引きこもり人魚姫(2)
片付けをセイディに任せ書庫の方へ泳いでいくクローディアは鼻歌を歌って機嫌が良いようだ。一人残されたセイディは険しい顔つきになり、黙々とカップを片付け始める。
そろそろか。
「セイディ」
わざと背を向けた方から腹の底から響くような低い声。
「おや、ご無沙汰ではありませんか……国王陛下」
振り向きざまに口角を上げるセイディを腕を組んで見下ろすのは他でもなく、人魚の王トリトンだった。すると彼もにやりと笑みを返し、
「下手な物言いはよせ。平生通りで良い」
「その平生が、もう何年も前のことでねえ」
「戯言を」
皮肉を混ぜる魔女にトリトンは鼻を鳴らす。普通ならば怯んでもおかしくはない程のトリトンの威圧。しかも今日は何やらご立腹のようだ。
しかしセイディは面白いと言わんばかりに笑みを崩さない。彼が何故怒っているのか、何故わざわざ訪ねてきたのか。察しはつく。というより、たった一つしか心当たりはない。
「クローディアはどこにいる」
「クローディア様……さあ、知らないねえ」
「わたしにそのような見え透いた虚言が通ずると思うか」
やはりこの男には叶わない。力の差ではない、圧倒的な人格。観念したように首を振るセイディ。
「あの子は書庫だよ。今頃、わたしの本に読み耽っているだろうさ」
「そうか。お前はそれを黙認していると」
「若い娘の自由を奪う権利は、この老婆にはありゃしないよ」
途端、一瞬間でトリトンの目つきが変わった。それまでは、セイディという友人に近い存在に問いただすだけだった。しかし今、国王の厳然たる眼で捉えられたセイディは不意をつかれ思わず息を呑む。
「奴は第六王女、王家の者であるのだ。毎日城を抜け出し魔女の住処へ通うとは何たることか。それを許すお前もだセイディ。わたしに忠誠を誓うのであれば、お前の行動は断じて許されることではないぞ」
決して自身の位を傲るのではなく、自身が何たるかをしかと理解した上でトリトンは王としてセイディに厳しい言葉を投げかけるのだ。
「大方、わたしが来るのを予測して奴を此処から逃がしたのだろう」
「そこまでバレてたのかい」
流石に少し見くびっていたのかも知れないと思いつつ、セイディは冷静だった。はなから彼を出し抜けるなどとは思っていないし、そのつもりもない。信用されている手前、下手なことをしようとは毛頭思っていない。
その前に、王に逆らえば反逆と見なされる。そしてセイディが聡明であることは誰よりトリトンがよく知っていた。
「お前はどちらに味方するのだ」
「その質問をわたしにするのは酷というもんさ」
やれやれと首を振る彼女に、はなから答える意思がないことを悟ったトリトンは目を閉じる。この者は一筋縄ではいかないか。
むしろそれが彼女を信用するにあたり最も重要視していることでもある。冷静に相手を見据えて、それでいて心の奥ではふつふつと沸き上がる何かを持つ。確かに皆が言うように不気味ではある。しかし親しい間柄となれば、セイディ程頼もしい人物はいないのだ。
「誕生日を迎えてもうどれだけの日が過ぎた? クローディアは人間の世界を目にすることを許された、またそれが掟なのだ。だが奴はその意思すらない。王家の責務にも一切の手をつけておらんのだぞ」
「困ったお姫様だねえ」
まるで他人事を聞かされているような口ぶりだ。これも駄目かとトリトンが次に投げかける言葉を思案し始めた直後のこと。
「わたしと話をするより、直接書庫へ行って引きずり出すって手は考えなかったのかい?」
何を言い出すのかと思えば。
「無論」
考えてなどいなかった。いや、考える意味などないと言った方が正しい。自らが力ずくで連れ戻すことなど造作もない。それなのに方法を取らないのは、無駄であることが明白だからだ。
一度引き戻したところで、クローディアは反抗しすぐにまた城を抜けて此処に来る。セイディもそれを咎めることはないだろう。だからセイディにクローディアを説得させる。これがトリトンが理想とすることだった。
ふと、はっとして魔女の目を見ると、それに気づいた彼女がまたにやりと笑った。セイディが、このトリトンの考えを見抜けないはずがない。しかし自分と言い合うより力ずくの方が早いと伝えてきた。
彼女はさっきこう言ったのだ。
”わたしを言いくるめようとしても無駄だ”と。
「魔女め」
「褒め言葉をわかってるじゃないか」
セイディは高らかに笑い気が済むと、
「クローディアにはわたしがよく言って聞かせておくさ。すぐに帰らせるから、あんたも帰りな」
「二言はあるまい」
「ああ、もちろん」
相手がセイディでなければ、トリトンもこんな軽々しい口約束を信用することもない。
彼女だから。了承はしたもののやはり気がかりな様子で書庫の扉を見ていたが、やがてトリトンは去っていった。
彼の段々と小さくなるのを見送ってから、セイディは書庫の扉を開いた。ところが中には明かりがない。
「クローディア、どこだい」
「セイディ……あなた一人なの?」
恐る恐るそう確認する声がどこからか聞こえてくる。セイディがそうだと答えると、ゆっくりと闇に染まった部屋の中からクローディアが出てきた。
肩を小刻みに震わすのを見る限り、トリトンが来たのを知っているのだろう。
「防音魔法をかけておいたんだけどねえ」
「父さんの声がビリビリ響いてくるんだ。恐ろしかった」
生半可な魔法では効かないということか。トリトンも王というだけありかなりの実力者だ。自分を連れ戻しに来たであろう父。その気配は、離れていても強烈に伝わってきたのだ。
「セイディ、もう少しここにいてもいい?」
「わたしは構わない。けれど今日はもうお帰り。トリトンが困ってしまう」
「……わかった」
せめて城の近くまで送って行こうと、顔を隠すための黒いローブを纏う。自分が王女と共に城の近くを彷徨いていれば、人々になんと思われるか。自分は構わないがクローディアにまで迷惑をかけるわけにはいかないのだ。
項垂れるクローディアを誘導しながら、セイディは先に暗い海へ出る。家のすぐ近くには深い海溝があり、上から見下ろすだけで身震いをしそうだ。底知れぬその溝を降りていこうとする者はまずいない。振り返ると、クローディアがゆらりと隣に来ていた。
「寂しくなればまたおいで。ただ、あんたは自分のやるべきこともしっかり見据えるんだ」
「うん……」
しょんぼりしているが、大好きなセイディの言葉を受け止めようとしている。セイディならば間違ったことを言うとも思えない。だからきっとこれも正しいことなんだ。
差し出された手に自らの手を重ね、二人は光の方へ泳いでいった。
▼
「何時戻った」
「たった今……です」
「何処にいた」
「ご存知なのでしょう」
城へ戻ったクローディアは、待ち構えていたかのように自室の前にいたトリトンと対峙した。セイディの家で感じたものよりはかなり抑えられているようだが、それでも尚父の威圧に圧倒され返答するのが精一杯だ。
「何処にいたと訊いた」
ひっと思わず声を漏らす。肩が震え出す。ほんの一瞬の凄みですらクローディアは過敏に恐怖した。目に浮かぶ涙が溢れそうなのを堪え、セイディの家だと答えた。トリトンはそれを聞くと、そうかと独り言のように呟いてからクローディアに背を向けた。
彼女が我に帰ったのは、父の姿が見えなくなってからだった。あれだけの会話で満足したのだろうか。それとも他の意図があるのか。
どちらにせよ、彼女にそんなことを思案する余裕はない。激しく波を打つ心臓を落ち着けるのが先だ。震える手をもう片方の手で支えながら、そのまま自室のドアノブに手を掛けた。上手く力の入らない鰭をゆらゆらと泳がせてベッドに辿り着くなり倒れ込む。脱力感。久しぶりの感覚だ。無論感じて嬉々となるものでは決してない。極力避けてきたものだ。トリトンの怒りに触れれば、たちまち彼の威厳に触れればたちまち寿命が縮むような心持ちになる。クローディアは身を小さくして己の身体をぎゅっと抱いた。先程の感覚に再び襲われそうだった。
どれくらい時間が経ったか。いつの間にか眠ってしまっていたのだと彼女に知らせたのは、ドアをノックする音だった。たったそれだけのことが、重い体をベッドに預けているクローディアには苛立たしい。
更にクローディアを苛立たせるのは、その扉を叩いてくる者だった。
「ディア……いるの?」
ディア、クローディアのことをそう呼ぶのは、彼女の姉たちだった。その内の一人だろう。
裏で何だかんだと陰口を叩くくせに、表立っては馴れ馴れしい呼び方をする。両の顔を知るクローディアにとって彼女たちは滑稽だった。なんとくだらない人たちなのだろう。クローディアは彼女たちを見て愉快だと思うことはなかった。自分を目の敵にし続ける。しかしトリトンや国民の目を気にして猫撫で声で接してくる。自分もそれに愛想笑いで応えるしかない。
とっくに嫌気は差しているが、関係上突き放してしまうわけにもいかなかった。結局、自分も彼女たちと同じなのか。
「入るわね」
小さな音がして、ディアと再び自分を呼ぶ声。扉の向こうで聞こえたものより少し鮮明になったように思える。
「お姉様……このような体勢でごめんなさい」
「いえ、いいのよ。楽にしていて」
ベッドの傍へ寄って来てクローディアの髪を撫でる。いつも心配しているのよと目で語りかけてくるが、もちろんそれを信じる価値はない。
「お父様ったら、少しはディアの気持ちを考えていらっしゃるのかしら」
(僕の前では父さんの嫌味、か。余程ストレスが溜まってるんだな)
だからと言って同情の余地はないのだが。常に目の前にいる者に同情を求めるように目を潤ませる。
「あ、そうだディア」
「はい」
「あなたまだ海の上へ行っていないのでしょう?」
「……はい」
その先の言葉は容易に察せられた。
「わたしが一緒に行ってあげる。大丈夫よ、一人でなければ怖くないもの」
「いえ、結構ですお姉様」
まったく予想した通りの内容に、少し棘のある返答をする。面をくらって顔をしかめる姉はそれでも食い下がる。
「で、でもやっぱり不安でしょう? それなら……」
「本当に大丈夫ですから。ご心配をお掛けしてごめんなさい」
一歩たりとも譲ってやるものか。彼女が心からクローディアを気に掛けるはずがない。魂胆は丸見えだった。言う事を聞かない馬鹿な妹を説得し、信用させ、不安であるだろうからと自ら付き添って人間の世界へ連れていく。全て、トリトンから評価を得るためだ。彼女の価値を上げるための駒にされるなど御免だった。
「ディア、どうしてしまったの。昔のあなたはこんなではなかったのに。ああ──」
嘆く所作で続けられた言葉にクローディアは目を見開く。
「──全部あの魔女のせいなのね」
「え」
「やっぱりあの魔女は危険なんだわディア。あんな気持ちの悪い老いぼれと関わっては駄目よ……っ!?」
クローディアの行動は俊敏だった。気怠いはずの身体を起こし、呑気にべらべらと語りかけてくる姉に飛びついて位置を逆転させる。押し倒し首をギリギリと締めれば、相手は動転し、驚愕と焦燥で目を白黒させる。睨みつける深い緋の眼。
「か、はっ……」
「知らないくせに」
「離してっ……」
「何も知らないお前が……セイディを悪く言うなっ!!」
ぐしゃぐしゃになったクローディアの顔は怒りと悔しさ、悲しさも混ざり合う。その直後には唇を噛む。怒鳴られ呆気にとられた姉は即座に我に返ると、クローディアの体を力一杯押し退ける。怯む妹を振り返ることもなく、一目散に扉の方へ逃げていく。勢いよくそれが閉められたあとの部屋にはクローディアの荒い呼吸の音だけが残った。