第二話 『異邦人と犬耳娘』
ーー嫌な、本当に長くて嫌な夢を見ていた。
目が覚めて最初に感じたのは、冷たく固い感触。軋むような全身の痛みに顔を顰めた俺は、呻き声をあげながら凝り固まった体を伸ばすと、うっすらと目を開ける。
……視界が滲んでいる。寝ながら泣いてたのか? 俺は。
慌てて涙をぬぐい、周囲を見渡す……ぼんやりと目に写った景色に、俺は眠気が一気に吹き飛んだ気がした。
地面はゴツゴツした石畳。同じような石壁が高くそびえ、四角く区切られた空は見たこともないような明るい星空。
頬を撫でる冷えた風、何処からか聞こえる喧騒。
……外だ。
俺は、道端で踞って眠っていたのだ。何時、どんな経緯でこんな場所で眠ることになったのか……記憶がぼんやりしていて思い出せない。
ただ、思い出そうとすると胸が締め付けられるように痛む……ような気がする。
空気が少し肌寒くて、俺は身震いした。身に付けているのはワイシャツとスラックス。それに靴下のみ。鞄や財布、それにスマホも持っていない。
財布とスマホが手元にないのは、かなりヤバイ。
しかしここは……どこだ?
石畳の道なんて俺の住んでる街には無かった筈だが。この暗く細い感じ、喧騒の雰囲気からしてどこかの繁華街の路地裏だ。
……経験上、こんな場所で座っていると碌な事がない。
兎に角、明るい場所に出なきゃ。
俺はふらつきながら体を起こすと、灯りが見える表の通りに歩き始めた。
「これは……」
細い路地から灯りのある通りに出た俺は、目の前に広がった景色に言葉を失った。
そこにあったのは、ヨーロッパの旧市街を思わせる、レトロな街並み。
石積の建物が整然と並ぶ石畳の通りを、小洒落た公園に有りそうな街灯の灯りが照らしている。
街灯に揺れる灯りはLEDの冷たい光ではなく、本物の灯火のようだ。
道を歩く人々は老若男女皆、紅毛碧眼の西洋人。身に付けている服は洋画のファンタジーものでエキストラが着ているようなチュニックやワンピース……
しかし、初めて見る景色の筈だが、妙に見覚えがあった。
通りにあるビヤジョッキの看板を下げた酒場も、店先で樽ジョッキ片手に談笑している酔いどれ親父も、行き交う人々から漏れ聞こえる言葉も、英語っぽい看板の文字も……勿論意味なんて分からないが初めてじゃない。
……明晰夢でも見てるのか? 俺は。
訳が分からず頭を抱え込んだ……その時。
「おおぅっ?! 」
突然何かに体を突き飛ばされ、不意を突かれた俺は、思わず変な声を上げて石畳に尻餅をついてしまった。
ってぇな……またかよ。
心のなかで毒づきながら、ぶつかってきた相手の方を見る。
そこには一人の少女が倒れていた。
一瞬、ほんの一瞬。美しい亜麻色の髪が見えた気がした……が、少女の髪は銀髪。
泥に汚れ、あちこち擦り切れた白いワンピースを身に付けた細身の少女だった。
俺は……何を見たんだ?
「うぅ……っ」
彼女は小さく唸って体を起こすと、俺を見て怯えたように顔を強張らせた。
あちゃ……流石に女の子を怯えさせちゃ不味いな。
「君、大丈夫? ……怪我はなかった?」
俺は少女を怖がらせないよう、なるべく優しく微笑みながら少女に手を差し出す。
彼女の歳は十四、五歳くらいか。
腰まで伸びた銀髪は絹糸のように艶やかで美しい。
肌は透き通るように白く、顔立ちに幼さが残るものの、意思の強そうな洋紅色の瞳とスッと整った鼻梁をした、思わず見とれるような美しい少女だ。
よく見ると耳の所が灰色の毛に覆われた三角耳で、ワンピースのスカートから太くてしなやかな灰色の尻尾の様なものが覗いている。
耳と尻尾の形は犬というより狼のものに近い……まさか、これは異世界もののライトノベルでお約束の犬耳娘というやつか!?
「君は……」
「何厭らしい目でジロジロ見てるのよっ!? 変態!」
「……へ?」
彼女の言葉は分からない。だが、表情や身を固くする仕草から少女が俺を不審者扱いしているようだった。
彼女があまりにアニメの獣耳娘そのものだったから、思わず物珍しげに眺めたりはしたが……いや、それがいけなかったか。
軽く凹んでいると、突然数人の男達が人混みを掻き分けて現れた。
「見付けたぞ! 小娘!」
「『混血種』風情が。鼠のようにちょこまかと逃げ回りおって……っ! まったく、手間をかけさせる!」
いつの間にか、俺は男達に囲まれていた。全員金の縁取りがされた黒い詰襟に身を包んでいる。腰に下げたサーベルがキラキラ光っていた。
サーベル? 何だ、この連中……コスプレにしてはリアルな。
しかし、やっぱり彼等も何を言ってるのか分からない。でも、友好的な連中じゃないことは分かった。
彼等の目付きは、弱者を追い回すチンピラの目だ。こんな目をした連中にまともな奴はいない。
「……っ! 」
男達の剣幕に、狼耳少女は小さく悲鳴をあげて俺のシャツの袖を掴む。
「もう逃げれんぞ? 女。無駄な足掻きは止めろ。今ならまだ悪いようにはせぬ」
男達の後からやって来た若者が、少女を見下ろして何か言った。連中も派手だが、この若者はひときは豪華な飾りをつけている。
まだ若い。二十歳そこそこと言ったところか。金髪碧眼、彫りが深く鼻が高い。背丈も雑誌のモデルみたいに高く、白馬の王子様然とした美形だが、それが冷たく傲慢な雰囲気を際だ立たせている。
その男を見た瞬間、俺は自分の頭に血が上るのを感じた。目がチカチカして動悸がする。
何だ……俺はこの男を知っている。
犬耳少女は慌てて立ち上がると、金髪の優男の前に出て彼を睨み付けた。
「一体私があんた達に何をしたって言うのよ?! いい加減にして! もう放っといてよっ!」
「黙れっ! 平民の、しかも混血種の分際で私に口応えするかっ!」
金髪はそう叫ぶと、少女を張り倒した。殴られた少女は悲鳴をあげて石畳に突っ伏す。
彼等と彼女が何を話しているのか理解できない。何故男達は少女を追うのか、彼等との間にどんなトラブルがあったのかも分からない。
だが、男達の様子や少女の表情、それに俺達の周りを遠巻きに囲む野次馬の雰囲気から大体の状況は読めた。
少女は理不尽な理由で男達に追われ、追い詰められている。
この光景は……既視感か。くそっ!
「来い、小娘。今までの無礼を身体で償わせてやる」
「……やってみなさいよ」
少女が優男に何か言い返し、それを聞いた優男は顔を歪めて舌打ちをすると腰のサーベルに手を掛けた。
男達の目に俺は見えていないのだろう。野次馬に紛れれば面倒事に巻き込まれずに済むに違いない。
ふと、少女と目があった。彼女の表情は恐怖に歪んでいるが、その目にはまだ強さがある。
そんな彼女に背を向けられるか?
否。ここで逃げたら男が廃る。そして、同じ後悔は二度としたくない。
俺は犬耳少女を庇うように金髪の優男の前に立ち塞がり、男を睨み付けた。
「……なんだ? 貴様」
ここでやっと優男の視界に俺が入ってきたらしい。彼は胡乱な表情をしてサーベルから手を離す。
「もう止めてあげてください。女の子一人に大の大人が寄って集って。彼女が何をしたんです?」
「……なに?」
優男は一瞬戸惑いの表情を浮かべ、奇妙なものを見るような目付きで俺を見た。
「何訳の分からん言葉を喋っている? ……その奇妙なりといい、貴様、どこぞの夷人か」
優男が何か言って鼻で笑う。俺を取り囲む男達も小馬鹿にしたような笑みを浮かべて俺を見ている。
言葉はわからなくても、目や態度で言わんとしていることは何となく伝わるものだ。
俺は腹立たしい気持ちをグッと押さえた。
相手は俺の言葉が理解できない。言葉で意志疎通ができなければ、話し合いでこの場を収めるなんて無理だ。
そう言えば、アルバイト先の新人が最近外国人ばかりで、言葉がうまく通じない事が多くなった。彼等は俺の言葉を理解しようとしてくれるので、身体言語でも何とかなったが……
「夷人とはいえ、貴人の前に立ち、その行いを妨げた無礼、ただで済むとは思うまいな? 私は虫の居所が悪い」
優男は剣呑な口調で言い、目をスッと細めた。どうやら俺が少女を庇ったのが気に障ったらしい。剥き出しの殺気を俺に向けてくる……威嚇にしては物騒だ。
「そこを退け、下郎。退かねば斬る」
「……だから、こんな事は止めましょうよ……って、え?」
ふと、先程まで背後に居たあの狼耳少女の姿が無いことに気づいた。どうやら男達の目が俺に集まった隙に逃げ出したようだ。
『ありがとう』の一言も無しか。まあ、なにか言われても分からないが、取り敢えずよかった。
「ほら、女の子も居なくなったし、これくらいにしませんか」
身振りで男に状況を伝える。それを見た男は、意味を察したのか表情を一変させた。俺を取り巻く男達の雰囲気も険悪になる。
「私を愚弄するか……臣民ですらない夷人の分際で……っ!」
優男は腰に下げた黒地に金の装飾が施された派手な鞘から、これまた豪奢な装飾が施されたサーベルを抜いた。
刀身が灯りに照らされてギラリと光る。模造刀……にしては輝きが鋭い。
真剣? マジかよ。
「死ねっ!」
反射的に身構えた俺に、優男は最上段から斬りかかってくる。思ったより鋭い!
俺は体を半身ずらして一撃を躱すと、飛び退って間合いを取った。
高校生の時に部活で剣道やっていて、国体選手候補になった事もある。それに、バイトでヒーローショーの戦闘員A役もやってたから、刀相手の身のこなしは体に染み付いている。
いや、それだけじゃないな。相手が動く一瞬、剣閃や動きが見えた。
こんなこと、現役時代にも無かったのに。
「貴様……何故躱した!?」
優男は俺に一撃を躱されるとは思っていなかったのか、何事か吐き捨てるとサーベルの構えを替えた。
さっきの雑な構えではない。本気の構えだ。こいつ、本気で俺を殺しに来るのか?
「お願いします。もう止めてください……それ、冗談じゃ済みませんって!」
言葉が通じないのは分かっているが、態度と表情で宥めてみる……が、頭に血が昇った相手には何を言っても逆効果か。
「しぃっ!」
男は短く気を吐くと、突きを放って一気に間合いを詰めてきた。その瞬間、彼が何をするつもりか、剣の軌道が次にどう来るか、まるで光の軌跡のように脳裏に飛び込んでくる。
この感覚はなんだ?!
逡巡は一瞬。俺は再度体を半身ずらして躱し、次の手首を反した斬撃も体を反転させて避ける。
そのまま体を男に密着させ、サーベルを持つ右手首を掴んで押さえ付けた。
「ぐっ! 無礼者っ! 離せっ!」
男が何か喚きながら腕を抜こうとするが、引っ越し業者のブラックなバイトで鍛えられた膂力と握力を嘗めて貰っては困る。
「お願いします。退いてください」
俺はそう言って左手で男の襟首を掴み、足を払って柔道の足技のように引き倒す。
倒された優男は綺麗な顔を歪め、仁王像の吽形みたいに唇を噛み締めて俺を睨むと、予想外の展開だったのか呆然としている取り巻きに叫んだ。
「殺せっ! 構わぬ! この男を殺せっ!」
「はっ!」
優男の取り巻きが一斉に抜刀する。その表情は怒りと屈辱で殺る気満々だ。
ここまで派手なことになれば警察とかが駆け付けて来る筈だが……野次馬は息を飲んで成り行きを眺めているだけで通報しようともしない。
まさか……
俺の脳裏に嫌なものが過った。
その時。
「暫く! いや、そこの御方々、暫く待たれよっ!」
野次馬を掻き分けて、白い髭の老人が何事か叫びながら俺と男達の間に割って入ってきた。
……今度はなんだ?!