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生まれたモノのその醜さ





扉を開けると、そこにはしんとした重い静けさがある。広さに人間の数が合っていないのだ。


こんな所に一人、残してしまった。


もっと使用人を手元に残しておくのだったと初めて後悔をした。


自然と階段を上る足が早くなる。坂下から鈴音に宛がった部屋については聞いていた。

真っ直ぐに向かおうとして、不意に猫の鳴き声がして、その方向を振り返る。


小さな足が投げ出されているのが見えて、心臓が止まりそうになる。

「鈴音!!!」


廊下に小さい身体を力無く横たえていた。鳴き声をあげたその白い猫は、鈴音の頭に身体をすり寄せていた。ルイが走り寄ると、白い猫は警戒するように距離をとる。

鈴音を抱え起こすと、その拍子に閉じられた瞼から雫が流れた。


強くなる胸の痛みと動悸を無理矢理落ち着かせ、呼吸が安定し、傷もないことを確認した。穏やかな寝息に近く、ゆっくり大きく上下する小さな肩と胸に安心して、壊さないように緩く抱きしめる。


思わず漏れる安堵の息とは対照的に、世話しなく心臓は鼓動を続ける。


「…………鈴音」


そっと、名前を呼ぶ。

酷く懐かしい想いに駆られた。


それに応えたかのように、閉じる瞼を綺麗に縁取る睫毛が震え、やがて小さな瞬きを繰り返しながら、吸い込まれそうな淡い青が覗く。溜まっていた雫がまた、ぽろぽろと白い頬を滑り落ちた。

ルイを通り越してどこか遠いものを見つめるような瞳が、次第に焦点を取り戻し、きちんと開かれる。

それでもやはり視界はぼやけているようで、ルイを見る目は不安定にさまよっている。


「……ルイ、さん……?」

綺麗な瞳が自分を映して、小さな声が名を呼ぶだけで、何かが胸に満ちるような気がするのは何故だろう。

「大丈夫?」

幾度も繰り返す瞬きに、落ちる雫を拭ってやる。

「……おかえりなさい」

緩く笑うその表情に、胸を掻き乱される。

それでも平然を保てたのは、腕に支えるこの少女の身体があまりにも壊れそうだったからだ。


「……どうして、泣いていたの?」

「…………え……?」

きょとんと丸くした目から、また、一粒。大粒が流れたその感覚で気付いたらしいが、首は傾げたまま。

「……なんで、でしょう……?……ああ。……ふふ、きっと、怖い夢を見たんですね」

「覚えている?」

「いいえ。……私、すぐ忘れちゃうんです。何でもかんでも」

何が可笑しいのか、くすくす笑っている。


そこで漸くしなければならない質問にたどり着いた。


「どうしてこんな所に?」

「あ、そうだ、猫、が」

その猫はと言えば、嬉しそうに鈴音の足に身体を撫で付けている。

「あ、この子です。物音がして、それで気になって……ごめんなさい、部屋から出ちゃいました」

鈴音が猫に手を伸ばすと、猫は自らその掌に額を押し付ける。

「それで?」

「捕まえたんですけど、部屋がわからなくなってしまって、それで……なんかおかしくて、寝ちゃいました」

「……寝た?」

「はい、そう、寝ちゃったんです。……ふふっ、あははっ、変ですよね、なんか、あはははっ」

急に笑いが止まらなくなる鈴音に、困惑する。考えあぐねてそして、ぴんとくる。

こんな風に笑う鈴音を、自分はとうに知っていた。


「お酒、飲んだ?」

ミツバシラの鈴音は、酒は一切飲めない。料理酒ですらも、量が多くなればすぐ酔う。こうして正常に頭が働かせず、眠りこんだかと思えば、意味もなく笑いだしたりする。簡潔に言えば酒癖が悪い。

こちらの世界とで何かしら共通するところがあるから、この場合もそうである可能性は十分ある。朝食に酒が出たとは考えにくくはあったが。

「お酒?えー、飲んでませんよ?……あ、もしかしてこれかなぁ?」

小さなポシェットの中に手を入れ、出したのは、紙に包まれた丸いもの。

ここで、鈴音がまた遥祈の好みを凝縮した格好をしているのに気が付く。ミツバシラの鈴音とは違い、おそらく立場として文句を言えないからであろうが、遥祈の用意する服をこうして大人しく着せられている。悪くない、むしろ良いと、思ってしまうあたり、自分は重症だと思う。

鈴音は満面の笑みで、ルイへ差し出す。

「ルイさんにもあげます。美味しいですよ」

開いてみると、チョコレート菓子だ。口に含むと、たちまち溶け、そして中から香りの強いシロップが滲んでくる。

チョコレートボンボンだ。

「これ、坂下に貰ったの?」

「そうですよー。美味しいでしょう?」

鈴音はご機嫌に笑い、ポシェトから更に1つ取り出し、包み紙を開こうとする。

「待って、食べるのはお預け」

それを制すると、不満そうに声を漏らした。

「食べたいです」

「お酒が入ってるから、駄目」

「美味しいのに」

ねー、と抱きかかえた猫に話し掛け、頬を膨らましている。

「お酒のんじゃ駄目って、言われてない?」

「言われてますけどー」

うふふ、と楽しそうに笑う。

「……誰に?」

「赤塚です」


ぽろりと、鈴音の口から出た名に、全身の血がたぎりそうな感覚に襲われる。

「…………赤塚って?」

声が低くならぬ様、震えぬ様にするのに、こんなに力を要するとは。

ルイの質問に、鈴音はぽかんと口を開け、首を捻る。

「……誰、だろう?」

「何か思い出した?」

喜ばしいはずなのに、この突き落とされたような嫌な感覚はなんだろう。

「…………いいえ。でも、赤塚……」

なんだか懐かしい、と、鈴音は微笑む。


そうやって。

自分の知らない所で、今まで生きてきたのか。

どんな環境で育ってきて、どんな生活を送って。


誰の。


誰の傍で笑っていたのだろう。


考えるだけで、


狂ってしまいそうだ。




ああ、と、"ルイ"は悟る。


いつの間にかこんなにもこの少女に、自分は。



「ルイさん?」

ルイの変化を感じ取ったのか、不思議そうに呼び掛けた鈴音に微笑みを返す。

「ひゃっ」

そのまま急に鈴音の身体を抱き上げ立ち上がる。鈴音の腕の中にいる猫も小さく鳴く。

驚いて胸にしがみつく鈴音から香った、ふわりとした微かな甘い香りに眩暈のような錯覚に陥った。

怖がらせないようにゆっくりと歩くが、猫はどうやら居心地が悪かったらしく、鈴音の腕から飛び出した。そのまま廊下をルイとは逆方向に行ってしまう。

「あ、猫ちゃんが…………そういえばあの子、飼ってるんですか?」

「いや、多分どこかから入り込んだんだろうね」

「そうですか……」

始めは身体を強張らせていた鈴音も、徐々に力を抜いてルイに身を預けている。そして楽しそうにまたクスクスと笑っている。

「あの猫、飼ったらだめですか?」

「……鈴音が飼いたいなら」

「やったぁ、ありがとうございます」

嬉しそうに、ルイの首に手を回して抱きつく。

「あれ」

声を上げたかと思うと、鈴音がルイの首筋に顔を押し付けた。何かと問う前にすぐに顔を上げて笑う。

「同じ香水付けてますねー」

「………誰と?」

自分でいったくせに、鈴音はきょとんとルイを見つめ返した。

「……誰ですかね?……さっきの、人ですかね、えと、」

石塚?と鈴音はいう。

あまり記憶力が働いていないようだ。おそらく赤塚と言いたいのだろうが、ルイは訂正しなかった。

一番毛嫌いしている相手と同じ香を身につけていたという、今すぐ洗い流してしまいたい嫌悪感と。今の自分と鈴音のように至近距離にいないと気付かないようなことまで知っているくらいに、その男と近しい関係なのだという、嫉妬心。

ぐらぐらと揺れる思いに耐えて、鈴音の部屋まで着く。


「……ルイさん」

神妙な顔をして鈴音が呼ぶ。

「なに?」

「チョコレート食べたいです」

執拗にチョコレートを諦めない鈴音に、ルイは苦笑する。

「後でどうなっても知らないよ」

「だいじょうぶです!」

えっへんと胸を張る鈴音は、既に大丈夫ではないのだが。

「……ルイさん」

だめですか?と、上気させた赤い頬で上目遣いにねだられては、突っぱねるのもルイには難しかった。

「……一個だけだよ」

「わーい!」

うきうきとポシェットの中から1つ取り出し、口に放り込むまでが一瞬だった。意外と食い意地が張っている。ミツバシラの鈴音も食欲旺盛だった。こちらの鈴音も貴族という身分柄、抑圧されていただけかもしれない。

嬉しそうな笑顔を鈴音に向けられ、思わず笑みを返さずにはいられない。鈴音に対して色々張っていた自分の中での線が、ぐずぐずに崩れているのを感じ、ルイは自分の駄目さ加減に溜め息をついた。

鈴音を抱えたままソファに腰を下ろす。

舌鼓を打つ鈴音は満面の笑みを浮かべたまま、更に酔いが回ったのか、顔は赤く染まり、とろんと目蓋が落ちてきた。

おそらくこのまま寝てしまうだろうと先の展開が読めたルイは、その前に水を飲ませようと、一度腰をあげ、鈴音をソファに下ろそうとする。


「……ごめんなさい」

「え……?」


鈴音が小さな声で言ったのはそんなときだ。

急に謝られる理由が無くて戸惑うが、誰か別の人間へ向けられているようだと気がついた。


「逃げたって仕方ないのに」


ゆっくり瞬きをした後に、水が零れ落ちる。

「ごめんね」


そして、殆ど聞き取れぬ程の小さな声。

けれどルイの耳には確実に、焼き付く。



「……赤塚」



縋るように、どうしてその名前を呼ぶのだろう。



張っていた虚勢は、遂にひび割れてしまった。





鈴音を半ば乱暴にソファへ降ろす。

その前に立って屈んで両肩を掴んだ。

はっとして驚いたような鈴音は、それでも首を傾げて警戒心なくルイを見返した。

「赤塚って、君の何?」

「え……?えと……ルイ、さん?」

戸惑ったように鈴音は首を傾げる。

聞いたとして仕方のないこととは分かっている。酔って潜在的に押し込めていた記憶の断片が浮かび上がっては消えているのだろう。それでも、聞かずにはいられなかった。


今自分はどんな顔をしているのだろうと、頭の隅で思う。

けれど頭の殆どの部分は名状しがたい、熱くうねるような感情。


なんて醜い。


鈴音は、うろたえている。


「恋人だったのかな?」

ばっと顔を上げてルイを見て、そうして顔を赤くして再び俯いた。

「ち、違うと、思いますけど……」

その反応を、肯定ととるべきか、否定ととるべきか、わからなかったが、もうどうでもよかった。


今は自分の目の前にいる。


「ふーん?」

冷たい目をしていたのかもしれない、鈴音は更に顔を真っ赤にして、怯えたように瞳を潤ませて俯いた。



今の自分は、嫉妬に狂った、ただの。


慎重に張ってきた、一線が、切れる音がした。



俯く鈴音の顎に手をかけ、優しく、けれど決して逃れられないように、赤く色付く唇を塞いだ。




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