白銀の騎士(1)
体の側面に痛みを感じて、クローディアは目を覚ます。だが辺りは暗く、何も見えずにガタガタと細かな硬い振動が全身を打つ。
(寒い……)
起き上がろうと手足を動かそうとするが叶わない。じゃら、と高く耳障りな金属音が鳴るだけだった。首を擡げようとするも同様だ。重く、少しの力では自分の体を動かすことも出来ない。
目が覚めてから少し経ち暗闇に慣れてきた。横たわったまま目だけを腕に向ける。すると、両手首を覆う形状の鉄製の枷がはめられてるのが見えた。幸い、腕をなんとか片方ずつ動かせるが、どこからか伸びる鎖に繋がれている。恐らく首にも同じものが取り付けられているのだろう。
頭を僅かに動かして、今度はその先を見る。同じ枷をはめられた二本の細い足があった。枷のせいもあるが、いつもより体が重い。今までは、海の中で軽やかに、速く泳げたのに。
(これが、人間の体……)
「目が覚めたのか」
すぐ傍でしわがれた小さな声がする。クローディアが呻きながらなんとか頭を上げようとすると、ほんの少しだけ体が軽くなった気がした。声の主が手を貸してくれたらしい。彼女の目は完全に、闇の中でも機能するようになっていた。
声をかけてきたのは、老いた男だった。ぼろぼろの服を着ており、袖から伸びる腕や足は痩せこけ、あらゆる皮膚には酷い皺が見える。明らかに栄養が足りていない証拠だ。
「あんたちっとも動かないもんだから、てっきり死んでるんだと思ったよ」
「おじいさん、ここは何なの?」
クローディアも老人に合わせて小声になる。何故そうしなければならないかは、わかっていない。その質問に老人は目を丸くした。
「要らなくなった人間を売るために運んでいく馬車だよ。お嬢さん知らないでここにいるのか」
「僕は何も知らないんだ。要らなくなった人間を、売るの? 人を?」
どうしてそんなことするの、とクローディアは訊ねながら悲しくなった。目の前の老人が、諦めた目をして笑っていたからだ。その表情のままに、彼は答えた。
「奴隷ってやつにされるのさ。人間が人間を買って働かせるんだよ。もっとも、わたしたちはもう人として扱われることはないだろうけどねえ。ほら周りにもいるだろう」
そう言われて後ろを振り返ると、壁にもたれていたり、あるいは先程のクローディアと同じように床に転がっている黒い影がいくつも確認出来た。それらはみな、人間だった。
クローディアや老人と同様に手足と首に鎖に繋がれた鉄枷をつけられている。意識はあっても微動だにせず、声も発さない者がほとんどだったために今まで気づかなかった。クローディアはさらに、表情を歪める。
「こんなっ……こんな酷いこと」
「本当に何も知らなかったんだねえ。可哀想に。よく見れば綺麗な顔をしてるじゃないか。確かに酷い話だが、どこにだって裏でこういうことをする奴がいるものだ」
老人は鉄の重みで震える手で、クローディアの頭を優しく撫でた。人魚の国には、奴隷なんていなかった。でも、この人の言う通りなら……自分が知らなかっただけで、あの国でも起きていることなのだろうか。
(お父様は知ってたのかな)
「何を話してる、ゴミクズ共。静かにしろ」
壁を一つ隔てた向こうから、乱暴な男の声が飛んでくる。クローディアと老人に対しての怒声であることは間違いない。そのあとに、違う誰かと話す楽しげな声も聞こえてくる。クローディアは腹立てた。こいつらか、こんな酷いことをしているのは。
クローディアは壁に体重をかけながらゆっくりと立ち上がり、声のした方を鋭く睨みつける。
「お嬢さん、何をする気だ」
老人の言葉に、それまでぴくりとも動かなかった奴隷たちがクローディアに目を向けた。クローディアは老人の怯えた声を聞き入れることなく、息を吸い込んだ。
「今すぐ、今すぐこの人たちを解放しろ! ポンコツ野郎!」
瞬間、辺りがざわめいた。老人は大きく見開いた瞳を揺らして、言葉なく動揺している。クローディアは、物凄く怒っていた。生きてきた中で、こんなに声を張って叫んだのは何年ぶりだろうか。
老人は悲しそうなのに笑っていたのだ。でもこいつらは、自分たちを人とすら思っていないという。そんなことは間違っている。許せなかった。叫んだところで怒りはおさまらない。
未だ深紅の目を鋭くするクローディアの首筋に違和感が生じる。ぴしっと小さな痛みがはしる。が、それに気づいたときはもう遅い。指を鳴らす音が響く。
「……ああ、ぁあうううぅっ!!」
クローディアの全身を、痺れを伴う激痛が襲う。肌からは僅かに電気がぱちりと跳ねていた。あらゆる筋肉が硬直したような感覚を覚え、痙攣し始める。そんな彼女を見るに耐えかねた老人が、悲痛に声をあげた。
「やめてくれ! この通り謝るから、その子を許してやってくれ!!」
すると途端に、クローディアに苦痛を与えていた魔法が解かれた。クローディアは人形のごとく、力なくその場に崩れ落ちた。意識はあるようだが、目は虚ろで弱々しい。
「お嬢さん…お嬢さん!」
「う……ぁっ」
痺れが残っているのか、声を発するのもままならない。
「老いぼれの情けに感謝しろ。お前はいーい値段で売れてもらわなきゃ困るからな」
(くそ、くそっ……僕だって魔法が使えたらあんな奴ら)
『あんたにゃ才能がなかったのさ。その代わり、誰にも負けない知識を持ってる。魔法がなくたって偉大にはなれる』
親友だった魔女の姿が脳裏に浮かんだ。彼女は本当にすごい魔女だった。もしたしたら彼女こそ"偉大"という言葉が相応しい人なのかも知れない。けれど自分は力もなければ魔力もない。知識なんてもの、
「持っていたって無駄じゃないか……」
「あんた……」
クローディアは倒れたまま身をかがめて、泣いていた。こんなに無力だなんて、知らなかった。王女だったから、安全なところにいたから、それを知る機会すらなかったんだと。ただただ悔しくて、色んなものに腹が立った。老人は目の前で泣きじゃくる少女を、見つめていることしか出来なかった。
そんなときだった。
馬車が急停止する。何人もの奴隷たちが、後方の壁へ激突していく。クローディアも体勢を崩した老人を受け止めて、転がる。馬車が森の中で完全に動かなくなってからは、妙な静けさが残った。
「なんだろう。おじいさん、様子が変だよ」
老人はふむと考え込んでしまった。彼にも理由はわからないらしい。すると、馬車の向こうから声が聞こえてくる。
「呼び止めてすまない。近頃、この辺で奴隷を乗せていると思われる車がよく目撃されているんだ。悪いがお前たちの荷も調べさせてもらうぞ」
落ち着いた男の声。その主は、黒ずくめの制服に身を包む少年だった。