敵の想定外
ガラスの割れる音を、私は思い出していた。可愛いあの子の冷たい笑顔も、そして、もっと違う顔も。
赤塚、誘拐された後のこと、ダンスのレッスンのこと、下町、時系列などは不親切にもばらばらで、どう繋ぎ合わせてよいものかわからない。
脳裡に次々に記憶の断片が押し寄せてきて、今起こっていることの方を私は把握できなくなっていた。
「……ずね、……鈴音」
押し殺した様な声に漸くはっとすれば、ルイさんがこちらを見つめていた。
「……ルイさ、血が……」
左の頭から流れてくる血が、ルイさんの左目を汚し、頬を伝ってポタポタと落ちている。思わず拭おうと手を伸ばすと、触れる前に手を掴まれた。
「汚れる。……大丈夫だから」
そして私の手に何かを握らせる。
「万が一の為に持っていて」
見れば小さなナイフだった。刃の鋭さに落としそうになるが力を込めて握った。
ルイさんの背後に、何人もの影が見えた次の瞬間、ルイさんは振り返り様に何かを投げながら私を背にして立ち上がる。
数人分の呻き声や悲鳴が上がり、ぱっと、壁に血が飛んだ。
窓が割られた後、窓際であったベッドの上から一番安全そうな部屋の一角に、ルイさんが私を運んでくれていたらしいことを初めて認識した。座り込む私を庇うように立つ、ルイさん。その周りを取り囲んでいる、黒く武装をした集団。十数人はいるだろうか。決して狭くはない部屋が、ぎゅうぎゅう詰めになっている。
それでもルイさんから最も近くにいた数人が負傷したことで、警戒するように数歩分の距離が空けられていた。
沈黙を破ったのは、廊下からの足音だ。
「どうしました!?……っ」
窓の割れる騒音で流石に気が付いたのだろう、坂下さんが部屋の扉を開け、息を飲む。一番近くにいた男が躊躇いなくナイフを振り上げたのが見え、思わず悲鳴を上げる。
「危ないっ……」
しかし、坂下さんは流れるような動作でナイフを持つ手を掴み、どうしてそうなるのかわからなかったが、とにかく男を、ひっくり返した。驚きの声をあげる男はそのまま扉の外へ放り出される。
「……何ですかこれは」
眉をひそめながら、坂下さんは眼鏡のつるを押し上げる。
「それは後からゆっくり聞こうと思ってる」
ルイさんは特に驚いた様子もなく答えた。
「わかりました」
坂下さんが答えながら、一番近くの男の手を捻りあげ、ナイフを奪う。あまりの滑らかさに丸くなった男の目が一瞬見えたが、すぐに腹に拳を埋め込まれ崩れ落ちる。
それを皮切りに、ルイさんと坂下さんそれぞれに、男達が襲いかかった。