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第三話

 昨夜はさすがに眠れなかった。

 最後の包帯が取れたのが三日前。ついに今日からEP(エレメンタリーパワー)の採取が始まる。しかし、それ以上に不安なのがタリーとの再会だ。三浦博士は体が完治するまでの間、気持ちの整理が出来るようにと面会謝絶状態にしてくれていたが、かえって緊張が増してしまった。それにタリーは博士の助手として、いつまでたってもセルタイプに面会できないことを訝しんでいるはずだ。

「ハルト、入るわよ。準備はできてる?」

 この十二年間、一緒に研究所を回って来た島村エリカは僕の世話係り。養母として初めて施設で会った時のことを思うと少し老けたが、それでもまだじゅうぶん美人で通る。

 あいかわらず口調は事務的だが、この研究所へ来るまでの僕の待遇を知っているだけに傷口が癒されていくにつれ表情が優しくなったと思うのは僕のおめでたい考えだろうか。

「十二年ぶりに妹さんに会うんだから緊張するのはわかるけど、ちゃんとセルタイプとしての仕事はしてちょうだいね。それから会う前に教えといてあげるけど、すんごい美人になってるわよ、タリーちゃん」

 母親似なのだからあたりまえだ。

「島村さん、あと三年の辛抱だね。僕のお守が終わったら自由だ。十二年も付き合ってくれてありがとう」

「な、なによ。なに言ってんのよ。まだ三年もあるんだからっ。その後だって、まだEP(エレメンタリーパワー)の研究は続いていくのよ。最後まで見届けるに決まってるじゃないっ!」

 国内では僕の後からセルタイプが産まれたという報告は無い。もしかしたら隠れ続けているのかも知れないが、どちらにしてもこんなクソみたいな研究は僕で終わりにしてほしい。

「行こう」

「あ~ヤダ、こっちまで緊張してきちゃったじゃない」

 部屋を出ると三浦博士が待っていた。博士の目が「大丈夫か」と問いかけている。大丈夫もなにも、死刑囚に後戻りの選択肢は無いでしょ。

 こうやって長い通路を歩いていると、捕まった日のことを思い出す。最後に見たタリーの後ろ姿を思い出す。

「最初はここからだ」

 そう言って博士に連れて来られたところは、まるで指令室か管制室か操縦室だった。何台もの端末が並び、赤や緑のイルミネーションがせわしなくわけのわからない機械の上を点滅している。モニターには心電図か脳波計のような波形が映し出されていたが、画面の隅には、すべて『TEST』の文字があり本作動しているわけではないことを示していた。

 その時、室内にいた十名ほどの研究員が僕を見るなり作業の手を止めると笑顔で挨拶? そして何事もなかったかのように再び自分たちの仕事に戻った。

 今までに会った人は僕を見ると、この白髪とオレンジ色の眼に驚き、見てはいけないものを見てしまったような顔、あるいは忌まわしいものを見てしまったというような顔をした。そして、あからさまに目をそむけるか好奇の目になる以外、間違っても爽やかな笑顔を向けられることなど無かったので、きっと今の笑顔は僕ではなく博士と島村に対しての挨拶だったのだ。

「こっちへ来て、下をごらん」

 研究員たちの態度に呆然としている僕をよそに、博士は部屋の正面にあるガラス窓まで連れて行くと窓の向こうを指さしてそう言った。言われた通りに窓をのぞくと、そこからは下の部屋全体が見渡せるようになっていた。

 部屋の中央には何やら大きなカプセル型の機械が、二枚貝のように開かれている。カプセルの細くなった両端からは何本ものコードが延びており、それはひとつの束となって頭上の機械へと繋がれていた。そして、どこからでも見えるように取り付けられた三台の大型モニターには、ただ一言『TEST』の文字が。

 すべては僕から始まるということか。

「ハルト、あそこにいるのがタリルだよ」

 博士の言葉に一瞬、頭の中が真っ白になった僕を島村が支えてくれなかったら、また医務室へ逆戻りするところだった。

 階下には男女合わせて二十人ほどの研究員が忙しく働いており、ここからでもよくわかる母に似たブラウンの髪が輝くひときわ美しい女性がタリーに間違いなかった。

 タリーは気難しい顔でモニターをのぞいては、カプセル内部にいる作業員に何やら指示を出している。

「いきなり会うよりこの方がダメージが少ないと思って、博士に頼んでおいたのよ。余計なお世話だったかしら?」

 瞬きするのも忘れてガラスに張り付いている僕に、島村が示した精一杯の思いやりだと感じ、胸が熱くなった。

「な、なに泣いてるのよぉ。今からそんなんじゃ、ガチで会った時が思いやられるじゃないの」

 本当にそうだ。ここから見ているだけでこれだけ動揺するのだから、いきなり会っていたらどうなっていたかわからない。

「さぁ、落ち着いたら下へ行こうか。みんな君に会えるのを楽しみにしているんだよ」

 手ぐすね引いて待ってたの間違いじゃないのか。なにしろ、僕が来なければすべては始まらないのだから。今までの研究所でもメディカルチェックの時間さえ惜しいと、いきなり実験室に放り込まれたこともあったくらいだ。

 ガラス張りのエレベーターに乗ると、下にいる研究員たちがこちらを見上げていることに気づいた。なぜか皆、笑顔で優しい表情をしている。

 その中にタリーの顔を見つけた時は、さすがに目を逸らさずにはいられなかった。目が合えば、きっと叫び出してしまうかも知れないと思ったからだ。

 エレベーターが下の階に着いてドアが開くと、突然拍手が起こり近くにいた研究員からは握手を求められ、僕は別の意味でパニックに陥りそうになった。

「ようこそ!」

「ずっとハルトくんが来てくれるのを待っていましたよ」

「今日からよろしく!」

 口々に発せられるのは歓迎の言葉ばかりだが、僕には意味がわからなかった。いったい三浦博士は、僕のことをどのように説明していたのか。

「だから言ったのに。ハルトは実験動物としての扱いには慣れてるけど、人間として見られることには慣れてないからフリーズしちゃうって」

 島村の言う通り、今までの研究所では声をかけられることはおろか、EP採取時以外の僕は無機物扱いだった。食事も時には装置に繋がれたまま、高カロリーの流動食を鼻からチューブで強制的に流し込まれたこともある。今思えばペット以下の扱いだ。

「ハルト、君のことは我々研究員の大切な協力者だと伝えてある。皆、本当に心から君を歓迎しているんだよ」

 そして、ひとりずつ自己紹介をして握手を交わしていった。ただあの子には緊張がピークに達したせいで震えが止まらない僕の手を不審に思われはしないかと、ぎこちない握手になってしまった。

「はじめまして、三浦タリルです」

 ミウラタリル。あの子はそう名乗って微笑んだ。何よりも見たかったタリーの笑顔は美しく、母にそっくりだった。

「それではハルト。三浦博士からも聞いたと思いますが、もう一度EP(エレメンタリーパワー)採取について説明をしますね」

 目の前にいる僕より背が高くて美しい女性は「おにいちゃん」と呼んでくれた、もうあの頃のタリーではなかった。


          ◆ ◆ ◆

 

 朝の静けさを引き裂くように突然、研究所内にブザーが鳴り響いた。

 ハルトのいる室内があわただしくなり、研究員たちがあちらこちら機械の間を走り回ってはキーボードをたたきながらモニターを見つめて首をかしげる。

 EP(エレメンタリーパワー)採取の実験が始まって今日で五日目だが、どうやら順調にプロジェクトが進んでいるわけではないらしいのは三浦や他の研究員の疲れきった顔を見ればわかることだった。

「また同じところです。レム睡眠に入って三分二十一秒後に原因不明の波形が現れます」

 三浦は頭を抱えて研究室の中央に置かれた睡眠誘導装置を見た。

 装置の前には医療チームが集まり、その様子からも緊急事態に対応していることがわかる。蓋が開いた装置の中で医師から心臓マッサージを受けているのはハルトだった。

 睡眠誘導装置は人を眠りに導き、その人物がいちばん落ち着いて穏やかな精神状態になれる夢を人工的に見させる装置だ。

 この装置でセルタイプに心地よい夢を見させることにより出るアルファ波を含む脳波を電気シグナルに変換しEPを採取しようという計画なのだが、どうもハルトの見る夢は楽しいものではないらしい。

 ノンレム睡眠の第三段階からレム睡眠へ移行して三分二十一秒後に、何故かハルトは心肺停止の状態になるのだ。

「これで二度目だ。いったいハルトの中で何が起こっているというんだ!」

 一度目の異変から目覚めたハルトに夢の内容を聞くと「忘れた」のひとことで片づけられてしまったが、三浦はそれが嘘だと気づいていた。気づいているのに何もしてやれない自分が悔しかった。

 そして今日、二度目の心肺停止が起きた。

 医師の説明によると、信じられないことだがハルトの首には人の手で絞められた痕があり、それによる窒息が心停止の原因だという。だが、モニターに映っているハルトが眠っている間に自分で首を絞める様子など見たものは誰もいない。それは何度も画像を再生して確認済みだ。

「袴田博士のところでも夢を見させる装置を取り付けられて悪夢にうなされてました。その時の資料とデータはご覧になってますよね ?」

 島村が、今さらという口調で三浦に聞いた。

「もちろん見た。だが、袴田博士とは理論も原理も何もかも違う別のものだ。なぜハルトだけアルファ波が出ないんだ!? なぜ悪夢を見るんだ!? 彼の首に付いた痣は何なんだ !?」

 ハルトは何かを隠していると三浦は感じていた。

 それは自分の命と引き替えにしてもかまわないと思うほどの何かだと。

 このままでは三度目は無いと三浦は思った。


          ◆ ◆ ◆


 レイが在籍している通信制高校のキャンパスは繁華街の近くにあるので、週一回の登校日の帰りには女友達とダベリングを兼ねた食事をして帰るのが約束事のようになっていた。 

 今日も、いつものファーストフード店でだべっていると徳馬久志が入って来るではないか。しかも、一直線にレイたちがいるテーブルに向かって。

「ハーイ、楽しそうですねぇ。ボクちんも仲間に入れてくんない? ってか男子禁制ってカンジ?」

「キャ~ッ! ひーくんだったら大歓迎だよー。座って座って」

 レイが拒否ろうと思うより早く、久志ラブの千尋が快諾して自分とレイの間に久志を座らせてしまった。他の友達ふたりも目がハート型になっている。

「偶然通りかかったら可愛い子みっけて、どこのガッコの子かな~って思ったら、うちの生徒じゃん! マジ、テンションあがったわー。ねっ、レイちゃん ?」

「ひーくん、またなにげにレイにピンポイント攻撃~」

「いいじゃん、オレっちレイちゃんのこと愛してんだモン❤」

 バッカじゃないの。

 あきれたレイが帰るつもりで席を立つと、久志も一緒になって立ち上がった。

「ついて来ないでよ!」

 キレ気味にレイがそう言うと、

「ちげーよ、トイレだよン」

 と、本当にトイレへ入っていった。この時、ほんの一瞬であるが久志から何かを『感じ』たレイは、それが消えてしまう前になんとかたぐり寄せようと意識を集中させる。

 ……数字? ……何かの設計図?

 久志から『感じ』たイメージは、まったく意味がわからないものだった。

 

 トイレの中で久志は舌打ちした。

 どこで何を間違えたのだろう。なぜレイは自分を避けるのか全くわからない。今時のギャルだというので、それに合わせてチャラ男モードで接近したにもかかわらず避けられるとは………もしかするとチャラすぎたのか!? いやいや、そんなはずは無い。雑誌や動画を見て研究したし街に出て観察もした。彼らの話し言葉もほぼ完璧に身に付けたはずだ。

 まさか、気づかれた!?

 それにしては早すぎる。そんな早い段階で俺の正体がバレたとすればIQ350の天才久志クン、自己嫌悪の谷底へスカイダイビングだ。

 久志は洗面台の鏡に映った自分の顔にニヤリと笑いかけると、携帯電話のナビ画面に点滅する光を確認した。光はゆっくりとだが画面の地図上を移動している。

「もしもし、親父。ちゃんとプレゼント渡しといたぜ。そっちの端末からも追跡できるはずだから」

 さっき同時に立ち上がった時、久志はレイの学生鞄に昆虫タイプの超小型発信機をしのばせておいた。

 そのテントウムシ型発信機Ver.Ⅱは久志自身が開発したもので、携帯からの操作により場合によっては盗聴機にもなる優れものだ。本当はカメラ機能とフットワークの良さを兼ね備えたハエ型の方をと思ったのだが、試作段階で母親に叩き壊された経験から女性にはハエ以外が基本と学習した久志だった。

「ひーくん、おっそーいっ! いつまでトイレ入ってんのよォ」

「ごめんごめん、ウンチしてたぁ」

「ヤダッ、ひーくんったらリアルすぎーっ!」

 今になって久志は後悔していた。何もチャラ男に化ける必要はなかったのではないかと。早く元の自分に戻りたいと切に願う久志だった。


 その頃レイは発信機を付けられたまま家に向かっていた。さっき月子から「アシスタントお願い」メールが入ったのだ。

 常時、月子は二~三人のアシスタントに来てもらっているが、それでも〆切に間に合いそうもない時はレイに助っ人を頼むのだ。

「つきちゃん、ただいま~」

 レイの声が聞こえるやいなや月子が仕事部屋から飛んで来ると、無言のままレイの腕をつかみし室内へ引っ張り込んだ。

 あいかわらず修羅場中の月子の部屋は泥棒に入られた後のようなありさまだ。床はもちろん机の上は資料と描き損じの原稿、食べかけのお菓子や飲みかけのジュースの他にこれから洗うのか洗った後なのかわからない衣類の山と、いつもなら来た時とは別人のように人相が変わっちゃってるアシスタントさんたち……あれ ? アシさんの姿が見えない。そーかついに戦死かと机の下をのぞいてみたが、いない。

 ははぁ、過酷な仕事量に見合うギャラの額ではないとやっと気づいて逃げられたか。

「レイ、あんたいまアシに逃げられたと思ったでしょ」

 ギクッ。

 アシスタントがいなくなって、いちばん困るのは月子よりもむしろレイの方である。月子には悪いが、少女漫画はとっくに卒業して興味すら無い。しかも絵を描くことが好きならまだいいが、好きでもないことを仕事だからと責任を付けて任される素人の身にもなってくれとレイは思うのだ。

「レイにメールした時はどうなることかと思ったけど、とりあえず残りはベタだけになったからアシさんには帰ってもらったの」

 月子の言う「ベタ」とは黒塗りのことである。人物の髪や背景などに月子が×印を入れている箇所を黒のインクで塗りつぶす作業だ。はみ出さないに越したことはないのだが、もしはみ出してしまったら今度は「ホワイト」と呼ばれる白のポスターカラーで修正をする。簡単なようで実はとても気を使う繊細なこの作業がレイはどうも好きになれなかった。

 アシスタントの仕事は他に「ペン入れ」やスクリーントーンと呼ばれるシール状になったシートを貼る「トーン貼り」や下描きの鉛筆の線を消す「ゴムかけ」などがあるが、いちばん簡単な作業だと思われがちなゴムかけが以外と腕の筋力を必要とし、インクの乾きを見定めないととんでもないことになったり、せっかく貼ったトーンが力加減でめくれてしまったりとタチが悪い。

 ちなみに最近の漫画家さんの原稿はフルデジタル化が一般的になっているので、トーン貼りやゴムかけの他に作画ソフトを操るスキルが必須らしい。

 アナログ人間の月子にデジタル作業は無理としても、消しゴムの手間くらい省いてくれと思うレイだった。

 早い話、レイは月子の仕事の手伝いが面倒くさいのである。

「あたし、ベタ苦手って言ったじゃん」

「またまたご謙遜を。アイライン描くの上手いじゃない」

「メイクと漫画は別もの!」

 月子はレイ専用のベタ用筆を本来なら書道で使う小筆のかわりに、わざわざメイク用の筆にしてあるのだ。

 レイは学生鞄を椅子の背もたれに引っかけると、とっとと終わらせようと一枚目の原稿を手に取った。

「ねぇ、レイ。お父さんとお姉ちゃん、最近どうしちゃったんだろうねぇ」

「さぁ、どうせ研究が煮詰まってるんじゃない? 科学者に悩みは付きものだかンね」

 やはり月子も気になっていたのか。

「レイ、何か『感じ』ないの?」

 月子はレイの能力を知っている人間のひとりだ。まぁ、母親だから当たり前と言えば当たり前のことだが。

「う~ん……『感じ』なくはないんだけど、原因が見えないっつーか、もうあきらめ系?」

 先日、久しぶりに帰宅した与一とタリルからレイが今回初めて『感じ』たのは、押し寄せるばかりの「絶望」と「悲しみ」だった。

 その圧倒的なイメージの深さに、レイは言葉をかけることができず、着替えを持って再び研究所へ向かうふたりの後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 これをどう月子に説明すればいいのだろう。しかもそのイメージは与一とタリル以外から『感じ』るのだということを─────。

 

          ◆ ◆ ◆ 


 月子とレイの会話に耳を澄ましているのは、もちろん虫型発信機をレイに仕掛けた久志である。

 すでにレイが帰宅した段階で発信機から盗聴機に変換済みだ。テントウムシ型なので仕掛けた鞄からはい出て、今は部屋の隅に置いてある観葉植物の葉に止まっていた。

「それにしても汚ねぇ部屋だな」

 カメラになっているテントウムシの目を通して見た月子の部屋のありさまに、さすがの久志も絶句である。

───ねえ、レイ。お父さんとお姉ちゃん、最近どうしちゃったんだろうねぇ。

───さぁ、どうせ研究が煮詰まってるだけなんじゃない?

 月子の部屋の様子にドン引きしていた久志が、今の月子とレイの会話に食いついた。

───レイ、なにか感じないの?

───う~ん……感じなくはないんだけど、原因が見えないっつーか、もうあきらめ系?

 ふたりの会話はそこで止まったまま、後は紙のこすれる音と時々「あ、またはみ出た」というレイの声が聞こえてくるだけだった。

 月子がレイに訊ねた『感じ』とは、いったい何のことなのだ。そして、三浦博士が「あきらめ系」にまで達している研究とはEP(エレメンタリーパワー)のことに違いない。が、どんな問題が発生したというのだ。

「親父、今の会話聞いてた? なんか三浦博士んとこ、トラブっちゃってるみたいだね。え? 次は研究所に潜入させろってか。それはちょっと難しいなぁ。だってあそこセキュリティ万全なんだもん……は ? ってか、それ犯罪じゃんマジやばいって! ちょ………切るなよぉ」

───つきちゃん、あたし今から研究所に行って来る!

 おっと、いきなりの展開だ。

 久志は制服のポケットから煙草を取り出すと火をつけた。高校生が煙草を吸ってはいけないのはわかりきっているが、久志はとっくに二十歳を過ぎているのでノープロブレムである。


「つきちゃん、あたし今から研究所に行って来る!」

「え、え─────っ! ベタは!? ホワイトは!? ゴムかけは!? 〆切明日なのよ! ちょっと───」

 悲壮な月子の声を背に受けて、レイは家を飛び出すとタクシーを捕まえた。料金は研究所に請求してもらうつもりだ。

 レイはどうしても第三者の『感じ』が気になって仕方がなかった。

 与一とタリルよりも深い「絶望」をかかえた人物が誰なのか知りたいと思ったのだ。知ったからと言ってレイに何ができるというわけでもないのだが、その人物に会えばもしかしたら与一とタリルの悩みが解消されるかも知れない。というか、初めて自分の能力が役に立つ時が来たのだとレイは思った。

 研究所に着くと入り口の警備員に三浦与一の娘であることを告げたが新入りの警備員なのか、レイの言うことをみごとにスルーしてIDカードが無いと通すことが出来ないと言う。もうここへ来なくなって久しいレイはIDカードなど持って来ていない。

 考えてみれば、こんな夜更けにどう見ても頭の悪そうな派手メイクのギャルが所長に会わせろと言うのだ。不振感も倍増すること間違いなしだろう。ストップをかける警備員を責めることはできない。

「ちょっと、連絡だけでもしてみてつってんでしょ! あーもう、マジムカつく!」

 レイがダダをこねていると、所内からひとりの研究員が出て来た。

「あ、モッチー ? モッチーでしょ!?」

 いきなりモッチーと呼ばれた研究員は怪訝そうな顔でレイを見ると、頭の中の記憶データ処理に取りかかったようだ。そして、何かにヒットしたのだろう。

「もしかしてレイちゃん!? え、なんかすごい雰囲気変わってるんでわからなかった」

 わからなくて当たり前だ。レイが最後にここへ来たのはギャルになる前のことなのだから。

「ヨッちゃんに会わせて! 確かめたいことがあるの。トラブってることの原因もわかるかもなの!」

「トラブルって、なんでそのこと……わかった。三浦博士に話して来るよ」

 モッチーはそう言うと再び所内に入って行った。お弁当屋さんのメニューを手にしていたところを見ると、どうやら夜食の買い出しに行くところだったらしい。

 レイは警備員にズイと顔を近づけると、ドヤ顔で鼻の穴をふくらませた。


          ◆ ◆ ◆

  

 祈る気持ちで心肺蘇生を受ける兄の姿を見ながら、タリルは十二年前に自分が「タリー」から「タリル」という名前になった日を思い出していた。 

 タリーが施設へあずけられたのは両親が亡くなった五歳の時、院長先生や他の先生や寮母さん、そしてお友達がたくさんいたので施設で寂しいと思ったことは一度も無かった。

 ただ、鉄二という小学五年生の男の子だけがタリーをターゲットにいたずらやイジメを繰り返しては先生たちに叱られていた。五年生にしては大柄な鉄二の姿を見ると体がこわばり、逃げなくてはと思うのだが足が地面に貼り付いたように動かなくなるのだった。

 その日もタリーが花壇の花に水やりをしていると、後ろからそっと近づいて来た鉄二がバケツに入れた何十匹ものカエルをタリーの頭上へぶちまけた。最初、何が降ってきたのかわからなかったタリーだが、それがカエルだとわかったとたん失禁し気を失ってしまったのだ。

 医務室のベッドで目覚めると、院長先生が心配そうな顔でタリーを見ていた。

「大丈夫? 怖かったよねぇ」

 院長先生はちゃんと鉄二を叱ってくれたのだろうか。今度こそこっぴどく言ってもらわないとタリーの気が済まない。何しろカエルのシャワーを頭から浴びたのだから。

「院長先生、鉄二くんをちゃんと怒ってくれた?」

「鉄二なら病院に行っているわ」

 え ? なぜ病院へ? むしろ病院に連れて行ってほしかったのは自分の方だ。

 次の日、頭や腕に包帯を巻いて孤児院に戻ってきた鉄二はそれ以来、二度とタリーにいたずらをすることはなかった。それどころか、タリーを見ると逃げるようになり近づくことさえしなくなった。


 タリーが小学校へ上がった次の年、鉄二は養子縁組が決まり孤児院を出て行った。それ以来、鉄二とは会っていないが養父母に手をつながれ、嬉しそうにスキップする鉄二の後ろ姿が忘れられなかった。

 自分のお父さんとお母さんは、なぜ死んでしまったのだろう。新しいお父さんとお母さんができたら、どんな気分なのだろう。鉄二のように嬉しくて仕方ないのかなぁ。スキップしちゃうのかなぁ。

 そして、タリーが小学校三年生の時に、彼女を養女に迎えたいという養父母が現れた。

 会ってみると優しくて笑顔が素敵な二人をすぐに好きになった。二人からもらっていちばん嬉しかったプレゼントは本物のお菓子を作ることができるパティスリートイだ。あと、自分でデザインしたアクセサリーが作れるキットにも夢中になった。だからいよいよ施設を離れる時、自作のヘアアクセサリーを選ぶのに苦労したのを覚えている。

 養父母の家へ向かう車の中では、これから始まる新しい生活についていろいろな話をした。養母は庭に花壇を作って、きれいな花をたくさん咲かせましょうねと言った。

 犬を飼う話もしたと思うのだが、けっきょく飼うことになったのかどうかはよく覚えていない。 

 やっと着いた二人の家は、病院みたいな建物だというのがタリーの第一印象だったが口には出さなかった。中に入ると患者の姿が無いというだけの長い廊下は、やっぱり病院みたいに見えた。

 院長室のような部屋では養父と二人きりでアニメのDVDを見たり絵本を読んだり時々話しもしたが、なぜ自分がこの部屋にずっといなくてはならないのか聞いてはいけないような気がして黙っていた。すると養父が、いい子にしているご褒美だと言って女の子の間で人気の人形をプレゼントしてくれたのだ。思ってもいなかった贈り物だったので、嬉しさのあまり誰かが部屋へ入って来たことに気づかなかったくらいだ。

 その後は、よく覚えていない。

 タリーの前には初めて会う知らないおじさんがいて、今日から自分の父親になると言った。

 では、今までいた養父母はいったい誰だったのか。タリーは、わけがわからなくなってしまった。泣きたい気持ちなのになぜかたくさん泣いてしまった後のように涙は出てこないし、それより何か大きなものを失ってしまった感がタリーの心にぽっかりと穴を開けていたのだ。


~ つづく ~


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