お好きですか
ノックの音がして、名前を呼ぶ声がした。返事をすると、ニコラさんが、何やら大きなものを抱えて入って来た。
「おはようございます」
「……おはようございます」
ニコラさんが部屋の明かりをつけて回る。鏡台の上、ベッドの上、部屋の角にそれぞれ照明が用意されていて、全てつけると部屋はとても明るくなる。私の目を慮り、少しでも見やすくなるようにと、遥祈さん達が用意してくれたものだ。
「御支度のお手伝いを致します」
そう言って、持ってきていた大きな荷物を開ける。
白と水色のものが何となく見える。
「……私の今日の着るお服ですか?」
「はいっ。奥様が是非に、と朝一に届いたものです」
わざわざ届けてくれたと聞かされると、もう、何も言えない。
「奥様は今、旦那様のお仕事の手伝いでこちらに来られませんので、代わりに私が」
「そうだったんですか」
今更ながら、遥祈さんには旦那さんがいるのだと認識する。むしろ、今まで毎朝顔を出してくれていたことを考えると、悪いことをした気分になる。
そんな思いを余所に、ニコラさんはトランクからドレスを出して、全容が見えるように掲げてみせてくれた。よく見えないが、レースが沢山ついているであろうことはわかる。
「うわぁ……」
「さ、鈴音様」
ニコラさんがずい、と迫って来た。
もちろん、私に拒否権はない。
ニコラさんに頭から足まで徹底的に飾り付けられ、私は、食事をするテーブルについていた。
そこへ、要さんが欠伸をしながら部屋に入ってきた。要さんは、仕事がない時は、ルイさんの屋敷の空き部屋に泊まっているのだ。
要さんは、私に気付くと、笑う。
「またすげー服着てるな」
「やっぱりそうですよね……」
どことなく落ち着かず足元を見る。今日のドレスはスカート丈が膝下までと割合短いもので、代わりといってはなんだがタイツをはかされていた。驚いたことにサイズもぴったりの靴も用意されていた。黒い靴で足先が丸く硬いデザインのようで、床をつつくとコツコツと鳴る。
「おはようございます」
坂下さんがコックさんを伴いやってくる。パンの焼けた良い香りがする。
「今日、ルイはいつ頃戻れるんだっけ?」
「昼前にはと聞いています」
要さんは、うーんと考え込む。
「悪い、鈴音、ちょっと今日早めに出なきゃなんねーんだ」
「本当ですか?」
要さんの言葉に坂下さんが困ったように声をあげた。
「どうしたものか」
どうやら坂下さんも用事があるらしい。
「あの、申し訳ありませんが……」
と、おずおずと入ってきたのはニコラさんだ。私をここまで連れてきてくれた後、通信が入ったと呼ばれ、退室していた。
「すぐに天宮の屋敷へ戻るよう命ぜられてしまいました」
「……うーん」
坂下さんでも唸るのだと初めて知った。
「あの、私一人でも大丈夫だと、思います」
提案してみると、坂下さん、要さん、ニコラさんはお互いに顔を見合わせる。
「コックと使用人は、今日の午前中は仕入れがあるんですよ」
ということは、私一人になるということだろう。
「一人にするのはなぁ……ルイとは連絡つかねぇの?」
「ええ、取り次いでもらえず」
「遥祈様もです」
押し黙る3人。
「大丈夫です!ちゃんと留守番くらい出来ます!」
私は胸を張った。
ワルツの曲が流れている。
知っている曲だったので、一人で踊ってみている。それでわかったことだが、相手のいない練習というのはとてもやりにくい。
恐らく自分も誰かを相手に踊る練習をしていたはずで。けれど、記憶を手繰り寄せようとしても、ぷっつり糸は切れている。
曲が終わり、次は知らない曲だったので、ソファへ座った。ソファの位置はぼんやり見えていたし、感覚的に覚えてしまったので、座り損ねることもない。
退屈だろうからと、練習することに決めたダンスの曲を流す方法を教えてくれ、ぶつからないようにとソファ以外の家具を全て取り除いてくれたのは、坂下さんの計らいだった。喉が乾いた時用のお茶の入った携帯用ポットは床の隅に置いてある。
『小腹が空いたらどうぞ、チョコレートはお好きですか?』
と、坂下さんの手作りらしいチョコレート菓子も用意してくれてある。至れり尽くせりとはまさにこの事だ。
『いいか、絶対に部屋から出るなよ?』
両肩に手を置かれ、要さんにはそう念押しされた。
子供扱いされている、と思ったが、確かに成人前の子供には間違いない。
因みにトイレは部屋から扉一枚で繋がったところにある。その辺りも抜かりなく、ニコラさんから色々と細かな場所を教えてもらってある。
ここまでしてもらえれば、目が見えなくても何とかなるものだな、と、一人で感心していた。
屋敷の人たちが出払ってから、恐らく二時間ほどが経過した。一人で練習した曲も結構な数だ。とはいっても、まだまだ知らない曲の方が多い。それでも自分へのご褒美のつもりで、チョコレート菓子を1つ取り出す。遥祈さんが用意してくれた中には、肩から斜めに掛ける小さなポシェットすら含まれていて、そこに坂下さんからもらったお菓子を入れてあったのだ。
紙に一つ一つくるまれているもので、包み紙を解くと、丸いチョコレートが出てくる。思い切って丸ごと口に放ると、舌の上で甘く溶け、中から独特の香りのする液体が、舌の上に重なる。とても美味しい。
感嘆の声を一人で上げ、じっくりと無くなっていくまで味わう。ついつい美味しさが後に引いてしまい、もう1つだけと無意識に手が伸びてしまった。
「……さすがに三つ目はやめておこう」
精一杯の自制心で、食い止めた。
「……まだかなー」
ちょうど曲が終わったので、坂下さんから教えてもらった通りに、手探りで蓄音機に乗ったレコードを取り替える。先程から流れるのは知らない曲ばかりだ。恐らく、段々難易度が上がってきているのだろう。
これら全てのダンスを覚えなければならないのだと思うと気が重い。けれど、皆にダンスを教えてもらって練習するということ自体は、とても楽しみだ。
「ルイさんと遥祈さんが踊るところ見てみたいな」
ぼやけた視界では半減するだろうが、それでもとても絵になるのだろう。
「要さんもすぐに上達しそう」
むしろ私が足を引っ張るのではないか不安だ。
「……………」
独り言の多くなっている自分に気が付く。
「……はぁ」
溜め息をついた。
「どうなるんだろう、これから」
記憶が戻ったときのためにと、坂下さんは言った。
記憶が戻ったとき、どうなるのだろう。
「元の家に、帰るんだよね」
誘拐されたのが本当ならば、きっと、家族は心配しているのだろう。
ズキンと、胸に痛みが走る。
全く思い出せない家族への罪悪感か、それとも。
その時、部屋の外で、ごとりと音がした。




