魔女の家
森の上を飛ぶ。
どれだけ飛んだんだろう。
「ねえ、ミル。」
「なんですか?」
「あとどれくらい飛ぶの。
ミルは器用に片手でアキを抱きしめながら、もう片方の手で杖を掴んでいる。
「そうですね……あと十五度程ですかね。」
「度?」
あまりイメージがわかない。
「あー、つまり、あそこの月がもうちょっと上に来たらってことです。」
「つまり、月の角度が十五度上がるくらいってこと?」
ミルが意外そうにこっちを見る。
「そういうことです。理解力はあるんですね。」
うーん、なんか馬鹿にされた感がある。
ともあれ、こっちでも二十四時間で一周とすると、十五度だと、えーっと、一時間くらい?結構暇なもんだ。
と、急にがくんと杖が高度を下げた。
あわてて杖を掴む。
「ど、どうしたの?」
「えー、まことに言いにくいんですが……。」
箒を掴んでいたミルの手が青く光り出した。
「あと十五度ほどで、お師匠様たちの住んでいるお家なんですけど、長くてもあと二度程しか飛べません。ていうか、割ともう限界です。」
「でもその光って。」
青い光を指さす。これって魔法を使ってる証なんじゃ。
でも、ミルは首を振る。
「これは、むしろ限界の証です。もう、あまり、制御が。」
言いながらも、光は強くなったり弱くなったりして、それに合わせて杖も落ちたり持ち直したりを繰り返す。
「ダメです。軟着地を目指して滑空します。捕まってください。」
「へ、うわぁ!」
ミルは大事なものを抱えるようにぎゅっとアキを抱きしめて、杖の向きを下げる。
杖はそのまま速度を上げながら降下を始めた。
僕は、杖に捕まっているので精一杯だった。
もう落ちる。というか、落ちる。落ちるしか言えない。
さようなら、僕の未来。助かったと思ったら、やっぱり死ぬらしい。
落ちる途中でミルがだんだんと杖の角度を上げて、速度を維持したまま横向きにしばらく飛んだが、だんだんと木々が近づいて来る。
「避けてください!」
「いや、何言ってんの!?」
ミルも相当混乱しているに違いない。避けるっていう密度の枝じゃない。というか、こんな杖の上で、どうやって避けろっていうんだ。
とりあえず体を左右に振ってみるが、これはむしろ悪手だった。
当たる面積を無駄に増やし、余計にがっさがっさとぶつかっていく。
幸いなのは、上の方だからか枝がそれほど太くない。
それもあってか、森の中に入ってからどんどん杖の速度は落ち、やがて角度も下向きになって、ほんとに落ちていった。
「ぅわわあわわ!」
「私たちを包んで!」
僕が叫び、ミルが叫び、僕たちは地面に墜落した。しかし、思っていたような衝撃はなく、土がクッションのようにふんわりとやわらかく沈んだだけだった。
「はぁ、はぁ、はぁ。」
何も言えない。息を整えるだけだ。
足を見る。けがはなさそう。
手を見る。所々赤くなっている。枝にぶつかったせいか。
体を見る。ちょっと服が破けている。
とりあえず、五体満足か。
大きく息をついた。そして、ゆっくりとミルの方を見る。
「って、ミル!?」
ミルはアキを守るように下敷きになり、仰向けになって倒れていた。
「大丈夫!?」
「うる……さい。ちょっと、疲れた、だけ。」
ミルは苦しそうに、切れ切れに声を出す。
とりあえずアキを持ち上げる。
「ぐ、」
おも……いが何とか声は出さなかった。もう僕にかかっていた魔法も切れたらしい。
何とか持ち上げて、アキを静かにミルの隣に寝かせる。
「ふぅー。」
手をつっかえ棒にしながら座って、周りを見渡す。
どうも深い森の中に落ちたようだ。二つの月の光がほんのりと漏れている。
風で木々が揺れている。いや、風なんだろうか。
音が、鳴っている。ざわざわ、ざわざわ。
なんだか、何かが出そうな雰囲気だ。背筋がぞくっとする。
いや、両手をだらんと下げたものの方がいいか。文明のぶの時も感じられないここに出るといえば……。
何物ともいえない泣き声が聞こえてきた。慌ててミルの体を揺する。
「ミル、ミル!ここ、何かいる!」
「そりゃ、そう。森に、何も居なかったら、それこそ大問題。」
まあ、そうか。
「じゃなくて、危ないんじゃ……。」
ミルは首を動かしてこっちを見ると、面倒くさそうに口を動かした。
「へこんで。」
すると、アキの寝ている部分だけ、ぐぐっとゆっくりと沈んでいった。
「って、僕は……?」
ミルはまた空に顔を向ける。
「おと、このこでしょ?も、限界。」
そして、ミルは寝息を立ててなにをしても反応しなくなった。
なにをしても……といったって、僕には何をすることも出来ない。そんな度胸はない。
ただただ、何か動物に襲われないか怯えながら、一睡もできないで、せめてアキのいる穴の上で隠すように寝っ転がった。
漏れ入る光の色が変わったことに気付いて、目を開けるともうミルは起きていて、杖の調子を見ているようだった。
「あ、起きましたか。」
ぼーっと、ミルを見ていると、手でどくように指示をしてきた。
体を動かすと、ミルは杖を突いてアキを地中から浮き上がらせた。
「はい、抱えてあげて。」
「あ、うん。」
アキの下の地面が他と同じ高さになったところで、抱え上げようとするが、やっぱり、つらい。
「ね、ねぇ、ミル。」
ミルは僕の情けない姿を見て、何か納得したように、杖に乗りながらふよふよとこっちに近づいてきた。
「はい、お疲れ様。」
「あ、はい。」
促されるがままにアキを手渡す。昨日と同じように、片手で抱きとめる。
「ミルって、意外と力持ち?」
「じゃ、行ってきますね。」
「や、待って待って。ごめんなさい。」
誠心誠意謝ると、ちょっと飛んでいたミルは戻って来て、体をずらして後ろを開けてくれた。
「マモルは自分の置かれている状況とか、ちゃんと考えてんの?」
「いえ、ほんとありがとうございます。」
飛んでいる間もぐちぐちとミルがつぶやいている。一晩寝てずいぶんと回復したようだ。
まあ、ぐったりされてるよりはいい。ミルの服や髪に付いた血を見ると、そう思える。
「そういえば、ミルはどうして僕を助けてくれたの?」
ミルはちょっとだけこっちを見て、また前を向く。
「どうしたんですか、突然。」
「いや、なんとなく気になって。」
僕のことを無視すれば傷つくことのないような場面もあった。それに、分からないけど僕らがいなければ、もっとうまいことで来たんじゃないか。そう思う。
ミルは、青い空に白く浮かび上がっている月を見ながら、じぃっと考え事をしている。
「うーん、まあ、お師匠様に言われたことでもありますけど……。」
ミルは、視線を下げてアキの方を見る。
「マモルがこの子のことを考えたから、ですかね。」
なんとなく納得がいかない。正直、僕なら余計な手間が増えたと思う。
「非常時に、他人のことを考えられる人は、信頼できますから。」
そう言ってウィンクをしてきた。
まあ、確かにそうなのかもしれない。というか、ちょっと照れる。
頬をかいて、進行方向を見る。
森に穴が開いているのが見える。
「あそこが、目的地です。」
「森の中なの……?」
「はい。まあ、よくあることらしいです。」
そういうものか。まあ、確かに魔女の棲み処と言えばそんなものか。
*****
森に空いた穴の中には、木造の家が一軒あった。
家の前に杖を着け、アキを僕に渡す。
「はい。背負うなら何とかなるでしょう?」
そう言われて背負ってはみるが、非常時には気にならなかったものの、余裕が出てくると、なんというか、女の子ってやわらかいんだなって。
「や、やっぱりミルが持って!」
「いや、何言ってるんですか。あなたが助けたんですから。」
「いや、ミルが助けた様なもんだって!」
などとぎゃーぎゃー言い合っていると、ドアが開いた。顔を出したのは、どこかで見たような顔だった。そして、胸の谷間とおへそが露わになっていて、直視しづらい。
「やっぱり帰ってたのね。早く入りなさいよ。」
「あ、お姉さま。ごめんなさい。」
ミルにお姉さまなんて呼ばれているところを見ると、仲間なんだろう。あと、『お師匠様』でもないようだ。まあ、それはあの光る女の子と違いすぎるから元からないか。
しかし、このグラマラスな体、それに短めの栗色の髪……。
と、こっちを見た。
「あ、マモル。それに背中の子は……ひょっとしてアキちゃん?」
ぼくと、それにアキのことも知っている?
あ、もしかして。
「エリー、さん?」
「はい。……まあ、エレノラって呼んでもらった方がいいかな。そっちの方が呼ばれ慣れてるし。まあ、お入んなさい。」
促されるままに家に入る。
「っていうか、エレノラっていうのは……?」
「本名……じゃないけど、まあエリーはこっちをもじって付けたやつだから。」
言葉遣いも荒い……というほどではないけど、とりあえずは病院の頃とは扱いも違いそうだ。
「えーっと、じゃあ、エレノラ?さんも魔女なんですか?」
「ええ。『円卓の管理者』なんて呼ばれてるわ。」
「バト……はい?」
「ほら、前に話したでしょう?二つ名がどうとか。」
聞いた気がする。が、うーん、呼びづらそうだ。
と、エレノラさんもちょっと困ったような顔をしている。
「まあ好きなように呼んで。ほら、アキちゃんを寝かせてあげましょう。」
エレノラさんにアキを任せると、エレノラさんは階段を上って二階に行った。
改めて周りを見渡すと、物語の中の木のお家って感じだった。
家に仕切りらしい仕切りはなく、家の真ん中あたりに螺旋階段があって、そこより入り口側がリビング、奥側がキッチンといった風だ。
ただ、左側はほとんど物がなく、あるのはいろんな長さの木材と布だけだった。
ちょっと蔦の張った窓、木漏れ日の照らす木棚。薄暗くも、困るほどじゃない明るさ。
キッチンでは、ミルはお茶を沸かしているようだった。湯気が立っている。
「マモルは苦手なものとかありますか?」
「え、いや、大丈夫、かな。たぶん。」
「……ところで、いつまで立ってるんですか?」
ミルがティーセットをテーブルの上に用意し始める。四人分、かな。
「あ、どこに座ればいい?」
「どこでも。」
せっかくなので、部屋を見渡せる席に座る。ああ、これも憧れているものとは違うものの、ファンタジー感が合っていいな。
と、階段からとことこと人が下りてきた。
「良い匂いですね。」
「あ、お師匠様!ご挨拶が遅れました。」
向かいに座っていたミルは急いで立ち上がり、降りてきた少女に手を振る。
「もう、ミル。そんなにかしこまらないでっていつも言ってるじゃないですか。」
「そうはおっしゃいますが、私にとってあなたは親同然、いや、親以上の存在です。当然の態度だと思いますが。」
その黒い髪の少女は困ったように笑って、こっちを見るとにっこりと笑った。かわいらしい子だ。
そして、またミルの方を向いた。
「ミル、この方が?」
「はい。マモルです。」
今度はこっちを見て、その子はお辞儀をした。良く知っている、頭を下げるお辞儀だった。
「えーっと、初めまして……じゃないですよね?」
そう、その子にも、やっぱり見覚えがあった。二日目の夜に、そして脱出の時にも僕の前に現れた。青く光る少女。
ただ、今目の前にいる子は、光ってはいなかった。
あと、なんかもじもじしている。
耐えきれなくなったかのように、口を開いた。
「あ、あの。何か私にくれるもの、ありませんか?」
そう言われて気が付いた。そうだ、「私に渡して」なんてよく分からないことを言われていたんだった。
まあ、こうして会ったらよく分かる話だった。
「はい、どうぞ。」
例の青く光る石を渡す。少女は、その石を受け取ると、大事そうに握りしめた。
まるで診察記録の石みたいな感じだったけど、それとは違って後には何も残らなかった。
その女の子は、組んでいた手を解くと、もう一度頭を下げてきた。
「……ごめんなさい。どうやら自己紹介していなかったのは私の方だったんですね。」
「あ、いや。まあ、そんな場合じゃなかった感じだったし。」
女の子は顔をあげ、口角を上げながら胸に手を当てて自己紹介を始めた。
「私、レミって言います。こことは違う世界……たぶん、あなたと同じ、日本から来ました。」
最後の一言は、魔法の力なんてなくっても分かる。よく知っている響き。まぎれもない日本語だ。
なんだか、視界が霞む。
にじんだ女の子が、慌てたように布を探して、ミルから受け取った布を顔に当ててくる。
「あ、えと、、大丈夫ですか?どこか痛んだとか?」
「あ、ううん。大丈夫。ちょっと、ほっとしただけ。」
なんだろう。帰って来たって、そんな気持ちになる。ここは全然知らない場所なのに。
「あ、そうだ。あの病室の時の、空から来たってどういうことだったの?」
ミルに入れてもらったお茶を飲みながら、隣に座ったレミに尋ねる。
「あれはこちらの、本当は別の大陸のですけど、おとぎ話ですよ。異世界から来た人のことを、『動き月から来た人』って言うんです。」
レミはお茶を冷ますように、口元にカップを当てながら話している。
「動き月っていうのは?」
「今沈んでいる方の月よ。あそこには真の自由と隠された楽園があるっていう伝説の話してるんでしょ?」
階段を降りながらエリ……エレノラさんが答えてくれた。
レミは結局一口もお茶を飲まないでカップをテーブルにおいて、エレノラさんの方にとことこと小走りに近づいた。
「エレノラ!あの子は大丈夫でしたか?」
「ええ、まだちょっと苦しそうだけど、だんだん良くなっていくわ。たぶん、夜には目も覚ますと思う。」
その一言を聞いてほっとした。アキは、ぐっすり、というより死んだように眠っていた。もう目覚めないと言われたって、驚きはするけど、疑うことはできなかったと思う。
良かった。本当に。
お茶をすする。飲みなれない味だけど、優しい味がした。
「それで、そっちはどこまで話したの?」
エレノラさんは、レミの座ってた向かい側に座って、お茶を美味しそうにすする。レミも元の席に戻った。
「まだ自己紹介したところです。」
「じゃあ全然じゃない。マモルだって、突然こんなところに連れられてびっくりしてるだろうに。」
「あ、いえ。それほどでも。むしろ助けていただいて。」
素直に礼を言うと、エレノラさんはじぃっとこっちを見てきた。
「……あなた、助けてもらってそれで終わりって思ってる?」
ぐっと、言葉に詰まった。そんな僕を見て、エレノラさんはため息をついた。
「甘いもんね。私たちだって、可愛い弟子を意味もなく危険なところにやったりはしない。」
「エレノラ。守はもっと、なんというか、お人よしの国から来てるんですから。」
レミがフォローを入れてくれるが、言われて初めて気づいた。
なんというか、偶然の中に生きている気でいたのかもしれない。でも、僕の前にあったシャボン玉も、僕を助けてくれたミルにも、目的とか理由があったんだ。
「まあ、あんな状況で他人を助けようとするような人ですもんね。」
ミルが笑ってそう言う。その笑みに嫌な感じはなかったが、自分の考え無しを教えられた気がした。
と、エレノラさんが手をぱんぱんと叩いた。
「とにかく、私たちは、目的があってあなたを助けたの。」
ごくりと、唾をのんで次の言葉を待つ。
エレノラさんは、レミを促した。それで、レミは意を決したようだ。
「あの、守は西暦何年から来ましたか?」
「え?」
予想外の所を聞かれて、まごついたが、とりあえず正直に、僕が来た時の日付を答える。
「まあ、実際は三日前なわけだと思うけど。」
僕が付けた注釈を聞くそぶりもなく、レミとエレノラさんは何やらぼそぼそと相談し始めた。
「どうなの?」
「一年とちょっと前なので、エーリャさんの計算通りだと思います。」
「ってことは、あと半月ほどはあるか。」
やることもないのでお茶をすすって待っていると、やがて視線に気付いたのか、エレノラさんが相談を打ち切った。
「ごめんなさい。何か?」
「あ、いえ。ただ、僕を助けてくれたわけって何だったのかなーって。」
「ああ、それならもう終わったわよ。」
眉間にしわを寄せる。どういうことだ?今、僕は何年から来たかしか聞かれてないけど。
「だから、それが目的っだったってことですよ。」
ミルが呆れたようにこっちを見る。
「いや、だって、そんなの病院でいつだって聞けたじゃん。」
「まあ、それはそうですが……。」
ミルはレミの方をちらりと見る。
「私が頼んだんです。同じ世界の人が苦しんでるのを知ってて、どうにもしないっていうのが嫌で。」
なんというか、レミも人のことを言えないほどのお人よしなんじゃないだろうか。
少し非難がましくエレノラさんの方を見ると、エレノラさんはにっこりとほほ笑んだ。
「まあ、そんなものよ。ミル、お茶のお替りちょうだい。」
「あ、はい。」
ミルはさっと立って、後ろの方でごそごそと物を探し始めた。
それにしても、さっきの反省を返して欲しい。
「ともあれ、おめでとう、マモル。やることもやって、これであなたは晴れて自由の身ね。まあ身の割り振りを決めるまではここに居るのがいいと思うわ。」
エレノラさんはそう言って僕にウィンクをした。
やることをやってほっとしているのか、レミはエレノラさんと他愛ない話をしていた。
「それで、その向かいの屋台で出していたパルンクっていうお菓子が美味しくって。」
「それって、どんなのだったんですか?」
「こう、クッキー生地を薄く延ばして、ジャムを巻いて焼いた感じでね。外側はサクッとしてるんだけど……。」
見ているだけで、二人の仲の良さを感じさせられた。というか、いつまで話してるんだろう。
ミルの方を見ると、ちょっとふてくされたように頬杖をかいている。淹れなおしたお茶をすする。さっきのと比べて、苦い。
「どうしたの、ミル?」
声をかけると、面倒くさそうにこっちを見て、猫の耳をぴくぴくと動かしている。
「別に……。」
沈黙。隣の二人の会話が僕たちの沈黙を強調する。それに耐えかねて、何か話題を探す。
「そ、そういえば、その耳って、本物?」
ミルは冷たい視線を浴びせてくる。しまった。失敗だったか。振り返ればとても失礼な聞き方をしてしまったかもしれない。
しかし、ミルは答えてくれた。
「私、獣人ですから。」
「獣人、なんだ。」
会話が続かない。頑張って続けるんだ。
「って、猫の?」
「はい。母親は、もうちょっと血が濃かったんですけど、私は薄く出て、この耳も飾りみたいなものです。」
ミルの、猫の方の耳がへたりと倒れる。
「それでも、私は獣人なんですよ。差別なんてないって言いますけど、そんなの、差別してる側の言い分ですよ。」
あ、なんかスイッチ踏んじゃったみたいだ。
「そりゃあお師匠様やお姉さまはそんなこと気にしないで接してくれますよ。でも、時々お二人はお二人の世界に入っちゃうんですよ。そうなったら、もう私なんて構ってもらえないし……。」
ぐちぐち言いながらも、ミルはお茶をすすって、また自分のカップに注ぐ。
「マモルだって、どうせこの耳見て引いたんでしょ!?変なのって言って!」
「いや、ただ可愛いなって思ったんだけど。」
沈黙。あ、また変なとこで止めてしまった。
「あ、いや、耳が!耳がね!」
「……マモルって、悩みなさそうですね。」
なんか、あんまり気にしないでもよさそうだった。というか、悩み位僕にだってある。これからどうするかとか。
と、いつのまにやらエレノラさんとレミがこっちを見ていた。
「すっかり仲良くなったみたいですね。」
レミがにっこりとほほ笑んでいる。
エレノラさんはミルの頭を撫でてあげていた。
「もう、構って欲しいならそう言ってくれればいいのに。」
ミルは、恥ずかしいのか人間の方の耳を真っ赤にさせていた。
空になったカップにレミがお茶を注いで、エレノラさんが一口飲んで、まさしく苦い顔をした。
「うぇ。これ、何のお茶なの?」
「確か……またたび茶ですね。エーリャさんが珍しいからって仕入れてました。」
またたび茶。ミルの方を見ると、プルプルと震えている。
「……もう、我慢しないでいいんですか?」
ミルが顔を真っ赤に、瞳をウルウルさせながら、エレノラさんを上目遣いに見る。
エレノラさんの方は、ひきつった笑みを浮かべて固まっている。
「えーっと、まあ。いや、待って。レミ、またたび茶って。」
「はい。あ。」
レミは口に手を当てている。そして、そのまま視線を逸らす。
「そうでした。マモルにお話があるんでした。」
「あ、そうなの、です?えーっと。」
「レミでいいですよ。たぶん、年下ですし。」
「何言ってるの、マモルは十六よ?っていうか、話を逸らさないで!」
さっきまで頭を撫でていた手で、必死にミルを止めながらもエレノラさんがこっちの話に入ってこようとしている。
しかし、さっきの仲の良さそうな雰囲気はどこへやら。レミは張り付いた笑顔でエレノラさんの方を見て、そのまま僕の手を引いて立ち上がった。
「さあ、エレノラは忙しいみたいですから、そっとしておいてあげましょう。」
「いや、待って。せめて水を……って、ミルも待って!」
「もう待てません!」
ミルは体をちょっとかがめて手の呪縛から逃れ、そのまま飛び上がってエレノラさんにダイブしに行った。
「待ちなさい!」
エレノラさんがそう叫んで手をかざすと、ミルは緑色の光に包まれて中空に浮いた。
しばらくもがいたりしたものの、体は落ちたりしなかった。しかし、ググッと体を縮こまらせ、
「もうダメです!」
そのまま下向きに飛び上がると、ミサイルみたいに一直線にエレノラさんの体に突き刺さり、そのまま押し倒した。
そしてぐりぐりーっとエレノラさんのたわわな胸に顔を押し付ける。
「あ、はは、やめ、ひげが。」
「あー、へへー。」
ミルは声にならないような声を上げながら、突き放そうとするエレノラさんの腕を振り払いながら離れまいとする。
そして、ただでさえ広かったエレノラさんの肌色面積が、ちょっとずつ広がっていく。
ああ、もうちょっとで。
と、目の前に細い腕がホンと突き出された。両手で視界をふさごうとする。
「……あまり見ないであげてください。」
「あ、ごめん。」
目の前のレミに謝りつつも、正直言って目が離せない。
「レミ!何とかして!」
笑いながらも、エレノラさんは必死にレミに助けを求める。
レミは、トタトタと寄って行ってミルの手を引っ張るが、目の座っているミルは、レミのほっぺたをぺろりと舐めて、またエレノラさんの胸の中に飛び込んでいった。
舐められたレミは、だんだんと顔を真っ赤にしてぽーっと突っ立っていた。
「れ、レミ!」
「え、はい。」
返事はしたものの、レミは上の空の様子だ。
エレノラさんはあきらめて僕の方に顔を向ける。
「マモル、この子ひっぺがして!」
「え、あ、は、はい!」
元気よく返事して近付いてはみるが、どうすればいいのか。
ミルはこっちには目もくれず、体をエレノラさんにこすりつけている。
そりゃ、エレノラさんみたいなボン・キュ・ボンではないけど、女の子の体ってどうやって掴めばいいのかよく分からない。
「ちょ、早く!」
「おねぇさまへ~」
おろおろする僕と、舐められた頬に手を当てているレナ、そしてどうにかしようと暴れるエレノラさんと離れまいとするミル。
そんな四人の上に、白い布が投げられた。
パチンと、そして響く、指を鳴らした音。
すると布が光り、水があふれだした。僕たちそれぞれに向けて。
ずぶぬれになって、動きを止める僕たち。
「あんたらうっさい!」
怒鳴り声が聞こえて、そちらの方を向くと、四十台ほどだろうか、ぼさぼさの髪を後ろでまとめている女性が階段の途中に立っていた。
「あ、エーリャ。」
レミが声を上げた。
エーリャと呼ばれたその女性は階段を降りながら、レミに詰め寄る。
「邪魔するならさっさと出て行けって言ってるだろ!?しかも今日は上で寝てる子も居るんだよ!?」
「はい、ごめんなさい……。」
しゅんとしているレミ。
エレノラさんたちの方を見ると、エレノラさんはあられもない姿でその上水を滴らせていて、端的に言ってエロい。
ミルは、動かない。ぐったり力を失っている感じだ。
と、エーリャさんはこっちに気付いたようで、手を振ってきた。
「あんたがこの子たちが連れてきた子かい?私はエーリンクル・エルトバルト。ここの家主さ。」
「あ、どうも。牧草守です。」
濡れた髪を掻きながら、頭を下げる。
「マキグサ、ね。まあ寝床はあるから、しばらくは研究の邪魔さえしなければ好きにしといてくれ。」
そしてぐったりしてるミルを足でぐいと押して、エレノラさんの体の上から降ろす。
「ほら、あんたらも起きな。」
エレノラさんは服を整えながら起き上がる。
ミルは、頭を抱えて唸りながらも体を起こした。
「うう、痛ぅ。えー、私、何で濡れてるんですか?」
「いいから早くお茶を淹れとくれ。」
エーリャさんは椅子に座って、空いたコップをぶらぶらと持っている。
ミルはぴょんと飛び起きて、エーリャさんの持っていたカップにお茶を注ぐ。そして、自分のカップにもお茶を継ごうとして、エレノラさんに止められた。
エレノラさんは、黙って首を振っている。
エーリャさんはお茶をすすって、周りを見渡す。
「ああ、椅子が足りないね。」
パチン、と指を鳴らすと、布が一枚こっちに飛んできた。
その布に、指で文様をかいて、最後に円で囲う。
その布を床に落として敷いて、またパチンと鳴らすと、今度は木材が飛んできて、布が黄色に光る。
すると、木材がひとりでに組み上がって新たに椅子が一脚出来上がった。
「まあもう一脚は起きてからでいいか。ほら、座んな。」
言われるがまま、新しく用意された椅子に座る。
「んで、どうだったんだい?」
「はい。エーリャさんの予想通りでした。やっぱり一年とちょっとしか経っていないそうです。」
レミがエーリャさんに報告する。
「あのー、さっき聞きそびれたんだけど、何から一年なの?」
「お師匠様がこちらに来られてから、ですよ。まあ、本当にマモルがお師匠様と同じ世界から来ているのであれば、ですが。」
ミルは自分用に淹れなおしたお茶をすすっている。
そういえば、レミは僕と同じ世界から来たって言う話だったな。
「ちょっと失礼。」
エーリャさんは立ち上がって僕の肩に手を乗せる。そして、レミの肩にも。
「ひゃん。」
肩に手を置くと、レミは変な声を出した。
「うん、少なくともレミの世界と、マキグサの世界は同じ時間が流れているはずだ。」
「分かるんですか?」
「まあ、魔力を見れば。理論上は、だけど。」
すごいものだ。
「ところで、ひょっとしたらこの世界の時間の流れ方は違うんですか?」
「そうだね。まあ、君の世界とだとざっと――。」
「マモル、お茶のお替りはいりませんか?」
分かりやすくレミが話を遮ってきた。
お茶は確かになくなっていたので、ありがたくいただくことにした。
「まあ、魔女に歳を聞くのはただの女に聞くよりたちが悪いってね。」
エレノラさんがいたずらっぽく笑う。
そういえば、エレノラさんって何歳なんだろう。こんなこと言われた後だと、聞きづらいことこの上ないけど。
「そもそも、自分の年を覚えてる魔女なんてどれだけいるんだか。」
「私は覚えていますよ。」
「わ、私も。なんていったってマモルの年下ですから。」
エレノラさんがため息をつく。
「年を気にするなんて、青いわね。」
あれ、じゃあさっきの話は何だったんだろう。
そのことを聞くと、
「魔女は年を取らないから。正確には、普通の人より体に出にくいのよ。それで、聞いた方が途方に暮れちゃう。」
「え、じゃあ、エレノラさんって何歳なんですか?」
あ、聞いてしまった。
エレノラさんは、指を折りながら数えている。
「戦争の時が三十前だったから、大体……五十歳かな。」
「五十!?」
母さんよりも年上じゃないか。どんなに頑張っても四十歳くらいにしか見えない。
「まあ、私は十年前から本当に年を取らなくなったから、正確には四十かもしれないけど。」
「年を取らないっていうのは?」
「あー、えーっと……まあ、見る方が早いか。」
エレノラさんがレミの方を見ると、レミは頷いてエレノラさんの方に手を伸ばす。すると、エレノラさんは緑色の光の筋になってレミの手の中に集まっていく。
最終的に、レミの手の中にはエレノラさんが描かれたカードがあった。
レミは、大事そうにそのカードを抱えるように持ち直す。
「エレノラは、私の召喚獣なんです。」
「召喚獣って……あの、ゲームとかに出るような?ドラゴンみたいなやつとかの?」
「はい。ドラゴンもいますよ?」
「じゃあ、エレノラさんって、ほんとはいないの?」
召喚獣と言えば、こう契約すると誰でも呼び出せるアレを思い出す。
しかし、レミはくすくすと笑っている。
「エレノラはちゃんといますよ。色々あってわたしの召喚獣になりましたけど、契約を切れば元の人、というか魔女になるらしいです。」
ふーん。そういうものなのか。
「まあ、バパラタの動物使いと言えば戦争中こっちでも聞こえが良かったもんだ。まさか召喚士が召喚獣に成り下がるとは、思いもしなかったけど。」
エーリャさんが昔を懐かしむように遠くを見るが、レミはきっと睨みつける。
「召喚は、どっちが上とか、そういうのじゃありません。」
「ああ、悪いね。ただ驚いたのは本当だからさ。ところで、呼び戻さないのかい?」
レミはエレノラさんのカードをもう一度見る。
「まだ、召喚できるようになるにはもうちょっとだけかかりそうです。」
「不便なもんだねぇ。」
ずず、とお茶を飲む。そういえば、エーリャさんの年を聞きそびれた。まあいいか。
「召喚はあまり知られていないんですか?」
「まあ、こっちじゃほとんど使う人はいないね。研究目的で使ってみる奴がいたりもしたけど、あんまり流行んなかったし。」
と、レミの手が緑に光ってエレノラさんが戻って来た。
「どう?分かった?」
「あ、はい。」
何の話か一瞬分からなかったけど、そういえばエレノラさんが年を取らないって話だった。
「ところで、マキグサは技術者か何かかい?」
エーリャさんがなんてこともないように聞いてきた。
「いや、ただの学生ですけど……。」
「そうか、見た目通りの年ということか。残念だ。」
エーリャさんは肩を落とした。
「あの、何かあるんですか?」
「いや実は、これを完成させてほしいんだが。」
エーリャさんはどこからともなく小さなシリンダーのようなものを取り出した。
「これは……?」
どこをどう見ても筒が二つ合わさっただけのようにしか見えない。
「これは、魔素……空気中の魔力を留める装置で、本来なら魔術でこう閉じるんだ。」
エーリャさんが触れると、ちょっとしてそのシリンダーはカシャンと動いて、二重の筒のようになった。
「こいつを君らの世界で動かして、魔素の状況を調べたいんだ。しかし、君らの世界では魔術が使えないそうじゃないか。だから、そちらの技術で閉じるようにすれば、おそらくこれも使えるようになると思ったんだが。」
「はぁ。」
渡されるがままに受け取ってはみるが、どこをどう見てもよく分からない。とりあえず、そのまま返す。
「それを使うの、そんなに難しいんですか?」
ミルが尋ねる。エーリャがシリンダーをいじってまたカシャンと元に戻す。
「いや、とにかくこの伸びてるのをバチっと止めるだけでいい。とはいえ、こっちの技術で時限式のものを作っても成功するかは分からないし、そもそも異世界から回収する方法が分からん。いっそのこと投げてもらえでもすればいいんだが……。」
そう言いながら、こっちを見る。
「そうだ。マキグサ。君は元の世界に戻りたくはないか?」
「はい?」
あまりにも唐突な話のように思えた。というか、正直ついていけてなかったからあまり話を聞いてなかった。
*****
外を見れば、もう空が赤くなり始めていた。
エーリャさんはキッチンに立って、歌を歌いながら料理をしているようだった。
「火をつけて~、油を敷いて、肉載せて~。」
待っている間、エレノラさんとレミは外に出て、何かしている様子だった。
ミルに聞いてみたところ、
「毛繕いですよ。」
「け、毛繕い……?」
頭の中で、レミとエレノラさんが水を浴びながら、互いの髪の毛を梳いている姿が想像された。
「……何考えてるんですか?」
「え、いやいや。なんにも。」
慌ててごまかすが、ごまかせてない気もする。
ミルはため息をついて、窓に立ってこっちを呼ぶ。
窓から外を見ると、レミとエレノラさんが色んな動物に囲まれていた。
動物……というか、
「あれは、ハーピィ?」
「そうですね。みんなお姉さまの召喚獣です。」
ライオンだと思ったのはグリフォンだった。あの足しか見えないのは、ひょっとしてドラゴン?
笑いながら熊やら虎やらの毛をブラッシングしている二人は、まるで童話の挿絵のようだった。
すごい。これぞファンタジーだ。
僕が目指してきたものが、ここにはあった。
「あれ、大変なんですよね。」
「え、そうなの?なんか、魔法でどーんってやってるもんだと思ってた。」
それに、ちょっと楽しそう。
「まあ、魔法でできないことはないんですけど、そもそも毛繕いをする必要もないんですよね。本当は。」
じゃあなんでわざわざ大変なことしてるんだろう。
「ほら、あんたらご飯だよ。あの獣臭い子たちも呼んどいで。」
ミルはエーリャさんをキッと睨みつけて、二人を呼びに外へ出た。
僕は、手伝おうかどうしようかとまごついていたが、
「何突っ立ってんだ。さっさと座んな。」
と一喝され、言われるがままに座った。
料理は、なんというか豪快だった。
大皿に野菜炒めが山盛りにされ、籠には平たいパン、スープは鍋ごとドカッと置かれていた。
ただ、盛られ方とは裏腹に、食事自体は慎ましやかなものだった。トングを野菜炒めをパンの上にとって、くるんで食べる。スープは器にそれぞれ取って、静かにすする。
「今日は少し薄味ですね。」
「あんたはいつも肉ばっかり取ってくるからね。今日で食い収めだよ。」
エレノラさんとエーリャさんがとやかく言いながらも、パンくず一つ落とさないような丁寧さで口に運ぶ。
レミは小さな口で、ハムスターのようにもそもそと食べている。
ミルはもうちょっと奔放だ。口をあけて噛むほどではないけど、どことなくせわしない。
と、ミルに睨まれた。
「なんですか?」
「あ、ううん。なんでもない。」
慌ててパンをひとかじりする。僕は、と言えば、正直上手く食べられていない。こう、くるもうとするとパンが千切れそうになったり具が逆側から飛び出そうになったりするのだ。
「それで、昼間の話だけど。」
エーリャさんがさっさと自分の分を片付けて、話を切り出した。
「僕が元の世界に戻りたいか、という話ですか。」
パンを飲み込んで、受け答えをする。
昼間の話によると、例のシリンダーを、僕の世界で閉じて、こっちの世界に投げ込んで欲しいという話だ。その役を僕にやってほしいという話らしい。
そして、投げ込んだ後は、僕自身は戻ってくる必要はないから、そのまま元の生活に戻れる。
「ちなみに、いつまでもこの家にいられると思ったら大間違いだからね。」
そう言われて、ぐっと言葉に詰まる。
まあそれはそうだ。いくらこの世界にいたいって言ったって、どうやって生活すればいいかも分からない。
「現実を見な、マキグサ。ここに居られるのは、この子たちがあんたの分働いているからだ。だから、まああの寝ている子が起きるまでくらいは置いてやってもいいし、残るってんなら近くの街まで連れて行くぐらいはする。」
エーリャさんが端切れ布で口元を拭いて、その布を放って籠に飛ばす。
「だがね、その後は自分の力で生きて行かなきゃいけない。身寄りもいない。勝手も分からない世界でね。」
「エーリャ、言い過ぎです。」
レミが取りなしてくれるが、エーリャさんは聞く耳を持たない。
「あんたは運が良かったんだよ、レミ。詳しい事情は知らないけど、拾ってくれる人がいて、魔女になる才能もあって。だから、こうやって暮らしていける。でも、マキグサは違う。この子には、魔女になる才能がない。」
そう言われてドキッとした。
「でも、魔力が。」
「確かに、魔力は多いみたいだ。でも、それを使う才能がない。」
パンを一口かじる。なんだか、味がしない。
周りを見るけど、誰も何も言ってくれない。
「何で、そんなことが。」
分かるのかと続けようとして、でも続けられなかった。
それでも、エーリャさんは言葉を拾ってくれた。
「昼間、私があんたの肩に手を置いた時、何か感じたか?」
手を置かれたこと以外、感じたことはなかった。でも、レミは違ったようだった。ただ肩に手を置かれただけっていう反応じゃなかった。
「それが、レミとあんたとの違いだよ。私はあの時あんたらの魔力に触れた。で、レミは気づいてあんたは反応しなかった。」
言葉が出ない。口をあけても、空気の出る音しか出て来ない。
「それに気づかないって言うのが、あんたが魔女になれない理由だ。よしんば魔女になろうとしたところで、体中の魔力が流れ出て、それを止められずに死ぬだけだ。」
どこかで、期待する気持ちがあった気がする。
僕は、物語の主人公みたいに何か特別な才能に守られて、それでこっちの世界でも活躍できるって。
でも、そんなことはなかった。こっちには、ただ、もっと厳しい現実があるだけだった。
「まあ、二、三日は待ってられる。それまでにどうするか決めるんだね。」
エーリャさんはそう言って、階段を昇って行った。
夜、外に出てみると、意外と冷えて、少し体が震えた。
と、パサリと布が掛けられた。マントのようだった。
振り返ったら、ミルがいた。
「もう夜は冷えますよ。」
「うん、ありがとう。」
マントをしっかりと羽織る。空を見上げると、二つの月が空に昇っている。
ミルの方を見ると、エレノラさんほどではないけど、なかなかの薄着だった。
「ミルは、寒くないの?」
「私には魔法がありますから。あ。」
言った後に、ちょっと気にした様子。僕は、小さく笑った。
なんだろう。現実突きつけられて、逆に気が楽になった。
「そういえば、ミルはずっと敬語だね。」
「あ、あー。そういえば。癖になったんですかね。」
「正直いって、なんか気持ち悪い。」
ミルはどう見ても年上だし、それに最初に会った時のインパクトがあって、凄い演技感が強い。
ミルは大口を開けて、その後歯ぎしりをした。
「分かり……ううん、分かった。もう、遠慮は無しで。」
「うん。」
それで、二人して笑った。
しばらく、柵に座って二人で星を見ていた。
「お師匠様も、お姉さまとこうやってよく星を眺めていたって。」
「ふぅん。」
「……あんまり、興味ない?」
「というか、あまり好きじゃないかもしれない。」
空を見ていると、僕がよそ者だって、どうしようもなく思い知らされる。
星のことは分からない。でも、あの月たちは、どう見たって異世界だって教えてくる。
「マモルは、やっぱり帰りたい?」
「……かもしれない。」
「エーリャのいったことは、気にしないでも。嘘はなかったけど……でも、エーリャが都合のいいとこ切り出していってるだけだし。」
「分かってる。でも、納得はいく話だった。」
空を見る。ミルは、黙りっぱなしだった。
やがて、ミルは小さくボソッと呟いた。
「イグニスの気持ち、ちょっとわかったかも。」
「イグニス?」
意外な名前が出て、ミルの方を見ると、こくりと頷いた。
「どれだけ嫌な思いしたことがあっても、やっぱり私の生きてきた世界だから。嫌われちゃったら、ちょっと寂しい。」
ミルは、猫の耳をへたりと寝かせる。
その頭を撫でたくなったけど、何でか我慢してしまった。
「大丈夫。嫌いなわけではないから。」
この世界には、やっぱり憧れの景色がたくさんあった。でも、エーリャさんの言う通り、ここは僕の住む世界じゃないかもしれない。
「さ、もう戻ろう。もう夜も遅いし。」
「うん。」
家を見れば、二階にぽっこりと飛び出た部分がついていた。
昼間にはなかった。きっと、アレが僕の部屋ということだろう。
ベッドに入って目をつぶるけど、うまく眠れない。それでも、布団は暖かいと思えた。
そして翌朝、僕は、女の子の悲鳴が聞こえて目が覚める。
「はい、アマレットは終わり。次はアルカトラスね。」
エレノラは、腕にとまっていた大鷲の羽を撫で、空へはばたかせる。
そして、胸からブラシを出して、熊の毛をブラッシングし始める。
「ちょ、ハッピィ。じっとしてください。あ、腕を掴まないで。」
レミの方はハーピーをスポンジで洗おうとするが、足で腕をつままれたりして、うまく行ってない。
「ハッピィ。それ以上オイタするならもう出さないよ。」
エレノラに言われて、すごすごと地面に着地する。そしておとなしくレミに洗われた。
しかし、今度は剣歯虎がレミにすり寄っていく。
「ちょ、コハク。あなたの番はまだです。」
と、剣歯虎とレミの間に泡まみれのハーピーが割り込んで、翼を広げる。
にらみ合う剣歯虎とハーピー。その隙に、レミはハーピーの背中を流す。
「もう。いっつもいうことを聞きませんね。」
『我はいつまでここに居ればいい、エレノラ。』
「ズメウは別に好きに飛べるでしょ!」
エレノラは熊をブラッシングしながらも、後ろにそびえ立つドラゴンに叫ぶ。
『ふん。これでも我は主命には従う方でな。』
ため息。
「……好きに飛んでなさい。」
『承知。』
それでドラゴンは飛び上がり、先に飛んでいた大鷲にちょっかいを出し始めたが、ひらりと大鷲が避ける。
「まったく、飽きないものね。」
「みんなを出したのも久しぶりですからね。さ、綺麗に乾いて、また飛び上がって。」
レミがハーピーの羽を撫でると、ハーピーの羽はすっかり乾いて、ハーピーも飛び上がっていった。
スポンジを返して、そしてブラシを受け取る。
「さ、今度はコハクの番ですよ。」
コハクはレミにすり寄っていって、気持ちよさそうにブラッシングを受ける。
「それにしても、レミって年齢なんて気にしたんだ。」
熊のお腹に身を預けながらエレノラが言うと、レミの手が止まった。
「わ、私だって女の子ですから。当然です。」
「女の子ねぇ。」
エレノラはレミと会った時のことを思い出す。あれから十年。そして、その前にも三年はあったと聞いた。
それだけでも十三年。出逢った時の見た目から言って、少なくとも二十は越えているようにしか思えない。
「……エレノラ、何考えてますか?」
「あ、ううん、何でもない。なんでも。」
言えば傷つくと思ったので、もう少女なんて年ではないとは言わなかった。
だが、レミには感づかれたようだった。
「分かってるんです。もう女の子じゃないってことは。それくらいは長く生きてきましたし、名前で恐れられることだってあります。」
レミは背中から、剣歯虎の背中にのしかかる。そして、自分の体を見る。凹凸もないその体を。
「それでも、私はこんな体です。こんな子供みたいな体で、『大人の女性』だなんて言って、驚いた顔されたらその方が傷つきます。」
エレノラは自分の体を見た。レミとは似ても似つかない、起伏あるその姿を。
まあ、確かにそれはイヤかもしれない。
「ところで、レミ。」
エレノラが座り込むと、地面から土竜がひょっこりと顔を出した。その顔を撫でる。
「なんですか?」
レミは体を起こして、寄ってきたグリフォンの頭としっぽを撫で、その体をブラッシングする。
「マモルの事、気になるの?」
レミがエレノラの方を見る。
「どうして?」
「いや……まあ、レミが助けたんだし。」
「助けたのはミルですよ。」
そりゃそうだけど。そうエレノラが言う。
「まあ、気にならないと言えばウソになりますけど。今の日本を教えてくれるのは守だけですし。」
「まあ、そんなものよね。」
エレノラは熊の体をポンと叩いて、自由にする。そしてレミを手伝う。
「レミは、やっぱり帰りたいと思う?」
レミはちょっと考える。
「……ほんと言うと、少し。でも、私はもう帰れないですし、それにエレノラやミルもいますから。」
レミはにっこり笑って、焦って付け足す。
「あ、あとサイカも。」
「そうね。あの子も忘れないであげないと、すねちゃう。」
二人は見つめ合って、それから笑った。
とはいえ、二人が最も恐れていることは、そのサイカがすねることだった。