第十一話 『幸運な災難と迷惑な申し出』
皇帝陛下に謁見して数日が過ぎた獅子月の中頃。
朝食を済ませた俺は、竜巻号を厩から出して体の手入れをしていた。
朝の涼しい風が心地いい。
クリフトさんからトロンベの世話を任されてから、朝の手入れは俺の日課のひとつになっている。
トロンベを厩から出して馬蹄に詰まった土や糞を掻き出し、束ねた藁で体を拭いてやった後に鬣や尻尾にブラシをかけてゴミを取り除く。
手入れが終わったら馬房を掃除して、運河沿いの草原でトロンベを運動させるついでに俺の乗馬の練習。ひとしきり走ったら戻って藁で汗を拭ってやり、馬蹄の手入れをして厩に戻して餌を食べさせ、取り合えず終わりだ。
馬の世話はポニーしか経験がなくて最初は戸惑ったけど、最近ようやく手際よくできるようになった……気がする。
「へえ……カズマって、馬の世話とかもしてるの? 宮中伯様の従者って、雑用までさせられるのね」
不意に背後から声を掛けられ、俺はトロンベの体を拭く手を止めた。こいつ、さっきから鼻水を垂らしてやがる。
しかし、この声はまさか……
迂闊に振り向けない俺は、失礼とは思いつつも、声の方に顔だけ向けた。
声の主である赤い癖っ毛の少女は、以前会ったときと違い長靴にスッキリとした乗馬服という出で立ちだ。長い髪はアップに纏めてあり、活動的な雰囲気が際立っている。
彼女は腰に手を当て、少し窮屈そうにも見える豊かな胸を突き出すようにして立っていた。
シャルロット・フォン・ブルヒアルト。ブルヒアルト家の次女で伯爵令嬢。
「……何故貴女がここに居るんですか。ブルヒアルト嬢」
「何よ、そんなに私がここに来ちゃいけないの?」
憮然と唇を尖らせる伯爵令嬢。まるで仲間外れにされて拗ねる子供のようだ。
「いえそんな、とんでもない」
「そう? なら良いけれど」
でも、せめて事前に知らせて欲しいな。友達が急に遊びに来るのとは訳が違うんだから。
俺は軽く息をつくと、トロンベに背を向けないように気を付けながらシャルロット嬢に向き直った。
「それで、お嬢様、当家にはどのようなご用件で?」
「……遠乗りのついでに、父から宮中伯様に夜会のお礼の手紙を届けに来たのよ」
「……はあ」
シャルロット嬢は少し自慢げに笑うと、親指で屋敷の入り口を指差した。見ると、屋敷の柵に青毛の馬が繋がれている。
一頭と言うことは一人で来たのか? 供も連れず? 大胆というか、無防備というか。
「……いつもお一人で遠乗りをなさっているんですか」
「違うわ。いつもは護衛付きよ……だけど今日は、一人で来たかったから、護衛置いてきちゃった」
そう言って腕組をし、悪戯っぽく笑うシャルロット嬢。
……護衛を置いてきたって、マジかよ。
帝都の城壁の外まで一人で馬を飛ばしてくるとは、確かにとても活動的なお嬢様だ。
これでは家の者も気が気ではないだろうな。
俺はシャルロット嬢に気付かれぬよう、小さく溜め息をついた。
しかし……改めてシャルロット嬢の姿を眺めて思う。
ドレスの時も大きいとは思ったが、タイトな乗馬服だと大きさが目立つな。しかも寄せるようにして腕組をしてるから豊かな膨らみが持ち上がって、より強調されてる。
自然に目が行ってしまうのは男の性だから仕方ないよな。
はあ……朝から何を動揺してるんだ? 俺は。相手は故郷で言えば17、8歳の高校生じゃないか。
「さ、宮中伯様の所に案内して頂戴」
「分かりました。メアリム様なら本日は屋敷にいらっしゃいます。客間にご案内しますね」
手に持った藁を置いて、俺はシャルロット嬢を屋敷に案内しようと歩きだした。
その瞬間、背中を強い力で突き飛ばされる。
背中に触れる柔い感覚。粘っこい物が擦り付けられる嫌な音……振り返るまでもない。しまった……っ! 動揺してトロンベの鼻の事を失念していた。
しかも、余程鼻がむず痒かったのか、トロンベは思いきり俺の背中に馬面を擦り付けてきた。
結果、俺は体勢を崩して前につんのめり、反射的に目の前の物……シャルロット嬢に手を伸ばした。
「うを……っ!!」
「きゃっ!」
思わず、彼女の肩を掴んで引き寄せ、互いの息遣いが分かる距離で見詰め合う形になる。
「あっ……」
シャルロットは顔を真っ赤に染めて、惚けたような表情をした。彼女の明るい翠の瞳が動揺して激しく揺れている。
「……っ!」
少しの間見つめあった後、彼女は瞳をさ迷わせ、目を逸らした。
その表情がすごく可愛らしくて、俺は一瞬ドキリとする。
「その……申し訳ございません。つい……」
慌てて詫びる俺。と、みるみるシャルロットの顔が険しくなった。
「っ……! カズマ、あ、あ、あんたっ!」
唇を結び、真っ赤に顔を染めて唸るシャルロット。
言われて俺はハッとした。右手は彼女の細い肩を、左手は柔らかくて豊かな膨らみを鷲掴みにしている。
「……っ! これは、ちがっ!」
そう。これは不可抗力だ。弾みだ。大きくて掴みやすいんだからしょうがないじゃないかっ!
「問答無用っ! 物事の順序は守りなさいよっ!」
って、何だよ、物事の順序って!!
甲高い叫びと共に、シャルロットの拳が俺のこめかみを貫いた……
……
……
……
……
「なんじゃ、その顔は……トロンベめに蹴られでもしたか?」
「そんなわけないでしょう? 馬に顔を蹴られて青アザで済むわけ無いじゃないですか……色々あったんです」
俺は少し投げ遣りな口調で答えると、シャルロット嬢から預かったブルヒアルト伯爵の手紙をメアリム爺に渡した。
シャルロット嬢はと言えば、何事もなかったように客間でベアトリクスさんの淹れた紅茶を飲んでいる。
俺を殴り付けたあと。
「なにそのネバついたのっ! 最悪っ!」
俺の背中にベットリついたトロンベの鼻水に、シャルロット嬢は嫌悪感を露にして叫んだ。
「馬の鼻水ですよ……こいつの妙なクセで。くそっ! 迂闊だった」
「馬の? 鼻水……」
俺の言葉に、シャルロット嬢は驚いたような呆れたような表情をする。
その時、トロンベが自慢するかのように高々と嘶いた。その様子にシャルロット嬢が腹を抱えて笑い出す。
……まあ、怒って機嫌悪くなるより俺の失態を笑ってくれた方がいいか。
ひとしきり笑ったあと、お嬢様は涙を拭い、笑いすぎて乱れた髪を整えて、俺にビシッと指を突きつけた。
「ワザとじゃないなら今回だけは許してあげる。でも、次はちゃんと順序を守んなさいよね! そうじゃなきゃ、許してなんてあげないんだから」
だから、なんの順序ですか? お嬢様。
うう。思い出したら青アザが疼いてきた。
まあ確かに、弾みとはいえ伯爵令嬢の肩を抱き寄せて胸を揉んでしまったのだから、殴られるくらいで済んだのは幸運だったのか。
今日は女難の相が出ているのかもな。
「しかし、伯も律儀よな。礼なぞ次に会ったときで良かろうに」
メアリム老人はそう言いながら、ブルヒアルト伯爵家の紋章が刻印された封蝋をナイフで切り、手紙に素早く目を通す。
最後まで読んだ老人は俺を一瞥して肩を竦めた。
……なんだよ。気持ち悪いな。
「伯が、従者殿によろしくとさ。伯爵に顔を覚えられたぞ? 良かったの」
メアリム老人はそう苦笑すると、直ぐに手紙の返事を書き始めた。
悪いことで顔が売れるのは考えものだけど、そうじゃないなら、悪い気はしないな。
「しかし、わざわざシャルロット嬢が届けに来たというから、どんなものかと思ったぞ。礼状など使いの者に持たせれば良いものを。しかも、嬢は一人で来たのだろう?」
手紙を書き終えたメアリム老人は、手紙を丸めると赤い蝋を蝋燭の火で溶かして垂らし、それに指輪を押し付けた。指輪印章ってやつだ。
「なんでも、護衛を置いてきたそうです……まったく、じゃじゃ馬にも程がある」
「……ほう? それはそれは。お嬢様がそこまでやる理由とは、何であろうの」
老人はそう言って意味ありげに笑った。
だから、なんでそんな悪人面するかな。
……
……
……
……
「お待たせしましたな、ブルヒアルト嬢」
「とんでもございません。大変美味しいお茶を頂きました」
客間に入ったメアリム老人に、シャルロット嬢はソファから立ち上がると、胸に手を当てて優雅に頭を下げた。
やっぱり伊達に伯爵令嬢してないな。人の顔にグーパンチ飛ばして青アザ作った子と同じ女の子とは思えない。
メアリム爺の後ろで呆れる俺に気付いたのか、シャルロットは微かに眉を顰めた。
「それは良かった。ベアトリクスも喜びます」
メアリム老人は満足そうに笑うと、先程書いた手紙をシャルロット嬢に手渡す。
「これを伯爵殿に。メアリムが『お困りの際はいつでも仰有ってください』と申していたとお伝えください」
「分かりました。お伝えいたします」
シャルロット嬢はそう言うと、手紙の封蝋の刻印を確認して手紙を乗馬服の懐に入れた。
「……しかし、このようなお役目を伯爵令嬢がなされるとは、意外ですな」
「それは……」
髭を撫でながら笑うメアリム老人を、シャルロットは意を決した様に見つめる。
「実は、お願いがあって参りました」
「ほう、ワシができることなら何なりと」
孫を見るような好好爺然とした笑みを浮かべて頷くメアリム爺に、シャルロット嬢はとんでもない事を口走る。
「カズマと……手合わせさせてください」
「……はい!?」
予想の斜め上をいくお嬢様の申し出に、俺は思わず素っ頓狂な声をあげた。
メアリム爺は穏やかな笑みを崩さず、顎髭を撫でながらお嬢様に問い掛ける。
「何故にカズマとの手合わせを望まれる?」
「私はあの夜、カズマの剣を、その速さ、美しさ、力強さを目にして心震えました。あんな風に剣を振るいたい……そう思ったんです」
シャルロット嬢は膝にのせた拳を握り締め、真剣な表情で語る。
……凄く好意的に評価してくれるのは嬉しいけど、俺はあの決闘はもっと巧く戦えたと思っている。
「それで、こやつに剣の手解きを?」
「はい。でも、その前にもう一度感じたい。カズマの太刀筋を……それが理由です」
太刀筋を感じたい……耽美的な言い方だけど、要は一回俺と試合りたくなった、て事だろう?
でも、お嬢様相手は不味いと思う。
「宮中伯様、俺は反対です。もしお嬢様が怪我などしては、伯爵様に申し訳が立ちません」
例え木剣だろうと、いや竹刀であっても怪我はする。同じ剣道部員や試合相手ならいざ知らず、伯爵令嬢を傷物にでもしたらそれこそ俺の命がない。
メアリム老人は難しい顔で俺を手招きすると、俺の耳元に日本語で囁いた。
「伯爵令嬢は、この為に護衛を置いて一人屋敷に来たのだぞ? ……そんなじゃじゃ馬が正論で納得すると思うか?」
「……思いません」
『怪我するから』、なんて言葉で諦める位ならそもそも一人で帝都の城壁外まで来ないな。
「なら、諦めよ」
そう言って俺に下がるように合図すると、メアリム爺はあの優しい笑みを作った。
「お嬢様のお考え、良く分かりました。ワシも回復魔法の心得があります。多少の怪我ならたちどころに癒しますよって、存分にこやつを使って下さい」
「ありがとうございます! 宮中伯様!」
表情を輝かせて深く頭を下げるシャルロット嬢。
……本気かよ。全く。