎日バイトに行くために使う見慣れた車両だ。
「俺は……一体」
「やあ、カズマ。『この世界』は気に入ってくれたかい?」
不意に聞こえた声に、俺は眉を顰めた。いつの間にか、目の前の座席に少年が座っている。
黒い髪、蒼と紅の異色眼を持った美しい少年。
俺は、この少年を知っている。この世界に来る前、俺はこの少年と会った。名は……
「……『ヴォーダン』」
絞り出すような俺の言葉に、少年は驚いたように目を見開き、すぐに楽しそうに笑う。
「へぇ……幽世領域において現世領域の記憶……しかも異世界の記憶を引き出すことができるなんてね。やはり君は面白いな」
また訳のわからないことを……
俺は僅かに苛立ちを隠さず少年を睨み付けた。
「何が『気に入った』だ。ふざけやがって」
「くくくっ……結構真面目なんだけどなぁ、僕は」
目を細め、少年は口許を歪めて厭らしい笑みを浮かべた。
「兎に角、俺はあの契約に同意した覚えはないし、異世界に飛ばせなんて頼んでねぇ。さっさともとの世界に戻しやがれ!」
「それは、この契約の事?」
そう言うと、少年は指を鳴らした。すると彼の手元に黒いノートが現れる。あの時名前を書かされたノートだ。
「冗談としてはなかなか面白いけど、できない相談だよ。君と僕とのこの契約があったから、君はこの世界に来れた……そうでなければ君の生は、倒壊したアパートの下で終わっていたよ? 少しは感謝してほしいな」
何が『感謝してほしいな』だ。俺がアパートの下敷きになって死んだ? 誰がそんなこと決めた。
ヴォーダンはスッと目を細めて笑った。人を見下すような、邪な笑顔だ。
「君は少し勘違いしているようだね。カズマ。君がここに居るのは我々が必要としたからだよ。君は我々の要件を満たした。だから僕は君を選んだ。それだけの事さ」
「それだけの事って……」
「君はこの世界という舞台で我々を楽しませるための役者だよ。それ以上でも、それい以下でもない……今はね」
絶句する俺に、ヴォーダンは前髪を弄りながら薄ら笑いを浮かべる。
「ふざけるなっ! 人をなんだと思ってやがる……俺は絶対お前の思い通りにはならないからな!」
だが、少年は俺の怒りなど意に介さぬとばかり、黒いノートを振りながら笑って言った。
「言っただろう? 君に拒否権はないよ。まあ、契約は守るさ……君が我々を満足させている間は、ね」
薄気味悪い笑い声をあげるヴォーダン。俺は知っている。こんな顔で笑う奴の『嘘はつかない』は大体が嘘だ。
「疑っているのかい? でも、君は既に僕が目覚めさせた力を使いこなしているじゃないか」
「……なに?」
意地悪い目付きでニヤニヤと笑うヴォーダンに、俺は眉を顰める。
力だと? そんな力は知らない。
「気付いていないなんて言わないでよ? 君には相手の手の内が手に取るように分かっている筈だ」
ヴォーダンの言葉に俺はハッとした。
あの貴族に剣を向けられた時感じた妙な感覚……まさか。
「……『先読み』か」
「君の空間認識能力を飛躍的に拡大させてもらったよ。まあ、君にとっては力を与えられたうちに入らないかもしれないね」
呻く俺に、少年は肩を竦めて笑う。
空間認識能力の拡大……? 果たしてそれだけで説明できるだろうか。
まるで一瞬先の未来を垣間見るようなあの感覚は……
「足りなければいくらでも力を与えてあげるよ? そうだ。新たな世界に立った餞別に、全く新しい力をやろう。世界の理を歪める程の力だ……君達が好きな物語では、神様がこうやって力を与えるんだろう?」
ゆっくり足を組み替えて誘うように囁くヴォーダン。
「断る。そんなものは要らん」
「……ほう?」
即答した俺に、ヴォーダンは愉しげに口許を歪めて目を細めた。
「お前が言う『力』がどれ程のものか知らないが、それはお前の力だ。俺の力じゃない。そんな借り物の力には頼らないさ」
「ふぅん? 力には意思はない……与えられた力だろうと、自らが培った力だろうと、『力』には変わり無いだろう?」
ヴォーダンの言うことは間違ってはいない。力には意思はない。力の意思を決めるのはそれを振るう人間だ。
しかし……
「借り物は所詮借り物。他人の力は加減が分からない。身の丈に合わない力は一歩間違えると身を滅ぼす。他人の力で殺されるのは嫌だね」
意思の力で制御きるのは、自分の努力で手にした力だけだ。制御できない力に意味はない。
そんなもの、無いのと同じじゃないか?
俺の答えに、ヴォーダンは膝を打って肩を震わせ笑った。
「成る程。やはり面白いね、君の意思は。僕の知る誰とも違う。実に興味深い」
そして、少年は意味ありげに口許を笑みの形に歪める。
「カズマ、僕とゲームをしよう。『大いなる冬の刻』まで君が我々を満足させ続けられたら、君が望むものをあげよう」
「望み……だと?」
「そう。永遠の命でも、最強の力でも、世界の王たる絶対的な権力でも、はたまた、世界のあらゆる美女を侍らせるハレムでも。何でも」
「何が『何でも』だ。そんな胡散臭い話に乗るかよ。それに、お前の思い通りにはならないと言った筈だ」
「くくくっ……無欲だね。『大いなる冬』が過ぎ去りし後に訪れる『運命の刻』に、君はどのような姿をしているのか……楽しみだ」
『運命の刻』とか、また訳の分からない事を。
と、少年の姿が徐々に消え始めた。耳障りな笑い声と電車がレールを刻む音が木霊となって、深さを増していく茜色の世界に響く。
「おいっ! 待ちやがれ! ヴォーダン! 勝手に話切ってんじゃねぇ!」
「君が望めばいつだって力を与えよう。では、『君』の道行きに幸あらんことを。リセットされなければまた会えるよ……その時を楽しみに。くくくっ!」
耳元で囁くような声が聞こえた瞬間、俺の意識は茜色の闇に溶けた。
……
……
……
……
はっと目が覚め、弾かれるように半身を起こす。眠気の残る目を擦り、周囲を見渡した。
暁の仄暗い明かりの中、使い込まれた机と木の壁が目に入った。
もしかしたら、朝目覚めるといつものアパートの部屋で、いつもの通りアルバイト漬けの生活が始まるんじゃないか、なんて仄かな期待を抱いていたが。
「今のこれが現実か……」
今度こそ受け入れるしかない。俺は肩を落として髪を掻きむしると、無意識にスマホを求めてベッドをまさぐった。
しかし、直ぐにその行為が無駄であることを思い出して溜め息をつく。
くそ……嫌な夢を見て汗かいちまった。喉が乾いたな。
それに、良く考えたら昨日の夜アルバイトから帰ってから今までシャワーも浴びていない。道理で体が怠いし髪も脂ぎっているわけだ。
俺は勢いつけてベッドから起き上がると窓の外を見た。外は真っ白だ。どうやら霧が出ているらしい。
兎に角今は水が飲みたい。台所に行けば水瓶があるかもしれないが、肝心の台所の場所がわからない。
しょうがない。外に井戸ぐらいあるだろう。
俺は体を伸ばすと、部屋を出た。
朝靄のなか、欠伸を噛み殺しながら井戸を探す。霧は濃いが歩けないほどではない。
メアリム邸の水場は屋敷の裏、水車小屋の前にあった。井戸から水を汲み上げるのは、釣瓶ではなく手押しポンプ。
これもかなり年季が入っている。しかし懐かしいな……現役の手押しポンプは祖父母の家の庭で見て以来だ。
初めて見たときは結構感動したっけ……
運河を流れる水の音と、水車の軋む音をぼんやり聞きながら、木桶に水を汲み顔を洗う。
冷たい水が起き抜けの体に心地よい。俺は服を脱いで裸になると徐々に体を冷たさに慣らしながら水を浴びる。
最後に頭から水を被って、俺は大きく息を吐いた。
頭が冴えてきて、ふとさっきの夢を思い出す。
ヴォーダンめ。
神様だかなんだか知らんが、ふざけた事ぬかしやがって……絶対奴の思い通りになんてなってやるもんか。この世界が俺の現実なら、俺の意思で生き抜いてやる。
リセットだろうが何だろうが知ったことか。
そうと決まれば、自分が生きるために必要なもの……言葉とか世の中の仕組みとかを学ばなきゃならない。
無条件にチート能力やゲーム脳を再現してくれる女神様の加護なんてのはご都合主義の妄想の産物だ。現実にそんなことを言ってくる奴は、あのヴォーダンのような怪しい奴ばかり。
メアリム爺さんに相談しよう。まずはそれからだな。
俺は、再びバケツに水を貯め、冷たい水で顔を洗う。
朝陽が遠く山の稜線から顔を覗かせ、眩しい光が庭を照らす。朝霧は溶けるように消えて、世界は色を取り戻していく。
何処かで鶏が朝のひと鳴きをあげた。新しい一日が始まろうとしている。
俺も一歩を踏み出そう。行く先は見えないけど。