初めの三日 その二
誰かがドアを開ける音が聞こえて、それで目を開けた。
入ってきたのは、ミルだった。
「あ、えと、おはようございます。」
僕が体を上げると、ミルが挨拶をしてきた。寝れなかったのもあって、生返事だけ返す。
「よく眠れませんでしたか。」
「逆に眠れたと思う?」
「いえ……そうですよね。すみません。」
ミルは、昨日の不機嫌さも見えず、ただ落ち込んでいる様子だった。誰かに当たらないとやってられない気分だったが、誰かれ構わず当たるのもよくないとも思う。だから、僕もそれ以上続けなかった。
「お茶、いかがですか?」
「いい。」
それからしばらく二人で黙っていた。
やがて、ミルが何か意を決したように、また話しかけていた。
「あの……何か、私に言いたいこととか、あります?」
その言葉で、僕は心に渦巻いている何かを全部ミルにぶつけてやろうという気持ちになった。
昨日のアレは何だったのか。
どうして僕が殺されかけなきゃいけなかったのか。
何か悪い事でもしたというのか。
でも、そんなことミルにぶつけたって困った顔をされるだけと思って、むしろ落ち込むような気がして、だからやめた。
「別に。」
ぶっきらぼうにそれだけ返すと、ミルはまた少し落ち込んだ様子で「そうですよね……」と独り言のようにつぶやいた。
「また、何かあれば呼んでください。」
ミルはそれだけ言って、部屋から出て行った。
*****
無気力にベッドの上でぼぅっとしていたが、それでもお腹は空くらしい。
おいしいものでも食べて、中庭で座って日に当たっていたら気分もよくなるかもしれない。そう思って中庭のベンチでパンをかじる。
いや、別に落ち込んでるわけじゃないんだけど。
でも、そうだとしたら今の気持ちは何なんだろう。
悲しいわけじゃない。
悔しくも、別に寂しさも感じていない。
怖い、のか?
ふと周りを見る。中庭は木々がちらほらと植えられ、少し急な滑り台のように斜めな壁に囲まれている。
あの木の影にだれかが隠れているのかもしれない。
屋上に潜んでいるものが壁を滑り降りて、そのまま僕を殺して逃げるかもしれない。
いや、降りてくる必要もない。爆弾か何かをここに投げ込んで、逆側から落ちてしまえば追いつかれもしない。
昨日の女のように。
普段の僕なら、ありえないと軽く笑って済ませた妄想も、今の僕には『誰か』の影がはっきりと見えてしまう。
影からこちらを覗く布で隠された顔が。
滑り降りてくるときに見えるナイフのきらめきが。
爆風に煽られてなびく長い髪が。
考えないようにすればするほど、僕の視界にあの黒い影が通り過ぎていく。
もはや中庭に座っていることに耐えられなくなって、僕はパンを抱えて自分の部屋に逃げ込んだ。
部屋の前には、もうあの強そうな男たちはいなかった。寝ずの番って言っても夜だけかよ。
部屋に入るなり、鍵をかけ、チェーンを閉め、トイレやシャワールームの電気までつけて、ベッドの上で布団にくるまって隠れた。
この部屋は窓がなくていい。入ってくるならあのドアからだけだ。
布団にくるまりながら、ドアをじぃっと眺めつづける。反応なし。よし。
でも、すでに入っていたら?
僕より先に来て、機会を伺っているとしたら?
例えば、このベッドの下に隠れていたら?
トントントン。
体がびくびくっと震えた。ドアがノックされたのか。
「マモル?大丈夫ですか?お開けしますよ?」
ドアの向こうからエリーさんの声が聞こえてきた。それで、ほっとした。
でも、偽物かもしれない。僕は、ドアに近づくことはできなかった。
疑心暗鬼なのはわかっている。でも、そう言い聞かせても体が動こうとしないんだ。
やがてドアの鍵が開けられた。でも、チェーンがある。ガチャッと音を立ててドアはそれ以上開こうとしない。
「マモル、あなたにお客様です。……お会いしたくないようでしたら、お帰りいただきますが、いかがしますか?」
客と言われて、さらに体が緊張する。僕を訪ねるような人なんて、この世界に一人だっているはずが
「マモル?私、アクェーミュン。」
その声は、確かに聞き覚えのある、昨日、中庭で話した少女の声だった。僕はドアに駆け寄って、隙間からその顔を見た。
「アキ。」
「覚えてたんだ。良かった。」
アキはどこか辛そうに笑った。
「えっと、どうしたの?」
アキは首を振って、昨日みたいな元気な笑顔を見せた。
「ううん、なんかマモルがすごい形相で走って行ったのが見えたから。大丈夫かなって思って。」
「そんな、大丈夫大丈夫。」
本当はあまり大丈夫とも思わないけど、女の子のつらそうな顔を見るのも嫌だった。
アキは、まじまじと僕の目を見つめてくる。僕は何か話そうと思ったけど、話すことが思いつかなかった。
沈黙。気まずくなって目を逸らすと、アキはまた小さく笑った。
「そうだ。はい、これ。」
そして、ミサンガのようなものを、ドアの隙間から差し出してきた。
「昨日の……メロンパン?のお礼。私の国のお守りなの。」
言われるがままに受け取る。輪になった紐に、キラキラと光る玉が二つ通してあった。少し眺めた後、左腕に付ける。
「あ、ありがと。」
「んふふ。いいの。」
と、ドアの向こうから男の人の声が聞こえてきた。たぶんイグニスだろう。
「ああ、アキ。ドクターマネットがお待ちですよ。」
「あ、ごめんなさい。それじゃ、マモル、まっ――。」
アキは何か言いかけて、首を振った。
「――気が合ったら、またね。」
そして、振りむきながら手を振って去っていった。
僕も手を振り返して、しばらくその背中を見ていた。が、ふと顔をあげると、エリーさんがにやにやとこちらを見ていることに気が付いた。
「……何か?」
「いえいえ。お元気になられたようで、何よりです。」
口に手を当てながらにやついているその顔を見ないように、勢いよくドアを閉めた。
「あ、そうだ。マモルももうすぐ検査ですので、ご準備お願いしますね。」
ドアの向こうからエリーさんの声が聞こえてくる。準備と言っても、何をすればいいものか。
とりあえず、パンを食べようか。
左腕に通した輪っかを見る。見ているだけで、なんとなく勇気が出る。
使わないトイレとかの電気を消して、テーブルに転がしていたパンを掴んでかじる。
*****
ところで、僕は病院での「検査」というのがあまり好きではない。
冷たいものを地肌に付けさせられたり、よくわからない音を聞かせられたり。そもそもボタン押してるところ見えてるんだから、聞こえなくても分かるだろ。
歯の検査もよくわからない呪文を唱えられて、それで後日紙が一枚渡されるだけ。なんというか、人扱いされている気がしない。
で、それはこっちでも同じなようだ。ただ違うのは、使われる機材のたいていが不思議な帆の赤い光を出していることだ。
「あの、この光は?」
今の検査の担当らしいルミンさんに尋ねてみる。ルミンさんは機材から少し目を離してこっちを一瞥した後、またモニターに目を戻した。
「魔力光と呼ばれています。魔力が活性化している場合には、このような独特な光がみられることがあります。」
なるほど。つまるところ、僕がこれまで受けてきた検査も、実は魔法的な何かだったわけか。
「それで?」
そう言うと、ルミンさんは、再度冷たい視線をこちらに向けた。
「質問の意図が分かりかねます。」
「あー、えーっと。僕に魔法的な才能は有りそう?」
ルミンさんは、手に持っていたファイルをぺらぺらとめくる。
「残念ながら、本日の検査の多くはあなたの健康状態に関するものです。明確に魔力状態の検査なのはこの検査だけです。」
なるほど。それは残念だ。
「この検査の結果は?」
「そうですね。あなたの魔力量はこの世界の常人の約十倍といったところでしょうか。」
「じゅっ、」
それはすご……いんだよな。
「すごいんですよね。」
「ええ。『人』の、つまり、優れた魔女の中でもこれほどの魔力を持っているのは数えるほどしかいません。」
「その割に驚いてませんよね。」
こういう時は、こう「ありえない」とか「機械の故障か?」とか、そういう反応があってしかるべきでないんだろうか。
しかし、ルミンさんは非常に淡々としている。
「わーすごい。これでよろしいでしょうか。……いえ、すみません。想定以上なので、これでも驚いています。」
うーん。まあ、いいか。ともあれ、ようやくらしさっていうのが出てきたのではなかろうか。主人公の特権ってやつが。
「それで、その魔力はどうすれば使えるんですか?」
「使えません。」
きっぱりと断言された。
「ああ、いえ。正確には、最低でも三年ほどの修行を積まない限りは使えません。」
なるほど。しかし、まあ前例を破るのも主人公のお約束だろう。
少しワクワクしてきた。
と、ルミンさんが書類を書き終えたようだ。
「さて、次の検査へどうぞ。」
「あ、はい。ところでなぜ書類なんですか?」
「はい?」
「あ、あの例の石でなく。」
ルミンさんは合点がいったようだ。
「管理上の問題です。」
一言だけ言って、部屋のドアを開けてくれた。
うーん、取っ組みづらいというか。
「ああそうでした。マモルは注射は苦手ですか?」
「え、まあ。はい。」
ルミンさんは、小さく口角を上げた。
「それなら、次の検査前に無痛魔術を施行させましょう。では、次の検査へどうぞ。」
出て行く僕に、診察記録が書かれているという石を渡し、ルミンさんはドアをそっと閉めた。
*****
全検査を終え、最後にドクターとの面談との事らしい。
医者の面談室のような場所で、丸椅子に座ったドクターが迎えてくれた。
「やあやあ。検査はどうだったかな?」
「まあまあです。なんというか……普通でした。」
素直にそう言うと、ドクターは笑い出した。
「ははは。そうかそうか。どうやら君の元いた世界はなかなかの科学水準だったようだね。」
ドクターは居を正して、渡した石を握りながら世間話を続ける。
「実を言うと、この世界の科学的な進歩には、君たちのような異世界人が欠かせなかったのだよ。演繹的思考法から原子論、病院関連で言うなら衛生学など、多少修正が必要なものもあったが、今ではこの様子さ。」
部屋の中を見渡す。多少見慣れないものもあるけれど、本棚や机など、基本的に見覚えのあるものばかりだ。
「まあしかし、最もこの大陸を発展させたのはこいつだけどね。」
そう言って、こちらに石を見せる。例の赤く光っている石。さっきの機械の光や、色こそ違うものの昨日のナイフの光を思い出す。
「これが……なんですか?」
「魔術回路さ。魔力のこもった魔石に少し加工をして、そこに魔法陣を書くことで、誰でも魔術を使えるようにしている。」
ドクターは魔術回路とやらをこちらに軽く投げてくる。少し危なげになってしまったが、何とか受け取った。
「それを手で握りながら撫でてごらん。手の中で動かすように。」
言われた通りにしてみると、頭の中に文章が流れ込んできた。
マキグサ・マモル。
総合検査結果:問題なし。
注意点:左奥歯に詰物あり。左膝に手術痕あり。複雑骨折に対するものと思われる。
その他、身長や体重などの身体的なデータが、まるで診断書を読んだみたいに、記憶として残った。
「これが、魔術?」
ドクターは少し大げさにうなずき、僕の手からまた石を回収した。
「そう。これこそ、大戦期に発見され、この二十年で発展に次ぐ発展を遂げた魔術回路、そして魔法工学の集大成。この石のおかげで、私達のような魔女以外の人間にも魔術が扱えるようになった。その結果がこれさ。」
ドクターが振り返って窓を見る。空飛ぶ車が行き交い、枝分かれしたビルが空を隠している。
「見たまえ。あのビル、あの車一つ一つにこの石が入っている。我々の持つ時計や電話にも。もはや魔術とは魔女たちに秘匿された伝説ではない。人の手で扱える技術なのだ!」
最後の方には、勢い余ったのか立ち上がっての熱弁だった。
僕がその圧に押されていると、ドクターは息を整えてまた席に着いた。
「……失礼。少し熱くなってしまった。」
「あ、いえ。」
正直、少し引いていたが、頑張って愛想笑いを浮かべる。しかしドクターは、あまり気にしたそぶりを見せなかった。代わりに一枚の紙を見せてくる。
「ところで、おそらくもう読んだので分かっているだろうが、検査の結果、君はここで過ごしても問題はないということが分かった。そこで、改めてこの世界に残るかどうかの話をしたいと思うのだが、大丈夫かね?」
「あ、はい。」
渡された紙を見る。見たこともない文字だが、『こちらの世界に住むにあたって』と書かれているのが分かる。
「あの、質問してもいいですか?」
ドクターは鷹揚に頷いた。
「なんでも聞きたまえ。」
「どうして文字が読めるんでしょうか。あ、それに言葉も違いますよね。」
すごい今更みたいな質問だったが、気になったのが今だったからしょうがない。
しかし不思議な体験だ。見覚えのない文字が読め、聞いたこともないはずの言葉が分かるなんて。
ドクターはなれた様子で答えてくれた。まあ、きっとこれまでにも同じ質問をされているんだろう。
「それはこちらの世界に召喚された際にそういう魔術が施されているからだよ。残念ながらその魔術は、召喚魔術と合わせてまだ技術とはなっていないが、その内そうさせて見せる。」
ドクターはこぶしを握り、また力が入ってきた。が、今度は立ち上がる前に緊張を解いた。
「すまないすまない。つい力が入ってしまう。」
「いえ、お好きなんですね。」
ドクターはまた何度も頷く。
「ああ。不可能を可能にする瞬間こそ、最上の喜びがあるとは思わないかい?」
「はあ。そういうことは、経験したことないんで。」
まあ、そういうものかもしれないとは思う。
ドクターは何やらぶつぶつとつぶやいていたが、気を取り直したように話を戻した。
「あー、さて、君がもし移住を望むなら、そこからさらに二つの選択肢がある。我々に協力して、安定を得るか、自由の代わりに自立と責任を取るか、だ。」
一応、昨日聞いた話ではあった。
「ちなみに、元の世界に帰るなら、どうなりますか?」
「うん?まあ、帰るだけだ。今はまだ魔力トンネルも繋がっているから、理論上は問題なく帰ることができる。」
魔力トンネルというのは、きっとこっちに来たときに通ったあのシャボン玉みたいなのだろう。しかし、理論上は、と言われると、なんだか不安になる。
「あの、大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ。こっちに来たのを元に戻すだけだから。もちろん、無事を確かめられたわけではないけれど。反応を見る限りは、問題がない。」
言われてみれば、こちらの世界から元の世界に戻ったとして、それを確かめるすべが無いのかもしれない。
とはいえ、余計不安になった。聞かなければよかったかもしれない。
でも、もう一つ気になることがある。
「あの。こっちに残ることを決めた後に、元に戻ることはできるんですか?」
と、ドクターはこちらを憐れむような顔になった。
「あー、残念だが、それは認められていない。」
……まあ、なんとなくそうだとは思っていた。それでも、ため息が出る。
「すまないね。一度トンネルが閉じた後では、同位置に送ることが難しい。だから、危険なんだ。」
なるほど。しかし、さっきは向こうの世界はよくわからないと言っていたのに、こっちはなぜわかるんだろう。
分からないことだらけだ。まあいいか。
「ありがとうございます。すみません、話の途中に。」
「いや、いいんだ。疑問は解決できるうちにした方がいい。……さて、こっちの世界に残る場合に話を戻すが、本質はどちらも同じだ。生きる為には働かなければならない。その仕事を、こちらで用意するか、自分で探すか、どちらを選ぶかという話だ。」
うーん。そう言われると分かりやすくはあるけど、この年で、もう働くことになるのか。
「あの、僕の年でも働かないといけないんですか?」
尋ねると、ドクターはふむと鼻を鳴らした後、石を握った。
「そういえば、マモルは何歳なんだ?」
「十六ですけど。」
顎に手を当てて、何かを考えている様子だ。
「であれば、自由を選んだとしても後二年ほどは学校に通うことになるな。通常は半年といったところだが。」
ということは、あまり戻っても変わらないかもしれない。あ、そうだ。
「アキはどっちにしたんですか?」
ひょっとすると同じ学校に通うなんてこともあるかもしれない。
「アキ?」
ドクターは何度か反芻するように繰り返した後、ポンと手を打った。
「ああ、アクェーミンのことか。知り合いだったのかい?」
「あ、はい。えっと……聞いたらダメでした?」
よく考えたら、病院で他の人の話を聞くのはご法度な気がする。ドクターも苦笑いを浮かべている。
「まあ、そうだが……まあいいか。アクェーミンなら彼女の世界に帰ったよ。」
何か聞き間違えたかもしれない。
「あれ?すみません。もう一度言ってもらっていいですか?」
「ん?ああ。残念だけどアクェーミンはこの世界にはもういないんだ。」
腕に付けていたミサンガを握る。
「な……なんで?」
あんなに残る気満々な感じだったのに。これくれた時だって、またねって。
ドクターは首を振った。
「うーん、分からないな。まあ、そういうこともあるさ。」
「別人ということは?」
よく考えたらドクターの発音も微妙に違う気がする。
しかし、またもドクターは首を振った。
「君が目覚めてから、あそこにいた異世界人はキミとアクェーミンの二人だけだ。それで、マモルの話に戻るが……」
ドクターの声がだんだん遠くに聞こえてくる。その後も、ドクターはいろんな話をしていた気がするけど、正直あまり頭に残っていない。
*****
気が付くと、また中庭でベンチに座っていた。周りを見渡すが、本当に人がいない。
ここに座っていると、またアキが顔を見せてくれる気がする。
でも、もう会うことはないらしい。
空を見ると、オレンジ色が暗くなってきた空に、二つの月が登っている。そのことが、ここが僕の知らない世界であることを思い出させる。
ここがもと板世界だったら、またアキに会うこともあったかもしれない。
ため息が出る。
これからどうしようか。
「とりあえず、ご飯じゃないですか?」
「それはそうだけど、そうじゃなくて。」
声のした方を見る。ミルがいた。
「あの、いつから?」
「さっきからです。その、心配で。」
ミルは目線だけ逸らしていた。
少しの沈黙に耐えかねて、口を開いた。
「何か、暖かいものを食べたい。」
よく考えたら、昼もろくに食べていなかった。美味しいものを食べたら、気分も晴れるかもしれない。
「それじゃあ、豚汁でも。」
思いもしなかったメニューを言われ、ミルの方を見る。
「豚汁まであるの!?」
「え、はい。嫌いでしたか?」
首を振る。
「むしろ好物です。ただ、まさかここで食べられるなんて思わなくて。」
ミルは優しく笑った。
「それじゃあ、空も綺麗に晴れていますし、今日はここで食べましょう。少し待っててください。」
そう言ってミルは戻っていった。
見上げれば、確かに一番星が見え始めていた。
しばらくして、ミルはエリーさんを連れて戻ってきた。それぞれの手には水筒のようなものを三つ。
「お待たせしました。」
エリーさんがあいた手を振ってくるので、手を振り返す。
「いえ、そんなに待ってませんし。」
ミルに差し出された水筒を受け取る。ふたを開けると、そこには確かに味噌の使われた豚汁が入っていた。でも、すっかり冷めていた。
と、エリーさんが意地悪そうな笑みを浮かべて、自分の水筒を開ける。そこからは、ほぅっと白い湯気が上がっていた。
自分の水筒をもう一度見る。味噌がすっかり底に沈み、黒ずんでいる。
しばらく自分のものとエリーさんのものを見比べていると、我慢できなくなったかのように、エリーさんが声を上げて笑い出した。
なんなんだ、いったい。
と、見かねたようにミルが立ち上がり、僕の水筒を軽くこすった。すると水筒がほの赤く光り出し、急に豚汁が対流を起こして湯気が出た。
ミルはエリーさんの方を見て、ため息を一つついた。
「ご、ごめんなさい。つい。」
「全く、誰に似たんですか。それに、謝る相手が違うんじゃないですか?」
エリーさんは息を整えて、もう一回僕に謝ってきた。
「ごめんなさい、マモル。」
「あ、いえ。あの、これも魔法ですか?」
「正確には魔術ですが、まあそうです。」
ミルがそっけなく答えて自分の分の豚汁をすする。それを見て、僕も豚汁をすする。
「美味しい。」
なんというか、家を思い出す。まだ二日しか経ってないけど、ずいぶんと帰っていない気分だ。
「美味しいですか?」
エリーさんが聞いてきた。さっきと変わって、優しい微笑みを浮かべて。
「あ、はい。美味しいです。」
「それはありがとうございます。」
なぜかエリーさんがお礼を言ってきた。不思議に思っていると、ミルが補足してくれた。
「これはエリーが作ったんですよ。」
もう一度豚汁を見る。少し入っている具材は違うものの、それは確かに豚汁に思えた。
「え、あの。エリーさんってもしかして、別の世界から来たんですか?」
ひょっとすると、同じ世界から?
と、エリーさんが今度は上品に笑った。
「違いますよ。私はれっきとしたこの世界の出身です。ただ、特別な友人がいまして。その人に教えてもらったのです。」
ということは、その人が異世界人なのだろうか。って異世界人の僕が言うのもなんだけど。
「ところでエリー、具がうまく食べられないんですけど。」
ミルがそう言うと、エリーさんは手を中空に上げた後、また戻した。
「ごめんなさい。匙を置いてきてしまいました。取ってきます。」
エリーさんは小走りで入口の方に戻っていった。
「エリーさんもミスするんだなぁ。」
雰囲気と言い、昨日のてきぱきとした感じと言い、割と何でもそつなくこなす人だと思っていた。
「エリーはああ見えて割と迂闊ですから。」
なんということもないように、ミルは自分の豚汁をすすっている。
「ミルは、エリーさんと付き合い長いの?」
「ええ、まあ。もうそろそろで五年ほどですかね。」
「五年かぁ。」
パッと見たところ、ミルは僕の一つ上ってところだから、十二歳くらいの頃からか。結構なもんだ。
続けざまに話を聞こうとしたら、ミルがこっちをじぃっと見ていて、つい口が止まった。
「元気、出たみたいですね。」
「え、ああ。まあ。」
そう答えて、また豚汁をすする。
我ながら、単純なもんだと思う。好きなものを食べて、話をするだけで、こんなに元に戻るなんて。
ミルは、僕の応答に満足したのかまた豚汁をすする。そろそろ汁が無くなっているんじゃないだろうか。
「イグニスから聞きました。アキさんの事。」
そう言って舌打ちをした。何をそんなにイラついているんだろう。
「うん。でも、まあ仕方がないよね。何か思うことがあったんだろうし。」
「イグニスはすごく落ち込んでいましたけどね。『また選んでもらえなかった』って。」
なんだろう。なんとなく、凄く想像ができた。イグニスさんなんて、それこそ一度しか会ってないのに。
「なんとなくわかる気がする。」
「アレは変わり者です。喜んでお世話係をしてる。こんなの、仕事じゃないとやってられないですよ。」
お世話される身としては、空笑いを返すしかできないな。
と、不意にミルが真面目な顔つきになった。
「マモルは、この世界にいたいですか?」
なんとなく雰囲気が変わった。ただの世間話じゃない、真剣に聞いているみたいだ。
正直、この真剣さに答えるだけのものを僕は持っていなかった。
「……たぶん。憧れてた世界みたいなもんだし。何か変わる気がして。」
「殺されかけても?」
その言葉で昨日のことを思い出す。青白く光るナイフ。首から滴った赤い血。
背筋が震える。
「でも、あんなのそう何度も起きないでしょ?」
ここはどう見ても無法地帯とは思えない。警察だっている。
しかし、ミルはため息をついただけだった。
「マモルって、バ……あー、楽天家?」
いま、バカって言おうとしたか?まあ、いいか。言い返す言葉は出て来なかった。
ただ、ミルも失言に慌てたのか、すぐさま別の質問を振ってきた。
「あ、あの、家に帰りたいとかは思わないんですか?」
そう言われて両親の顔がちらっと浮かんだ。二日くらいなら、修学旅行とかで顔を見ないこともあった。でも、これからずっととなると、想像もつかない。
「ていうか、ミルは僕に帰ってほしいの?」
「あ、い、いえ。そういうわけでは。」
言い訳がましくだんだんと声が細くなっていった。なるほど、ね。
「まあ、確かに僕みたいなののお世話係なんて嫌だろうけど、それを態度に出さないのも仕事の内ってもんじゃないの。」
「こ、こっちにもいろいろと事情があるの!」
ちょっといやみを言ってやったら、過剰に反応してきた。立ち上がってこっちに迫ってきた。
恥ずかしさから、ずいと近付いてきたミルと目を合わせないよう逸らすと、スプーンを三本持ったエリーさんがいた。
そのスプーンは固く握りしめられ、少し曲がっている。
視線を足元に移すと、僕とミルの豚汁が、地面に落ちていた。
「お盛んなことで、ミル。」
茶化すようなセリフだが、声が怒りで震えている。
「あ、え、エリー。これは違――。」
それでミルも気づいたようだ。
「ああー!私の豚汁……。」
「僕のもだけどね。」
「うっさい!あんたがいらないこというから!」
「それはそっちもだろう!」
「うるさい!」
エリーさんに怒鳴られ、二人して黙った。
エリーさんはそのままミルに向かう。
「ミル、いっつも言ってるでしょ!?食べ物っていうのは、いつだって無尽蔵にあるわけじゃないの。食べ物を無駄にするのは、誰が許したって私が許さないから。」
「……はい。」
ものすごい勢いでまくし立てた後、エリーさんはこっちに向きなおした。
「マモル、あなたもですよ。別に私が作ったものだからこんなに怒っているのではないですよ。ただ、食べ物を粗末にする人間が信じられないだけです。飽食か何だか知らないけど、そもそもここの人たちはいつでもなんでも食べられるっていうことが奇跡に近いってことを分かってない。どんなに硬い肉だって、我慢して食まなければ生きて行けないことがあるってことを知らないなんて、逆に不幸なもんよ……。」
エリーさんがまくし立てる。謝る間もない。
と、不意に止まった。
「あ、ご、ごめんなさい。その、要するに、何か食べますか?」
「あ、えと、はい。」
まとめはそれでいいのか。ともあれ、中途半端にお腹にものを入れたからか、確かにお腹が空いた。
「はい、それではご用意します。ほら、ミル、行きましょう。」
エリーさんはミルの手を引いて、そのまま回廊の方へ行ってしまった。
一人取り残された、こぼれた豚汁と僕。
見上げれば、牛乳をこぼしたような星空。
でも、月は二つあるのだった。
エリーさんとミルは、いろんな料理をワゴンに乗せてやってきた。
「お待たせいたしました。せっかくなので、いろんな世界のお料理をお持ちしました。」
本当にいろんな料理があった。良く知っているものから、見たこともないようなものまで。
「なんですか、この、動いてるの。」
あるお皿の上には、黄色い円柱状の物が、何やらうごめいていた。触れるとプリンのようにプルプルと震え、うごめきがランダムになった。
「ああ、えーっと。おどり……エリー、なんでしたっけ。」
「踊りアピケノですね。」
「踊り……え?」
「踊りアピケノ。甘くておいしいですよ?」
なるほど。とりあえずはデザートにしておこう。
「でも、こうやって見ると、案外大体茶色ですね。」
踊り何とかみたいなものや、ソースがカラフルなものもあるにはあるが、それを除けばみんな茶色だった。
「まあ、焼けば大体茶色くなりますからね。」
ミルが雑にまとめた。まあ確かにそうか。
しかし、種類こそ多いものの一つ一つが少なかったので、色々と楽しめた。踊り何とかもプリンのような触感で、意外とおいしかった。
「食わず嫌いはダメ、か。」
確かにそうだ。でも、もう少しおいしそうな見た目でもいいと思う。
スライスするだけでも全然変わると思うんだけど。
「そう。食わず嫌いはダメですよ。ねぇ、ミル?」
と、砂糖菓子をつまんでいたミルの手が止まった。
「ミルは嫌いなものが多いんですよ?」
ミルは何かまずいモノでも見られたみたいに、目線を逸らしながら持っていたお菓子を口に入れた。
「わ、私の話はどうでもいいじゃないですか。それより。」
ミルが促すと、エリーさんは思い出したようにポケットに手を入れ、指輪を取り出した。サファイアのように深く青い石がちりばめられた指輪だった。いや、サファイアを実際に見たことはないけど。
「こちら、差し上げます。」
「え?いやいやいや。」
両手を振って遠慮しようとするが、気にせずに僕の手をとって、右手の人差し指に付けられた。
付けられたものを即座に外すのも悪い気がして、とりあえず眺める。星空みたいにちりばめられた深青色の石たちは、一つ一つは小さいもののあつめると結構な量になりそうだった。
「あの、何で?」
もらういわれもないように思う。それに、こんな高そうなもの。
「お守りです。私たちの友人から。こういうのを作るのが得意なんですよ。あ、リングは安い既製品ですけど。」
ということは、あしらいは手作りなのか。
「でも、やっぱりいただけないですよ。」
「持っておいた方がいいですよ。」
ミルが、相変わらず砂糖菓子をつまみながらつぶやいた。
「特別製ですから。」
「特別……?」
なんだか、そう言われると逆に不安になってきた。でも、まあもらえるものはもらっておこうか。
「すみません、ありがとうございます。」
まあ、これくらいならいやらしくも無いし、お守りはいくつあってもいいだろう。
あれ、お守りを何個も持つと喧嘩するんだっけ?まあ神様由来ではないし、大丈夫だろう。
エリーさんは僕が受け取ったのに満足したように微笑んで、にわかに立ち上がった。
「さ、そろそろいい時間ですし、お部屋に戻ってお休みになるのがいいと思います。」
空を見れば、片方の月がもう片方の月から離れ、頭上に上がろうとしていた。
僕はうなずいて、入り口に黒服が突っ立ってる部屋に戻ってベッドに入った。
今日はなんだか疲れた。もうこのまま寝てしまおう。
*****
ふと、目が覚めた。
今は夜、だろうか。朝かもしれない。窓がないので分かりようもない。
時計を見ようと小机の方を向く。そこには、人影が立っていた。
ほぅっと青く光るその影は、肩にかかるくらいの髪をした女の子に見えた。
これって、いわゆる、幽霊……。
「ひっ。」
恐怖で声が上がりそうになったが、口に指をあてられた。
「しぃー。こんばんは。」
かわいらしい声をかけられ、とっさに挨拶を返す。刺激しないよう、少し小さな声で。
「こ、こんばんは。」
青い光に映るその顔は、僕より少し幼そうな子に見えた。そして、よく知っているような、なんとなく安心する。そんな顔だった。
黒い髪に、青く光りながらも少し黄色がかった肌の色。要するに、日本人顔だ。
「ゆ、夢……?」
そうだ。夢に違いない。よく考えたら真っ暗なはずなのに見えるってのもおかしいし。
目の前の女の子は、僕の口に当てていた指を離し、代わりにその指でほっぺたを引っ張ってきた。
「いひゃい。」
「夢じゃないでしょ?」
女の子はくすくすと、可愛くらしく笑った。
「驚かせちゃってごめんなさい。少し、お話がしたくて。」
ま、まあ敵意はないみたいだし、とりあえず、話くらいは良いだろう。上体を起こす。
「ま、まあ話くらいなら。」
「ありがとう。えっと、守、ですよね?」
自分の名前を知られていて、少し驚いたが、これ以上驚いたってしょうがない。
「うん。約束を守るの守。あの。」
少女は続きを待つように首をかしげている。
「……どこから来たの?」
入口には黒服が寝ずの番をしているはずだ。他に入り口になるようなところはないはずだった。
少女は答える代わりに天井を撫でようとするように、手を仰いだ。
すると、天井に星空が舞った。まるで天井なんてないかのように、月の光が部屋を照らす。
そして、少女は真上に来ている月を指さした。
「私はあそこから来ました。なんて。」
そして冗談っぽく笑う。そういう意味じゃなかったんだけど、なんというか力じゃ相手にならないような子だということは分かった。
「私からもいくつか質問していいですか?」
「あ、うん。はい。」
なんだかすごいものを相手にしている気がしてきた。まあ、でも殺す気だったら、きっともうとっくに死んでるだろう。
「守はこの世界に来てみてどうでしたか?」
「どうって……。」
この二日のことを思い出してみる。美味しいものを食べたり、殺されかけたり、一言ではまとめられない。
「なんとも。いろいろありすぎて。」
「じゃあ、この世界はどうでしたか?」
うーん、これも難しいなぁ。窓の外の風景は確かに別世界のものだけど、なんというか、このフロアにあるのは普通なものばかりだった。
「あまり元の世界と変わらないかなぁ。凄そうだけど実感がないというか。」
少女はふんふんと何度か頷いている。
「じゃあ、この世界に残りたいですか?」
またその質問だ。まあ、明日には答えを出さないといけないわけだし、そろそろ固まってないとダメなんだけど、正直言って何とも言えない。
「なんというか、決定打に欠けるというか。でも、残りたい、かなぁ。」
なんとなく、こっちの世界にいれば変われる気がする。どういう形かは分からないけど。魔力だってめちゃくちゃ持ってるらしいし。
まあ、アキがいないのは残念だけど。
少女はまたゆっくりと頷いている。
「そういえば君の――。」
「最後の質問です。」
少女は僕の言葉をさえぎって、真面目な顔つきになった。
「パンはパンでも食べられないパンは?」
聞こえてきたのは、よく知っている響きの言葉だった。
ていうか、は?
「フライ……。」
いや待て。唐突過ぎる。何かひっかけ問題なんじゃないだろうか。
「なんですか?」
少女が真面目な顔つきで繰り返し聞いてきた。
「フライ、パン。」
思いつかなかった。促されるままに素直に答えてしまう。
しかし、目の前の女の子は満足そうに微笑んだ。
そして、その両の手を僕の顔の方へ差し伸べてくる。
「おめでとうございます。正解です。そして、ごめんなさい。」
その子の手はぼくの口をこじ開けて、その中へ入ろうとしてくる。
「これから、あなたには大変な思いをしてもらうことになると思います。」
口の中に入れられそうな手は、しかし口の中に入ったとたん、深い青の光と共に消えていった。同時に強い風が吹き起る。
「ふぁいふぉえ?ふぉうあっふぇんふぁ!」
手を引き離そうとするけど、びくともしない。本当に女の子の力か?
「それからあなたを避けさせることはできません。でも、」
女の子の手が、腕がどんどん口の中に入っては消えてゆく。どうなってるんだ?
暴れても女の子の体は全く離れない。気が付けば、目の前に顔があった。
そうだ。ナースコール。ベッドの脇に手を伸ばす。あった。力強く何度も押した。
「私の友達に言わせれば、悲劇があってこその主人公、ですよ。だから、また会いましょう。」
少女は小さな口でにっこりと笑って、その顔も消えて、光の残滓だけが僕の口の中に入っていく。
体も同じように光の粒のようになって僕の口の中に入っていく。口を閉じようにも顎が外れたみたいに力が入らない。
「マモル!」
ドアがばたんと開いた。電気がついたころには、もう全部が消えていた。天井も元に戻っている。
廊下からエリーさんとミルが顔を出した。
「大丈夫ですか?」
「お、女の子が!僕の口に!」
エリーさんが訝しそうな顔でこっちを見た後、ミルに合図を出して部屋を見回らせた。
代わりにエリーさんが僕の口の中を覗く。
「……何にもありませんよ?」
「ふぉんあはうは」
ミルも戻ってきて首を振った。
エリーさんが僕の頭を撫でる。
「大丈夫ですよ。何もありません。それは夢ですよ。」
そんなわけは。でも、証明するものは何もない。エリーさんが部屋の電気を付けた時には、女の子の光も何もなくなっていた。
やっぱり、夢だったのだろうか。
答える代わりに、喉からコンと咳が出た。
*****
次の日。喉の違和感で目が覚めた。
何度か喉を鳴らしてみるが、違和感は収まらない。
時計を見れば、朝になっていたので、とりあえずは電気を付けて起きることにする。
しかし、こう、我慢できないほどではないものの、時々咳が止まらない感じ。
何度か咳をしていると、ノック音が響いた。
「どうぞー。」
ドアが開くと、ミルとエリーさんが入ってきた。
「おはようございます。あの後はよく眠れましたか?」
「あ、はい。」
と、答えたところでまた咳が出た。
「風邪ですか?」
ミルさんが聞いたtころで、またエリーさんが僕の口の中を見る。
「うーん、特に腫れも無いようですが……ミル、一応シロップ貰ってきて。」
ミルはうなずいて、部屋の外へ出て行った。
エリーさんは僕の額に手を当てながら体の調子を尋ねてきた。
「寒気や震えはありませんか?頭痛は?」
「あ、大丈夫です。ちょっと喉がおかしいだけで。」
言いながらもコンと咳がでる。
「なんだか看護師みたいですね。」
そう言うと、エリーさんはにっこりとほほ笑んだ。
「ここは一応病院でもあるんですよ。異世界から来た方が病原体を持っていないか、というのもですが、逆にみなさんがここの世界の細菌に耐性が無かった時の為に、たいていの医療施設がそろっているんです。」
あ、やっぱりそうだったのか。というか、未知の細菌に感染するかもしれないと聞くと、少し怖くなった。
「まあ、医療施設と言いましても、大半は魔術でどうにかなるんですけどね。」
そう言ってエリーさんが苦笑いを浮かべる。と、ドアが開き、ミルが匙とコップを持ってきた。
「マモル、口を開けてください。」
言われるがままに口を開ける。
ミルは匙でコップの中の液体を取り、僕の口に入れ、
「……ん?」
「どうしたの?ミル。」
そう尋ねたエリーさんの顔色を窺って、そのまま液体を流し込んだ。
「いえ。なんでもないみたいです。」
「そう。」
その液体は、なんだか甘いような苦いような、何とも言えない味だった。少なくとも、おいしくはない。
「これなら魔術を受けたかった……。」
そうつぶやくと、ミルが鼻で笑ってきた。
「咳程度で使ってたら採算が合いませんよ。」
そういうものなのか。魔法をもってしても世知辛さからは逃れられないのか。
「さて、私はシロップを片付けておきますね。ミルは今日の予定をマモルに話してあげて。」
エリーさんはコップと匙を受け取って、そのまま部屋の外に出て行った。
ミルはエリーさんを見送った後、僕の方を向き、仰々しい様子で話し始めた。
「えー、今日はいよいよ決断の日です。今日の決断で、あなたの今後が決まるわけです。」
……仰々しいというよりは、読みたくもないものを無理やり読まされてるって感じか。
「実際に決断していただくのは、午後にしていただくもろもろの手続きの際となりますので、まあ今のうちに色々ぼぉっとしておいてください。」
なんだか適当になってきた。
「あ、それと私たちは午後からの手続きの際にはいませんから。」
「あ、そうなの。」
「ええ。お世話係は諸手続きの際には立ち会わないことになってるので。」
そんなものなのか。
「まあ、とりあえずは朝ご飯でもいただくのがいいんじゃないですかね。」
そう言われると、お腹が鳴った。少し恥ずかしい。
*****
昼下がり。僕の前にはドクターが座り、その傍にはルミンさんが両手を組んで立っていた。
「さて、マモル。申し訳ないことに怖い思いもさせてしまったが、この三日間、どうだったかな?」
「まあ、楽しかったです。」
怖かったのも本当だけど、楽しいこともあリはした。怖かったとは面と言いづらいが、楽しいなら遠慮なく言える。
ドクターはうんうんと頷きながら聞いている。
「そうかそうか。それで、いよいよ君にはここに残るかどうかを決めてもらわなければいけない。」
ごくりと唾をのむと、例の喉の違和感で少し咳き込んだ。
「風邪かい?」
ドクターがやや心配そうに顔を覗き込んでくる。ルミンさんが動いて、僕の額に左手を当ててくる。少し暖かい。
「あ、いえ。大丈夫です。」
「それならいいが。」
ドクターはごそごそとカバンをあさり、二枚の紙を見せる。どちらも、下の方に線が引かれている。たぶんそこにサインするんだろう。
「さあ、一つはここに残るための申請書。今一つはここから帰ったことの証明書。どちらを選ぶ?」
「……申請書で。」
表情をこわばらせながら、手を差し出す。
やっぱり、ここに居れば変われる気がする。どう変わりたいのかは分からないけど、良くなるって思った。
ドクターはにっこりと笑い、一枚を片付けて紙とペンを渡してくれた。
「あの、それで。」
「ああ、とりあえずはその書類から片付けよう。一つずつ行こうじゃないか。」
まあそうか。紙を見る。文字がぼやけてよく読めない。
「んー?」
「代読しようか?」
「いえ、大丈夫です。」
目をこすると、視界がもとに戻った。例の、読めないけど分かる感じ。
移住申請書、か。役所みたいだ。
とにかく、内容を流し見て、一番下の線が引いてあるところに自分の名前を書く。そして、紙とペンをドクターに返す。
「書きましたよ。次はどう知ればいいんですか。」
「そうか、書いたか。確かに自分の名前?」
ドクターは紙をこちらに見せ、サインしたところを指さしてくる。牧草守。確かに自分の名前だ。
「ええ、はい。」
「そうか。それはよかった。」
ドクターは、その紙をしまい、ルミンさんに目で合図をする。
ルミンさんはそのまま近付いてきて、僕の肩に右手を置いた。
ガキン。
肩が熱くなったと思ったら体の中からそんな音が響いた気がして、それで僕の目の前は真っ暗になった。
*****
次に目が覚めたのはベッドの上だった。ろうそくに照らされた、石造りの天井。
体を動かそうとすると、左手に鈍痛が走る。
「っ。」
首を少し上げると、四肢から鎖が伸びているのが見える。
ここに来た時と全く同じように思える。
まさか、夢だった?
でも、指輪とミサンガの感触はある。喉の違和感も。
「なんだ、なんだよこれぇ。」
僕の情けない声が石造りの部屋に響いた。
「――私、もうちょっと自分は仕事ができる人間だと思ってました。」
とあるアパートの一室で、身支度をしながらミルはエリーにそう愚痴った。
「まあ、そんなものよ。失敗できないところで失敗しなければ、それでいいの。」
エリーがミルの頭を優しくなでる。が、ミルはそれを払いのけた。
「子供扱いはやめてください、お姉さま。」
「……その『お姉さま』っての、やめにしない?」
エリーは払いのけられた手を撫でながら苦い顔をする。
が、ミルは父親をお父さんと呼ぶように、当然のように返す。
「お姉さまはお師匠様の姉のような存在と聞いていますから。弟子である私にとっても『お姉さま』です。」
帰って来たのはため息だけだった。
「とにかく、失敗できない仕事っていうのはこれからよ。気を付けていってきなさい。」
「はい。お師匠様によろしくお願いします。」
ミルは身支度を済ませ、元気よく部屋を出て行った。
エリーはその後姿を見送り、自分の分の荷物を片付ける。
「さて、ここに戻るのは次はいつになることやら……。まあ、10日以内には戻るんだけど。」
お世話係は、その業務を終えると10日の休暇を貰い、その後看護師として復帰することになっていた。
「イグニスさんは海に傷心旅行って言ってたっけ。海もいいなぁ。」
自分の荷物をカバンに詰め終わり、軽くポンポンと叩く。
「ま、仕事が終わってからね。とりあえずは帰りましょう。」
そしてカバンを持ち上げ、家から出る。
鍵を閉め、ポストに鍵を入れ、自分の胸の谷間に手を入れる。
そして、一枚のカードを取り出した。