引きこもり人魚姫(1)
宴の夜から数日経ったある日。
「お前たち、クローディアはどこにいる」
大きな音を立てて開いたドアの前には、眉間に皺を寄せるトリトン。表情だけを見れば少し険しいくらいにしか思われないが、内にあるのがそれ以上の怒りであるということは彼の放つ威圧の通りだ。
「存じませんわ、お父様」
「今朝はまだ姿を見ていないわ」
答えたのはトリトンの娘たち。クローディアの五人の姉である。彼女たちの口調は淡々として、それどころか、またかと言いたげなため息まで聞こえる。現にトリトンの方を一瞥するも、鏡の前で化粧をする手を止めようともしない。その理由はもう彼らにとって再確認するまでもなかった。
「また引きこもっているのでしょう、あの子は」
姉の一人がぽつりと呟くと、他の姉も口々にそうよねと続く。薄々そうだろうと思っていたトリトンも今度は歯をぎりっと鳴らして、しかしすぐ冷静を取り戻して、そうかと背を向けながら言うと部屋を去っていった。
「相当お怒りね」
「あの子が悪いのよ。少し顔がいいからとちやほやされていい気になるものだから」
「お父様の言いつけも聞きやしないのよ」
「一五になって正式に王家の一員として認められたっていっても、本人があれじゃあね」
口を揃えて嫌味を吐き出し、まったくだわとそれに同意し合う。それが彼女たちのストレスの発散法であった。
▼
広く暗い部屋にぽつりと小さく灯る明かり。全くの無音の空間に、時折響くそれは紙の音。そうかと思えば突然、軋む音と共に光が差し込んでくる。
「今日も来ていたのかい」
「この場所が一番好きなんだ」
扉を開けて覗く老婆に答える少女。肩の辺りまで伸びた艶やかな金の髪が水に揺られる。外から入る光に部屋の中が照らされると、壁中にびっしりと並べられた無数の本が顕になる。少女はその真ん中に浮かび1冊の本を手にとっていた。
「クローディア、またトリトンにしかられるよ」
「しかられるのなんて何でもないさ。でも城へ戻ったって僕の味方はいないもの。姉たちも、父さんも」
「まったく、仕方のない子だ」
苦笑して言う老婆に、クローディアは近づく。
「そんなこと言わないでよセイディ。あなたは僕のたった一人の友達なんだから」
寂しそうに眉を下げて老婆──セイディを見つめる目は真紅。
しかしセイディも本当に呆れているわけではなく、まるで孫を可愛がるように笑いながら頭を撫でてやる。
「さあ、お茶を淹れてやろうかね。本を読むのはそれからでもいいだろう」
「うん!」
やはりこういう所はまだ子どもらしいなと感じるセイディ。一五歳になり本格的に王家の一員として認められたと言えど、あどけなく笑うその少女は街にいる子と何ら変わりない。
「クローディアも一五になったんだねえ」
「どうしたの、改まって」
「子どもの成長を見るのはいいものさ」
クローディアはなんだか気恥ずかしくなって目線を逸らす。尚嬉しそうなセイディに早く行くよう催促して背中を押していく。
「おやおや、年寄りをいじめるもんじゃないよ」
「セイディ!」
からかわれて頬を膨らませるクローディアに、老いて細くなった目をさらに細めて穏やかな顔つきになる。毎日のように自分の家に来る彼女と過ごす時間が、セイディは好きだった。
しかしまた、王女である彼女が城を抜け出してくることが心配でもあった。
「来てくれるのは嬉しい。けれど、あまりお父さんを困らせてはいけないよ」
途端に黙って、背中を押していた手も離す。一変して不愉快そうな顔をするクローディアに、一息置いてからおいでと肩を抱いて行く。
「マフィンもあるんだ。食べておいき」
「……うん」
今度はバツが悪そうに返事をした。
▼
「わたしも見たかったさ、あんたの晴れ姿」
「来てくれればよかったのに。僕もその方が嬉しかったし。父さんに招待はされてたんでしょ?」
「招待はされたが、何しろわたしは暗闇に住む魔女だからね。王国のイメージを悪くしちまう」
自重気味に言うが、笑い飛ばすのを見る限り本人はあまり気にしていないようだ。いや、気にしているならばこんな所には住んでいないだろうか。
街の外れ、明かりもほとんどない闇にぽつんと小さく灯る岩陰。そこが海の魔女セイディの住処だった。
奇妙な魔法や呪いをかけられると噂され、国民やクローディアの姉たちからは忌み嫌われているのだが、クローディアともう一人、トリトンからは厚い信頼を受けている。クローディアが彼女と仲良くなったのは、数年前にトリトンが城に連れてきて引き会わせたのがきっかけだった。
「うーん、セイディほど優れた魔女はこの国にはいないと思うんだけどなあ」
「優れた魔女ってのは、気味が悪いものさ」
右手にカップ、左手にマフィンを持ちながら不満そうに口を尖らせる。セイディは自分の話をするときはいつも卑下する。クローディアの言う通り、彼女の実力はトリトンですら及ばない程であるのだが、彼女は王家の信用を考慮して自分をあまり良く言わない。セイディのことが好きなクローディアにとっては、それがどうしても気に入らないのだ。
「セイディは何も悪いことしてないのに」
「あんたとトリトンがいるからね、それで十分だよ」
まだ十代半ばのクローディアに、これ以上セイディに返す言葉は思いつかなかった。納得のいかぬままマフィンと紅茶を交互に口につける。
「今日は何の本を読んでいたんだい?」
「人間の書いた小説さ。どうも彼らは戦争と色恋の話が好きらしい」
クローディアはセイディの家に来ると必ず書庫へ行く。物語や専門書まで、何年も通い続けた結果、彼女の知識は膨大なものとなっている。人間の世界に関する大抵のことも当然のように知っているのだ。
本で読んだことの話に目を輝かせるクローディアは、ついさっきの不機嫌など忘れたかのようだった。上手く話を反らせたと安堵するセイディ。
「それにしてもセイディは色んな本を持っているんだね。それも数え切れない程沢山! 全部読むのに何年かかるのかな」
「いつでも遊びに来るといい。書庫の鍵は開けてあるからね」
「ありがとう」
飛び跳ねんばかりに身体を揺さぶって喜ぶ様子は、なんとも滑稽でそれでいて可愛らしいと思わせる。
クローディアは六人の王女の中でも特に容姿に優れていた。故に国民からも人気があるのだが、本人は人前に出ることを嫌って、城あるいはセイディの書庫に籠っていることが多いのだ。
そんな彼女は姉たちから反感を買い、陰口を叩かれていることもとっくにわかっている。嫌味を言う姉、あれやこれやと口煩いトリトン。そして城の書庫にある本も既に読み尽くしてしまった。城にいたところで退屈でしかないのだ。
「食べ終わったらまた書庫へ行くんだろう?」
「ん? うん」
「また読んだ感想でも聞かせに来ておくれ」
「もちろん! じゃあ」
セイディの眉が一瞬ぴくりと動いたのにクローディアは気づかなかった。