命の道しるべ
だいたい、なんで俺様がこんなことしなきゃなんねぇんだよ、と思わずにはいられない西園寺久志だった。
彼の手元にある書類に貼られた一枚の写真を久志はあらためて眺める。
『 三浦レイ 十六歳 女 』
写真の少女は、どう見てもいまどきのギャルだ。金髪に近い茶髪、派手なメイクは簾のような付けまつげにタヌキのようなアイライン。わざとだろうか(たぶんわざとだろう)血色の悪そうな色のリップが塗られた唇はニコリともしていない。
このギャルが、本当に三浦与一の娘だというのか!?
久志は何度も写真を眺めてはため息をついた。部屋中には、レイと同じような格好をした少年少女たちが写っている雑誌やDVDの山。ヘッドホンからは、ずっと意味不明の言葉が久志の頭の中を駆け巡りマジでパネェ状態になっている。
「それに俺、こう見えて二十一なんスけど……」
久志の父、西園寺正宗から今回の突飛な依頼を受けたのは、久志が留学先のアメリカから帰国してすぐのことだった。
『高校生になって三浦レイに接触し、セルタイプとEPの情報を入手せよ』
父の正宗が国家の命を受け、機密事項であるEPプロジェクトのメンバーであることは知っていた。
当時十二歳だった久志には研究内容まで知る由もなかったが、EPをセルタイプから取蓄倍電する技術開発に医師として参加している正宗のもとにセルタイプの本体が来たのが九年前。
諸々の事情で三年というタイムリミットを設定された研究期間は、正宗にとってあまりにも短すぎた。
前任の真山。正宗の後任、袴田と遠藤も然り、自分たちが知り得たデータを提供しただけにすぎないことを良しとせず、セルタイプを手放した現在もそれぞれに研究を続けている。
今の久志にしてみれば国家機密といえど父親のデータベースから情報を引き出すことなど朝めし前なので、プロジェクトの詳細から父親の研究過程に至るまですべてを知ることができた。
息子から言わせれば正宗は脇が甘すぎるのだ。機密事項にもかかわらずセキュリティシステムが古いので情報がダダ漏れだ。何度久志が指摘してもあいかわらずなのは年寄りの石頭から来るものなのか。
久志はIQ350の天才児だ。
医学博士の正宗は久志を医師にするつもりでいたのだが、どういうわけか当の久志は幼いころから機械いじりにばかり興味を示し、最近ではナノロボットの開発に没頭している。
いずれは難病治療や新薬の開発で世界的に名を上げてほしいと思っていた正宗だったが、久志は医者になるにはあまりにも致命的な弱点を持っていた。
─────血が怖い、のだ。
たとえば赤い絵の具やペンキが流れ出ただけでも気が遠くなるといった具合だ。
久志は男に生れてよかったと心の底から思う。平気で毎月血を見られる女の気持ちがわからない。自分なら毎月一週間は気絶ものだ。
そんなわけで医師になる頭脳は持ち合わせていたが、血を見るたびに卒倒する医者に誰が診てもらいたいと思うのか。
はなから医師になるつもりのない久志に過度の期待を寄せていた正宗も、最近では「医者になれ」と口うるさく言わなくなってきた。多少なりともそのせいで帰国を憂鬱に感じていた久志だったが、正宗は正宗で彼をスパイに仕立て上げるという考えがあってのことだったのだ。
久志自身EPにまったく興味が無いといえば嘘になるが、正宗のデータベースからいろいろ調べた結果「他人のふんどしで相撲をとる」ようなやり方に反発を抱いた。
このプロジェクトはまるでセルタイプにおんぶに抱っこではないか。まるっきりフェアじゃない。
当時、正宗が呪詛のように三年、三年……とつぶやいていたのも研究材料が生ものだったからで、野心家の彼にしてみれば自分が担当の間に結果が出せなかったことが悔しくて仕方ないのだった。しかも、もうすぐ七十になる正宗は年齢的に時間が無いことに焦りを感じ始めていた。
そこで今回順番が回って来た三浦与一からセルタイプを奪えないものか……いや、密かに共同研究できないものかと企んだのだった。
それには三浦の研究所へ潜入しなければならない。いささか遠回りではあるが、いちばん接触しやすい娘のレイに近づき徐々に本丸を目指せばいいと考え、息子の久志に白羽の矢が立ったというわけだ。
最初はいまさら高校生に化ける気は無いだの、写真のレイが自分好みじゃないから嫌だのとごたごた文句を言っていたが、チャラ男に化けた久志はまんざらでもない気になっていた。
そう、自信過剰気味の久志はレイくらいの小娘を落とすことなど屁のカッパだと思ったのだ。
思っていたので「あんたナニ考えてんの? ウザいっつってんでしょ! ナンパすんならほかの女子あたりなっ」
と、まさかレイからこんなセリフが返ってくるとは思いもしなかった久志は唖然呆然チョー凹んだ。しかし動揺を表には出すことなく久志も頑張る。
「え~っ、オレっち最初っからレイちゃん狙いだしぃ~」
「レイちゃーん、一緒に帰ろ♪」
「レイちゃんさ、なんでオレのこと避けるの? オレそんな嫌なヤツ ? 言ってくれたら直すからさぁ」
自分でも何が悲しくてこんなに下から目線で媚なきゃなんないんだ! と、キレかけた久志だったが、しばらくレイの様子を観察していて気づいたことがあった。
レイには何かを「感じる」第六感のようなものがあるのかも知れないということだ。
自分では隠しているつもりのようだが、相手によって言葉や態度を変化させていた。それは八方美人とかいうのではなく、相手の心の内を読み取っているとしか思えない言動や行動……もどう説明すればいいのかわからないが、ヒントは久志に向かってレイが言い放ったひとことにあった。
「あんたこそなんなのよ。ナニ考えてんだかさっぱりわかんないっつーの!」
日ごろから久志は極力頭の中は空っぽにしているクセがついていた。それはいつ何時アイデアが降りてきても受け入れられるようにという昔からのクセだったが、近ごろはナノロボの開発に没頭していたので、いかに小さな高性能AIを開発することができるのか考えている頭の中は空の状態か、そうでなければ数式かCPUの設計図で占められていると言ってもいい。
それをレイは言い当てたのだ。しかし、そう思う反面まさかと疑う自分がいるのも確かだった。
このままでは、正宗からの催促に返す言い訳も底をついてしまう。
次の作戦に出るかどうか考えながら久志が歩いていると、ファーストフード店内にレイたちの姿を見つけた。ラッキーなことに久志に好意を持っている千尋とかいう女子も一緒だ。
「ハーイ、楽しそうですね~。ボクちんも仲間に入れてくんない? ってか男子禁制ってカンジ?」
「キャ~ッ! ひーくんだったら大歓迎だよー。座って座って」
わざと久志はレイにではなく千尋に声をかけた。もちろん、とびっきりの笑顔で。すると千尋はありがたくもレイの隣の席をゆずってくれたではないか。
次の作戦実行だ。
席を立つレイについて久志も立ち上がると、
「ついて来ないでよ!」
思った通りの冷たいお言葉。
「ちげーよ、トイレだよン」
五つも年下の小娘相手に苛立つ自分を抑えながら、レイに近づくための最初の一歩が間違っていたのかも知れないと思う久志だった。
まさか、俺の本当の狙いがセルタイプだということもバレてるのか!? いやいやいや、そんなはずは無い無い無い。もしバレていたら反対にレイの方から何がしかのリアクションがあるはずだ。
とりあえず、さっきレイの鞄に久志作の昆虫型発信機を取り付けたので携帯電話のナビ機能で追跡すると同時に正宗にも連絡を入れておく。
「もしもし、親父。ちゃんとプレゼント渡しといたぜ。そっちの端末からも追跡できるはずだから─────」
さてと、俺的にはレイん家に盗聴機や隠しカメラをセットしたところでセルタイプの情報が手に入るとは思わないが、こんなことくらいで親父の気が済むんだったらいくらでも協力してやる。
こっちはこっちで、現在開発中のナノロボの性能を試すいい機会だ。
久志を医師にしたかった正宗に反発するように、彼はロボテクの世界へ魅せられていった。それも限りなく小さなナノマシンの世界へ。
◆ ◆ ◆
自宅に着いたレイと月子の会話をテントウ虫を通して聞きながら、久志は母親と一人の少女のことを思い出していた。
久志が機械いじりをするようになったきっかけは、すべてここから始まったのだ。
久志の母は、父正宗が勤務する大学病院の小児病棟で週に二回、絵画教室を開いていた。
(……つーことは、レイの母ちゃんと同じクリエイターってことか)
絵画教室といっても「絵」だけを教えるのではなく、粘土や布を使った立体工作なんかも取り入れて、子供たちの想像力のままに作品を作り上げていく自由な絵画教室だった。
院内学校とは違い自由参加にもかかわらず子供たちには人気があり、始めは週一だったのを保護者の要望で二回に増やしたほどだ。
小児病棟の面会室や食堂の壁面は彼らが描いた絵や工作などの作品で賑やかに飾られ、それは病院関係者だけでなく外部からの面会客にも好評だった。職員に配布される院内広報誌の表紙にも彼らの作品が使用されているほどに。
六歳の久志は学校の帰りに病院へ寄っては、病棟の子供たちと一緒に絵を描いたり物を作ったりして母の仕事が終わるのを待っていた。
そんなわけだから必然的に入院している子供たちとも仲良くなった。
小学一年生の久志には、彼らがなぜ自分が通っているような小学校へ行かないのか不思議だったが、しばらくしてそれは『行かない』のではなく『行けない』のであることがわかってきた。車いすや松葉づえや点滴スタンドを引いて教室までやって来る子供たちを最初は珍しく思っていた久志だったが、彼らはつらい治療に耐えて必死に病気と闘っているのだということを母から聞かされてからは、ちょっと尊敬の目で見るようにさえなった。もし自分だったら、注射器を見ただけで逃げ出す確率は高い。ましてやずっと針を刺しっぱなしの点滴なんかありえない。いくら病気を治すためとはいえ、すごいなぁと思わずにはいられない久志だった。
そんな久志が不満に思っていたのは、せっかく友達になったにもかかわらず突然教室に来なくなったり、しばらく休んでまた来たりする子がいることだった。前者の場合は、たいていその子の作品が壁から外されて無くなった。それが何を意味するのか久志が知るのは、もう少し後になってからのことだ。
学校が夏休みに入ったある日、絵画教室に新しい子が加わった。久志より三つ年上で九歳の由紀という女の子だった。
由紀は入退院を繰り返しているせいで、本当なら小学三年生のはずだったが院内学校では二年生の勉強をしているらしい。そのためかどうかわからないが、由紀はいつも何かに怒っていた。つねに眉間にシワを寄せて何かを睨んでいた。そうでなければ、主治医や看護師に悪態をついていた。
久志は由紀に会ってから、まだ一度も彼女の笑顔を見たことがなかった。
そんな彼女が素直に絵を描いたり工作をするわけがない。そもそも絵画教室へ来るようになったのも本人の意思ではないのだから。なかなか面会に来られない共働きの両親が、せめて友達が出来るようにと通わせることにしたのだった。
今日も由紀はひとり、窓の外を眺めながら何をするでもなくイラついていた。そんな彼女に久志の母も無理強いはしなかったが、何かひとつでも作品を作ってくれればと思っているのは確かで、なぜなら家にいても何かしら由紀が興味を持ちそうなものを探していたからだ。
「かわいい柄の布で何か作れないかなぁ。由紀ちゃん、女の子だからお裁縫とかの方が興味あるかもね」
嬉々として言う母に久志は「たぶん破っておしまい」だと思ったが言葉には出さなかった。
母が選んだ布は白地にピンクの小花と赤いリボンがちりばめられた、見るからに女の子が喜びそうな柄だった。それと一緒に簡単なポーチやきんちゃく袋などの型紙を用意して病院へ向かった母だったが、由紀に拒否られる前に看護師からストップがかかってしまったのだ。
院内へは、ハサミや針などの危険物は持ち込み禁止だった。
出鼻をくじかれた母だったが、縫うのがダメならせっかくの可愛い布地を無駄にすることなく空き箱に貼り付けて小物入れを作ろうと言い出した。まだ由紀の意見も聞いていないのに。
母から布を手渡された由紀は、やっぱり無愛想でお礼の言葉を言うでもなく机の上に投げ置いたまま、布に指一本触れることなく窓の外を眺めているだけだった。
その態度にさすがの久志もキレた。このさい年上だろうが病人だろうが、わがままにもほどがある。久志は由紀の前まで行くと、不機嫌そうな横顔に向かって言った。
「おい、来たくないなら来るなよ! そんなつまんなさそうにしてたら、みんなが嫌な気分になるのがわかんないのかよ!」
「久志! やめなさい!」
シーン……となった教室に母の声だけが響いた。
久志は由紀も大声で言い返してくるものだとばかり思っていたので全身の震えを必死で押さえていたのだが、由紀は一瞬何を言われたのか理解できない様子で、しばらく久志の顔を見つめていた。が、おもむろに布を手に取ると久志の目の前でそれを引き裂いたのだ。
布が裂かれる独特の音が何度か教室に響くと泣き出す子もいて、教室は騒然となった。
「久志、由紀ちゃんに謝りなさい!」
由紀は唖然とする久志を押しのけると、何も言わずに教室から出て行ってしまった。
それから由紀が絵画教室に来ることはなかった。
久志が父の正宗に呼ばれて由紀の病室を訪れたのは、由紀が絵画教室に来なくなって二週間ほどが経った頃だった。
「由紀ちゃんが、久志に会いたいと言ってるそうだ」
会いたいのなら絵画教室に来ればいいのにと思った久志だが、父に言われるまま入った病室には由紀の両親と主治医がいて、半分引かれたベッドカーテンから点滴の針が刺さった由紀の細い腕が見えた時、
(由紀は、もう教室には来ないんだ)と、久志は思った。
「久志くん、いつも由紀と仲良くしてくれてありがとうね」
由紀のお母さんはそう言ったけど、自分は一度だって由紀と仲良くなんかしたことない。
「久志、来たの?」
カーテンの向こうから由紀の声が聞こえた。思ったより元気そうだ。
「それじゃ、あんまり長くは話しちゃダメだよ。終わったらナースコールすること」
主治医はそう言うと、由紀の両親を引き連れ病室を出て行った。久志ひとりを病室に残して。
「こっち来てよ」
相変わらず命令口調の由紀にうんざりしながら久志はベッドに近づくとカーテンを開けた。とたん目に飛び込んできたのは─────血、血、血!
厳密に言えば血を拭いたガーゼが汚物入れからあふれて、なおも由紀の手に握られているガーゼも血まみれだったのだ。
「ごめん、鼻血が止まんなくて……止血剤入れてもらったから、もうすぐ止まるよ」
そう言って由紀が新しいガーゼに変えようと顔から手を離した瞬間、ボタボタと鼻血がこぼれ落ち白いシーツに真っ赤な花を咲かせた。
(ああ……俺の「血液恐怖症」は、きっとこれがトラウマになってんだ)
「ごめん、気持ち悪いでしょ。ごめんね」
血を見て固まっている久志に、由紀はまるでいつもの彼女らしくない言葉をかけた。
「あんたにあやまりたかったんだ。最初、なんで病気でもないあんたがいつも病院にいるのかわかんなかったから。西園寺先生の子供だって聞くまで病気のあたしたちに「元気」を見せびらかしに来てるだけの嫌なヤツだと思ってムカついてたの。そんなあんたと平気な顔して仲良くできるみんなにもムカついてた。絵画教室も嫌だった。なんか、遺品作ってるみたいで嫌だった。だって、本当に遺品になった子だっているじゃん。あたしは死ぬ準備なんかしたくないもん。もっと生きていたいもん!……でも、こんなイヤな子の願いを神様が聞いてくれるわけないよね。あたしのためにせっかく用意してくれた布を破った日から、だんだん調子悪くなってきて……きっと、バチが当たったんだ。もう今からいい子になっても遅いってわかってるけど、久志にはあやまりたかったの。ごめんなさい」
由紀はそれだけ言うと新しいガーゼで涙をふいた。由紀の言葉を聞いて久志は突然教室に来なくなった友達や、消えた作品の理由がわかった。
「いいよ、気にしてないよ。ぼくこそあんなひどいこと言ってごめんなさい。お母さんもみんなも心配してるからまた元気になって教室に来てよ」
「うん、今度はちゃんと作品作る。だから先生には久志から謝っといてね」
由紀が亡くなったのは、それから三日後のことだった。
『急性リンパ性白血病』
六歳の久志が、初めて覚えた病名だった。
「もっと、生きていたいもん!」由紀の叫びが、小さな久志の胸を締め付けた。
「久志、これ見て」
母が手にしていたのは、由紀の両親から託された紙袋だ。中を見るとヒモのようなもので編んだ手さげ鞄が入っていた。
「久志、これわかる? あの時、由紀ちゃんが引き裂いた布だよ。「裂き布」って、細く裂いた布をヒモ状にして編んでいくの。由紀ちゃん、ちゃんと作ってくれてたんだ」
よく見ると、確かにところどころからピンクの花と赤いリボンの模様が見える。
久志は心の中で「これは、絶対遺品じゃない」と強く思った。あの由紀がそんなもの作るわけがない。これは、久志の母へのプレゼントなんだ。可愛い布を選んでくれてありがとうっていうお礼のプレゼントなんだ─────。
今でも赤い色を見ると思い出す。
白い病室に不釣り合いな真っ赤なガーゼの山と白いシーツに点々と咲いた赤い花……どんな想いで由紀は溢れ出る血を拭っていたのか考えると、久志はつらくて苦しくて、過呼吸の発作が起きるようになってしまった。
だから、俺は医師にはなれない。
だから、どんな理由であれ自分から死にたいなんて言うヤツは許せない。
今、俺の目の前にいるセルタイプがそうだ。
妹を不幸にしたのは自分だと思い込み、その自分が死ねばすべて丸くおさまると思っていやがる。もしくはつらい現実から逃避できると思っていやがる。
「お前アホか! この世の中、生れてこなけりゃよかった人間なんか一人もいねーんだよ! 生れてきた意味の無い人間なんかいねーんだっ! ひとりもなっ」
生きたくても生きられない人間はごまんといるんだよ。
SSプレートだぁ? ふざけるなっ! そんなに死にたきゃドナー登録してから死ねっつーんだ。
「『なんのために生れてきたか』っつーと、それは『自分で考えて生きるため』に生れてきたのよ、わかる? だからお前が妹を苦しめるために生まれてきたって思った時点で、それが生きる「目的」になっちまうんだ。そりゃ違うだろ? ハルト、考えろ。生きるってことをもっと本気で考えるんだ !」
十二年間、苦しみに耐えてきたお前ならわかるはずだ。
お願いだから、安直に「死にたい」なんて言うな。絶対に言うな─────。
◆ ◆ ◆
美人ちゃん……タリルに、なぜ医師にならないのか聞かれたことがある。
「俺、血がダメなんだよね~」
としか言いようがなかったが、確かに由紀のような病気の子供たちを救うには医学を学んだ方が手っ取り早いのかも知れない。久志の頭脳をもってすれば医師になることなど容易いことだが、病気の原因を突き止める臨床検査技師になるのも有りだと思ったことがある。むしろ検査技師の方が血液に接する率が高いということに気づくまでは。
血が怖い久志は自分なりに考えた。それならば、自分は検査に役立つ機械や器具の開発をしようではないかと。医師以外でも病気を治す手段はある。
そういえば人間を小さくして人体の中に送り込み、患部まで到達させて治療するという内容の映画を見たことがある。
これだ! と思った久志は、それ以来ナノマシンの研究に没頭することになったのだ。
いずれは病気の治療だけでなく、染色体異常が起こる細胞の仕組みを解明できればと考えは尽きない。
そして、そんな久志の前に現れたのがセルタイプだった。突然変異種の人類だというが、久志は彼らが生れた過程に興味を持った。
EPプロジェクトに父の正宗が参加していると知ってから、彼のパソコンをハッキングしてはデータを手に入れる久志だったが、セルタイプの能力を知れば知るほど疑問は増えるばかりだった。
やはり直接本人に会ってみなければ前へ進めないと思っていた矢先、正宗からセルタイプの拉致指令が久志に出されたのだ。
なにしろ相手は国家機密だ。最悪、SPに射殺されても文句は言えない。
最初から上手くいくとは思っていなかったが、好奇心の方が勝ってしまった。
久志のナノロボをもってして、やっと三浦与一の研究所へ潜入することはできたが、目的のセルタイプよりも久志を驚かせたのが、そこで行われていたEPプロジェクトの内容だった。
今までセルタイプを傷つけることのみでしかEPの採取方法が確立されていなかったのを180度違った「眠らせる」という方法で脳波を解読し採取につなげた三浦の養女タリルのアイデアは、これからも生れてくるであろうセルタイプの運命を変えるものだ。
後にタリルはセルタイプであるハルトの妹だということがわかるのだが、きっと血のつながった兄妹だからこそ思いついたのだと久志は思う。
彼女はセルタイプだけでなく、人類の未来を救ったと言ってもいい。
地球の資源が枯渇するまでそう長くはないだろう。
久志が三浦のもとでEPプロジェクトに参加すると知った西園寺正宗の怒りと失望は、やはり相当なものだった。
三浦の元へ乗り込んで久志を連れ戻そうとも思ったが、誘拐という犯罪の首謀者だった正宗と、にもかかわらず見逃してもらったという後ろめたさで強気に出られないまま地団駄を踏むしかなかった。
久志はセルタイプと接したことで、いずれ心の傷をも治癒できるマシンが開発できればと思いを廻らせる。
いや、完治させるのではない。ある程度の傷心も生きて行く上では必要なものだとわかっている。
ただ「死んでしまいたい」と思わせるほどの大荷物を減らすことができればいい。それで自ら命を絶つ者が減るのなら……。
「ひーくん、もうチャラ男にはならないの?」
「もともとチャラ男じゃないですから」
今のところ久志の敵は月子とレイ親子だ。
月子はチャラかった時の久志を知らないので、いまだに興味を引きずって何かと再現させたがるし、レイは反対に今の久志とのギャップを楽しんでいるようだ。
さらにマズイのは、最近そのレイに弱みを握られたことだった。
「タ~リ~ル~ちゃん❤ 久志クンが、もっとかまって欲しいってサ~」
「バ、バカ野郎! 大人をからかうなっ」
うっかりレイの前で隙を見せてしまったのが悪かった。
それは、本当に一瞬のことだ(と久志は思っている)が、ふとタリルのことを考えていたところをレイに『感じ』られてしまい、以来なにかと久志に絡んでくるようになったのだ。
確かにタリルは美人だし頭もいい。ましてや兄のハルトを拉致しようとしたにもかかわらず責めることなく接してくれる。
(惚れないヤツは、男じゃねーだろっ)
久志の想いはタリルに伝わっているはずだが、ギクシャクしないのは間にレイが入ってくれているからだ。
思えば以前の久志に対するレイのピリピリした態度は薄れてきていた。
彼女なりに久志が与一のプロジェクトチームに溶け込めるように気を使ってくれているのかも知れない。
だからといってタリルを引き合いに出すなよなぁ……マジで焦るし! それにタリルにはハルトというボディガードが付いてるだろーが。
だから久志は、今日も遠くからタリルを見ているだけでいいのだ。
そのうちもっと自然にコミュニケーションがとれるようになるだろう。
時々、タリルの後ろに由紀の姿を見ることがある。由紀は「よくわかんないけど、すごいことやってるんでしょ?」と、久志に笑いかける。
(ああ、俺たちすごいことやってるんだぜ)
そして久志は心の中で自慢してみせるのだ。久志をここまで導いた、小さな星に向かって。
~ 終わり ~




