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箱詰めの騒音

作者: 湯納


「ちょっと! あなた今触ったでしょ!」


 金切り声が、静寂だった車内に響き渡る。


「ち、違います! 鞄が当たってしまったんです、すいません」


「いいえ、触ったわ。私、触られたもの!」


「なっ! そんな事ないです!!」


 朝だ。朝なのだよ、諸君。

 寝ぼけ眼を擦って、重い体を引っ張って、見知らぬ大人たちと肌を密着させストレスフルな通学時間を送る健気な子供がここに居るんですよ。

 ただでさえ低血圧も相まって空の青さも憎いほどに不愉快な気分のこんな朝っぱらから、重ねて人をイラつかせるようなイベントは勘弁して欲しい。

 個人的なエゴなのは分かっている、当人にとってそれはもう一大事なのだろう。分かるとも。少なくとも男性側は白黒どちらであっても人生を左右する事に違いないだろうさ。

 だが言わせてほしい。傍からすればどちらが正しいという話にも興味ないし、ただただ迷惑だから大声で怒鳴り散らすのはやめてくれと。


 生まれてまだ十余年だというのに、大人に混じってめちゃくちゃな密度の箱の中でただただ茫然と立つという過酷溢れる苦行の日々に身を置いているのだ。それも週に五日。夏の日も冬の日も。俺が何をしたというんだ。まるで刑じゃないか。

 窮屈な場所に流し込まれ、かき乱され、息もできぬほど圧迫され、吐き出される。電車とは、人を人とも思わぬ出荷装置か何かなのではないか。社畜と、その優秀なサラブレッド達を出荷する、非人道的な装置。

 進学校なんて目指すべきではなかったのかと疑念が過るほどに億劫なこの時間。唯一の安らぎと言えば鼓膜を揺らす楽曲だけだというのに、今日はそれすら台無しだ。


 言うなれば初めから最悪だった。

 目の前の豊満な肉体を見せつけんばかりに誇張し続ける哺乳類は中々に個性的な香りを辺りに漂わせていらっしゃる。隣の幸運値が低そうな紳士は首をこくりこくりと揺らしながら惜しげもなく美しい頭皮の姿をこちらへと晒している。お持ちのスーツケースが揺れに合わせて脇腹を小突いてくる辺り、不愉快ポイントを稼ぐの上手なようで。

 それらも目を閉じ意識をすべて聴覚へと向ければなんとか平静は保てた。たまに現れるシャカシャカヘッドホン野郎や、舌打ち過剰反応爺も今回のクエストでは現れないようであるし。

 点数にして10点くらいか。40点あれば快適と評さざるを得ない普段の在り方を鑑みるに、今日の評価は点数が正の数であるだけマシと言ったところだろうか。

 

 ……が、それももはや過去の話。


「違いますって! 僕はやってません、鞄が当たっただけですよ!」

 

「触ったわ! 絶対触ったわ! 痴漢! 痴漢ですー!!」


 マイナス5億点。

 唯一の安らぎであった音楽もいまや雑音に過ぎない。更には自分だけでなく周りまでもがピリピリし始めている。あと4駅もあるのに、本当に勘弁してくれ。して下さい。お願いします。

 

 そもそもなんで痴漢なんてするんだ。なんで冤罪なんて起こるんだ。

 と語り口を切り、『本当に恐ろしいのは正義感に駆られ思考を失い、痴漢の真偽も問わず平気で怪しいと決め掛かっては暴力を振るう周囲の野蛮人どもだ』とか、『過剰反応する自意識の塊のようなやつは厳罰に処せ。まずは鏡を見てからものを言え』とか、『自己の性的欲求を犯罪と分かっていながら他人を利用して昇華させようとする害獣は駆逐だ。人権などあるものか』とか、思う事を攻撃的な言葉でもって吐きたくもなるものだが、兎角不愉快な今、その話題に思考を割くという事すらしたくない。限りある脳の活力をそれに回したくない。だから、これ以上は考えない。


 ただただ、静寂が一刻も早く訪れるように。平和を祈る一市民となるだけである。


 電車が派手に揺れ、口論おじさんと口論おばさんが一瞬黙った。

 周りの大人たちもよろめき、体勢を保つのに意識が向いたようで緊迫した空気が若干和らぐ。


 ようし、これをきっかけに少しは落ち着きを取り戻し冷静になってくれ。

 

 一瞬訪れた沈黙に、俺は希望を垣間見て少しばかり気を良くした。

 イヤホンへと耳を傾ける余裕ができ、意識を向ければ流れてくるのは先日、洋楽好きの友人に借りた多数のアルバムのうちの一枚であった。正直英語は何を言っているのかよく分からないが、ノリが良かったりするので好きだ。

 そう、丁度流れ始めたこの曲も。なんだっけ、聞いたことはあると思うんだけど。サビを聞けば分かるはずだ。えっと……。


 隣の"立ちうたた寝"おじさんが重心を変えた際、姿勢を起こした事でスーツケースに引っかかっていた赤い俺のイヤホンが引っ張られ、容易くジャックから引き抜かれたコードは華麗な軌道を辿りながら宙を舞った。


 走馬灯のようにゆっくりと流れるその光景と共に、耳には思い出せなかった洋楽のサビが軽快なリズムと共に流れ込んでくる。いつもよりも小さな音量で、広範囲に散る音として。

 

 それは、英語で『性交』を意味する単語を連呼しているように聞こえるあの曲。あらゆる酒やカクテルの名前をノリ良く歌にしたかの有名な楽曲である。 


 『(サビ)♪』


 ……。


 『(サビ)♪』

 

 無数の目が、俺を射殺すように見つめている。

 ああ、口論していた二人までもがこちらを見ている。


 『(サビ)♪』


 殺してくれ。修復不可能なほどに砕け散ったこの心に、平穏が訪れるなら。


 『(サビ)♪』


 ああいっそ、飛び込むか。

 

いい曲ですよね。好きです。

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