見上げた空
「お姉さまっ」
「はっ……」
テラスで本を読んでいて、うとうとしかけていた私は、妹の茜の声でびくっとし、持っていた本から手を離してしまった。しまった、と、思うか思わないかの差で、テーブルの上に勢いよく倒れた本は、バタン、と、ガチャン、の二重の騒音をたてた。
「あぁ」
それを見た茜が困ったような呆れたような声を上げた。お茶をちゃんと飲み干しておいてよかったのは幸いだったが。
「カップ……」
見事に真っ二つに割れた残骸が憐れにテーブルの上に転がっている。こんなに革表紙に威力があるものとは知らなかった。確かに、5分読んだだけで手が疲れてしまう重さなのだから、当然と言えば当然だ。しかし残念ながら、それは決して言い訳になる理屈ではない。
「あぁ、赤塚にまた怒られる……」
呆気にとられて固まっていた茜が、私の言葉ではっとし、傍らに立つ。
「大丈夫ですよ、お姉さま、処分して知らぬ顔をしておけば、気付かれません」
時々大胆なところのある茜はにこりと笑う。
「絶対気付かれると思う……」
兄達と大して歳は変わらぬはずの、私の執事兼教育係である赤塚は、驚くほど抜け目がなく優秀で、私は隠し事が出来た試しがない。
「それより、何か用だった?」
諦める選択を早々にして、赤塚のことは忘れることにした。茜は私の質問に片手を口の前にあてた。
「忘れるところでした。お姉様、お母様がお呼びです」
「母様が?」
「ダンスのレッスンの事だとおっしゃってました」
「うわ」
思わず頭を抱えて呻いてしまった。聞いてしまったことを後悔する。私の反応が意外だったらしいく、茜は首を傾げた。
「お姉様、ダンスはお得意じゃありませんか、何を嫌がってるんです?」
「……色々と大変なの……」
はぁ、と茜はよくわからなさそうに相槌をうった。
「仕方ないか。母様はどこにいらっしゃるの?」
「私がお話したときは客間に」
「そう、ありがとう、茜」
私は立ち上がって、割れたカップやら受け皿やらポットやらをトレイに乗せる。いつもはこのままにしておけばメイドがやってくれるが、流石にこの惨事のままにしておくのは申し訳ない。
屋内に入ろうとした時、少し強い風がふいた。
髪が風になびいて顔にかかって、かきあげるついでに、ふと、空を見上げた。
「今日は本当にいい天気」
雲一つない真っ青な空に、思わず呟いた。
こんなに空が綺麗だったなんて、気付かなかった。
見入っていると、何故か茜が慌てたように声をあげた。
「お姉様どうなさったんです!?」
「……え?」
そう聞かれるが、茜の驚く理由に心当たりがない。
首を傾げたその後で、やっと、頬を伝うものに気がついた。
「……あ、れ……?」
私は、涙を流していた。
何故、泣いてるのだろう?
別に体のどこかが痛いわけでも、悲しいわけでもない。
ただ、天気がよくて、空が、とても綺麗だと、思っただけ。
なのに。
涙がとまらない。
「……様っ!鈴音お姉様っ!?」
一瞬、茜の声が耳に入っていなかったらしい。必死で私の名を呼ぶ茜の声にやっと、はっと我に返って、私は涙を拭う。それに抵抗するように、更に涙は、とめどなく溢れてくる。
「……大、丈夫。何でもないの。……あれ?……ほんとに、なんでだろう?」
涙が勝手に流れる病気にでもかかったのだろうか。
心配そうにしている茜の横。
晴れ渡った空の下。
しばらくそうして私は、
涙を流し続けた。
風が、穏やかに吹き続けている。