貴族という家
「あのぅ、母様?」
「何かしら?鈴音?」
第一印象は、申し訳ないことに、物凄く動きにくそう、というくらい豪華なパーティードレスを目の前に、思わずたじたじとなった私は、そのドレスにさらにレースを足そうとしている、鼻唄を歌わんばかりに上機嫌な母に尋ねた。
「あの、これは、だ、誰が着るんですか?」
「いやね、鈴音が着るに決まっているじゃないの。16歳のお祝いのダンスパーティーで」
飛んでくるハートが本当に見えそうなくらい、輝いた上気した笑顔で、頬をつん、と突かれる。
母の愛情表現は激しい。
「……えぇと、ダンスのレッスンの事で話があると聞いたんですが」
「そう、そうなのよ、鈴音。貴女、最近レッスンにはちゃんと行っているの?」
「……ええと」
サボっている、などとは言えない。
目を泳がせていると、急に母は両手で私の頬を撫でる。
「もしかして具合が悪いの?」
今にも泣きださんばかりの表情だ。
「げ、元気、元気ですよ、母様っ」
「そう?本当に?」
ゆっくりと手を離す母様に私は何回も頷く。
「赤塚から聞いたの、最近貴女レッスンに出ていないって」
余計なことを。心の中で毒づいた。
「鈴音、ママはね、鈴音に幸せになってほしいの」
母が私の両手をとってぎゅっと握りしめる。
「ママもね、16の時は大変だったわ。でもね、ここは頑張らないと……」
よく似ていると言われる、私と同じ淡いブルーの瞳が、うるうるにじんでいく。
「お嫁さんにいけなくなってしまうのよ…!」
母は嘆くと、うぅっ!と可憐な仕草で顔を隠して泣き始めてしまった。
お嫁にいけないという事が、私にとっても、この揚羽という家にとっても、どういうことになるのかはよく知っている。だからそれを言われると痛い。
そもそも初めからそうだった。
私は、数カ月前の話を苦々しく思い出していた。
「何故舞踏会に出なければならないか、とおっしゃいましたか?」
我が揚羽家の執事にして、その家の末娘二人の、つまり私と茜の教育係である赤塚は、28歳で、まだ若い。上から二番目の兄のアカデミー時代の友人で、その縁でもあるのだが、赤塚の歳で執事という仕事につける人は滅多にいないらしい。
つまり、それだけ優秀だということ。しかしその分、腹の中では何を企んでいるのか得体が知れないと、私は思う。
私の質問に赤塚は本棚に伸ばした手を止め、私を振り返った。黒いスーツを着た背の高い赤塚が私を見ると、当然見下ろされる形になる。無礼な意図を決して感じさせないのは、執事としての所作が完璧に出来ているからだと、教えてもらったことがある。
赤い瞳がじっとこちらを見つめてきて、思わず目を反らす。正直私はこの瞳に見つめられるのが苦手だ。目を反らした先に、赤塚の細いリボンで軽く束ねられた黒髪の毛先がある。ちょうど私の目線の高さの長さまである。
「鈴音様?」
赤塚の声に、慌てて視線を上げる。視線をあからさまに反らすのはマナー違反だと厳しくしつけてきたのは赤塚だ。赤い目に、私の姿が映る。
「16歳になって成人したからって、どうしてわざわざ舞踏会に出なければならないんですか」
私が質問を改めると、赤塚はあからさまにため息をついた。
「そのお話は、前にも致しましたが」
「え、嘘っ、……じゃなくて、そうでしたか?」
記憶になかった。
「まぁ記憶に無いのも当然でしょう。鈴音様は私が話をしている最中に眠ってしまわれましたから」
「う……」
赤塚の話の最中に寝てしまった記憶なら多大にあった。
「わ、ワンモアプリーズ……」
「庶民のいい加減な世俗語を使ってはなりません」
「もう一度そのお話を聞かせてくださいませんか」
棒読みになってしまい、さすがに失礼かも、と少し反省する。それでも赤塚は、よしとしたのか、しっかりと私に向き直って話してくれた。
「よろしいですか。まず、成人した、ということは、れっきとした紳士淑女になったということです。大人の仲間入りをしたのと同意です。わかりますね?」
極端にレベルが下がったのは、さすがの私でもわかる。馬鹿にしてるのか、という言葉を飲み込んで無言で頷く。答えは聞くまでもなくイエスであろうからだ。
「さて、貴族階級に属する者ならば、必ず必要なのは横の繋がりです。上下関係、取引関係、利害関係、色々な繋がりがあります」
貴族だからと言って、働かずにお金をもらえるわけではない。そんな時代はもはや昔話の世界。
私の家、揚羽家も貴族であるが、服飾の商いをしている。お得意様の貴族もいれば、同じ服飾を商うライバル関係の貴族もいる。
話を促すつもりで、赤塚の言葉に何回も頷くと、先が続けられる。
「その関係を維持したり、牽制したりする場として、毎月の様に何かしら開かれる、舞踏会や鑑賞会、どこどこの貴族の何番目の娘の何歳の誕生日パーティー、等といったものが、その役割を担っているんです」
それは知らなかった。
やたらパーティーをやりたがるのは単に貴族がパーティー好きなのだからだと思っていた。現に私の両親はそういう裏の意図なしに、パーティーが好きだ。
「そして、勿論、その成人舞踏会もその役割は担っています。しかし、更に他のものには無い重要な役割もあるのです。では鈴音様」
「……はい」
やな予感に、返事をするのが遅れた。
「16歳になるということはどういう事だと思われますか」
赤塚が講義をすると、必ずいじわるな質問が挟まれる。それがきたと思った。しかし、これは冒頭に言ってた気がする。流石にちゃんと覚えていると、私はやや胸を張った。
「大人の仲間入りをすることです」
「それではただの私の言葉の反復です」
残念ながら、単純な復習問題ではなかったようだ。
「……わかりません」
面倒臭いので考えるのを放棄した。
「面倒臭いからってそう早く放棄しないでください」
完全に読まれている。
「……赤塚の質問はいつも意地悪なんだもの」
「普通に考えればわかる質問です」
どうせ頭の運動より身体の運動の方が得意だと、心の中でいじける。
私がふて腐れていると、赤塚は仕方ないとばかりに諦めて話を進めた。
「成人をする、つまり、結婚することが許される、ということです」
「そんなことなら知ってます」
「そうでしたか」
さも意外、と大袈裟に装った様に言われた。馬鹿にされている。
知らなかったのではなく、まさかそれが答えだとは思わなかったのだ。わざと分かりにくい質問の仕方をしたのだろうと思い、心の中で赤塚を睨んでみる。
そんな私の内心のことは知るよしもなく、赤塚は続けている。
「成人舞踏会はそのように、結婚を許されたばかりの貴族の御子息、御令嬢が一度に集う、またとない絶好の機会です。つまり」
赤塚は間を置いてゆっくりと次の言葉を続けた。
「生涯の伴侶を見つける為の、です」
「何それっそれじゃあただの合コンっ!!……」
「…………」
しくじった、と急激に激しい冷や汗が押し寄せる。
思わず、"庶民の"言葉が出てしまった。
「…………」
赤塚の有無を言わせぬ視線が突き刺さる。
「……合コンと、しょ、庶民が言うものの様でございますわ、ね……」
必死で取り繕おうとするも、もはや手遅れの私に、赤塚は頭痛を覚えたかのように額に手をあてている。
「一体そのような言葉を何処で覚えてくるのです?」
身分を隠して時々下町に遊びに行っているからです。
友達もたくさんいます。
などと言えば、恐ろしいことになる。
「……前に読んだ本の登場人物が、使ってました」
「そのような本は処分せねばなりませんね」
溜め息をつく赤塚は、射るような視線を外した。とりあえず、危機は脱したのだろうと胸を撫で下ろす。
「あ、そうだ……です。その話は本当なのですか?」
「もちろんです。貴女のご両親もそこで出会いを果たされたのですよ」
「へぇ~」
そんな話は初耳だった。
「ですから、奥様は、貴女もそこで、素晴らしい方に見初められることを願っているのです」
「そう上手くはいかないと思うのですが……」
「確かに、素晴らしい出会いが起こる事は珍しい例とも言えるでしょう」
赤塚は頷き、言葉を続けた。
「しかし、きっかけには十分なのですよ」
「何の?」
どうにも赤塚の言い方が回りくどく、食い気味に尋ねる。
「お見合いの、です」
「え」
身を乗り出して聞いたのはいいが、なんだか話が嫌な雲行きになってきたのを感じ、少し身を引いた。
「この国の女性にとって、結婚は必須ですね」
「……はい」
赤塚の言わんとしていることがわかってきた。
結婚せずにいる女性は、この国には殆どいない。いたとしてもごく僅かで、例外なく、本人もその一族全員が、非難の対象となる。貴族においては、特に、その名自体に傷がつく程のものである。その為、成人した貴族の娘に最初に持ち上がってくるのが、お見合いだ。その家も本人も、早く結婚相手を見つけようと必死になるのだ。
私も、私の家もそうなるのだろうか、と不安がよぎる。
いや、不安ではなく、必ずそれは現実になる。後一年と経たずに成人になるのに、実感が全然わいていない。それこそが、今の私にとって一番の問題かも知れなかった。
「例えば、今まであまり縁のない、ある貴族の家のご子息に、鈴音様とのお見合い話を持ちかけたとしましょう」
赤い目が、意地悪く真っ直ぐこちらを見る。
「お見合い話を受けるか否か決めたいがしかし、その貴族は鈴音様ご自身の事をよく知らないでしょう」
貴族の娘は、成人するまで表に出ない。アカデミーの初等科には通うこともあるが、大体は中等科に上がる前に家庭教師を雇い、普段は屋敷から出なくなる。誕生日パーティで他の貴族を呼ぶのも成人してからであるし、もともと縁のある貴族しか招待されないため、縁がない貴族とは、完全に無縁だ。娘の存在すら、定かでないことも多い。
その為、成人舞踏会が、初めて表に出る場、ということになるのだろう。
「ですから、判断材料はただ一つ、成人舞踏会なのです」
「それに出なかったら、判断材料がない……」
確かに、招待不明の相手となど、完全に家柄のみ目当ての政略婚でないかぎり、見合いなど出来ない。
「というより、成人舞踏会に出ない事自体が、判断材料です。十二分に、評価は低い」
「あらー」
「成人舞踏会は、成人する子息を持たない貴族も沢山出席します。むしろそちらのほうが多い」
「踊らないのに?」
その年に成人する者のみ、踊るものだったはずだが。それを見るだけとはどういうつもりで参加をするのだろうと、考えて、すぐ答えは見つかる。
「あ」
「お分りになられたようですね」
見つけた答えは十中八九正解だと確信して、舞踏会を厭う気持ちが強くなってきた。
「品定めをする為、ですか?」
「よくできました」
赤塚の瞳が意地悪く光る訳がわかった。
「貴族の社会に正式に仲間入りする人間を、評価しにくるのです」
嫌な社会だ、と思う。
そうして、最初の話に繋がることが理解できた。赤塚の話は回りくどいが、辛抱強く聞けば非常に的確な理解と納得をさせてくれる。
「それで、ダンスのレッスンを?」
「その通りです。評価の基準はダンスです。ですが、ダンスそれ自体だけではありません。ダンスの誘い、それを受ける時の所作、物言い、礼儀作法の全てを見られます」
長い講義が終わり、私は溜め息をついた。
そもそも私が赤塚に最初の質問をぶつけたきっかけを思い出す。急に母がダンスのレッスンを受けるように言ってきたのだ。あまり人の話を聞かない癖のあるあの人は、成人お祝いの舞踏会の為よ、とだけ言って、出かけてしまったのだ。それで赤塚に聞いたというわけだが、それでも気にかかることがまだあった。
「でも、舞踏会は一年も先の話でしょう?こんな早くから始めなくたって」
私は、礼儀作法に問題はあるかもしれないが、ダンスは得意だ。
しかし赤塚は、いいえ、と首を振った。
「遅すぎるくらいです。鈴音様は、ダンスは得意ですから、ぎりぎり間に合うといったところでしょう」
ダンス、は、と強調されたことには気づかない振りをした。
「そんなに高度なダンス技術を身につけないといけないの?」
「いいえ。貴女が一年かけてしていただくのは、全てのダンスのステップを覚えることです」
衝撃の答えに、耳から耳へと音だけ通りすぎそうになる。
「……え?……すべ、て……って言った?」
「はい」
「……だ、ダンス、よ?何曲あると思ってるの?」
「細かな違いも分けて考えたらざっと五十でしょうか」
そんな簡単に言わないで欲しい、とすがりそうになる。
「無理っ!無理に決まってますっ!!」
そんなもの、何年かけたって覚えた端から忘れていくに決まっている。
「無理ではありません。ダンスのステップを全て頭に入れるだけの、頭の良さがあるか、採点項目の一つですね。また、難しいステップを敢えて踊ることが、アピールポイントにもなります。まぁ、貴族社会で成功するための登竜門ですね。一年間、頑張ってください」
「ちょ、ちょっと待って、頑張って何とかなるものじゃ……」
まくしたてられ、私はしどろもどろになる。赤塚はそんな私に、顔をずいと近づけて言い放った。
「いいですか、鈴音様」
赤い瞳が、どこまでも意地悪い。
「出来なければ、貴女だけでなく、ご両親も、恥をかくことになるのですよ?」
「う……」
「それにそうですね、兄上様方も、きっと笑われてしまうでしょうね」
「うぅ」
「一番大変なのは茜様かもしれませんね。茜様が成人なされて舞踏会に出席なさる時、それこそ、注目の的……」
「んあぁ、わかった!!わかりました!!頑張りますっ!!」
思わず叫んでしまった。すると赤塚は、にっこり笑った。
「その言葉が聞きたかったのですよ。では、鈴音様の了承も取れたことですし、行きましょうか」
赤塚が、手を差し出す。
「……どこへ?」
私の声が、間が抜けて響く。
「レッスンへ」
さらりという、赤塚。
「今日からぁ!?」
詐欺だ。と思った。
「善は急げです。教師には既に連絡はしてありますから」
「さっ、最初っからそのつもりだったっ……!?」
「まるで私が騙したみたいじゃないですか。始めに質問したのは鈴音様ですよ」
今日連れていくつもりだったのには違いなかろうと、言いたかったが、言えなかった。
私は成す術もなくその日からダンスのレッスンへ直行することになったのだった。
回想を終了して、私は瞳を潤ませている母を前に、何となくこの先の結末がわかったような気がした。
「鈴音が、やる気になってくれるようにって、このドレスも用意したのよ」
これで私を釣るつもりだったらしく、余計に気が重くなる。
けれど容赦なく母の涙攻撃は続く。
「だから鈴音ちゃん、ちゃんとレッスンを受けてほしいの……」
母の涙は強し、と、これほど実感することは中々にない。
「……わかりました……今日からちゃんとレッスンに出ます……」
こうなるのではないかと、薄々思ってはいたのだ。