思い出したいですか
「ご馳走様でした」
美味しい夕食の最後の一口を味わって飲み込んでから、私は、遥祈さんの家のお手伝いさん、ニコラさんにお礼を言った。
視界がぼやけたままでの食事は、思ったように食事を口まで運べなかったり粗相してしまったりしてしまう。それがニコラさんのおかげでさほど苦もなく進めることができている。毎日三食そうなので、申し訳ない思いもあるが、粗相をして洗濯物を増やすのは、もっと申し訳ない。
「いつもすみません」
「いいえ、鈴音様のような可愛らしいお嬢様のお食事の手伝いをさせていただけるだけで楽しいですから」
嫌な顔一つせずにいつもにこにこし、細かいことによく気がつき、何をするにしても卒がない。遥祈さんの一番のお気に入りのお手伝いさんだというだけある。
食べ終わるのが当然の如く一番遅かった私が食事を終えたので、ニコラさんは、料理を運んできてくれたコックさんと一緒に皿を片付けて、部屋を後にした。
後には、私と要さんと坂下さんが残る。何となく沈黙が生まれて、ふと、要さんがどうやらこちらを見ているらしい事に気付く。
「お前、目、どれくらい見えないんだ?」
私が問い掛ける前に、要さんが口を開いた。
「えぇっと……」
どれくらい、と聞かれても、答える要領がわからない。
「これ何本?」
要さんが片手を上げた。指を何本か、立てているようだ。要さんの腕の先を、じっと目をこらして見るが、要さんの指先は殆ど後ろの景色と溶けてしまっている。
「うーん……わかりません……」
「近くにあるもんの方がよく見えるのか?」
要さんが、手を前後させているのが何となくわかった。
「いいえ、そういう訳では」
「じゃあ眼鏡は使えないか」
少し残念そうに言って、坂下さんを見たのがわかる。
「一応試してみます?」
坂下さんが満更でもなさそうに言い、それで初めて坂下さんが眼鏡をかけていたということを知る。
「宜しいんですか?」
「ええ、どうぞ。お手伝いします」
坂下さんは椅子に座る私の後ろに立ち、眼鏡を目の前へ持ってきてくれる。覗き込んでみるが、レンズの中のものがはっきり見えるということはなかった。
「駄目そうです」
首を振ると、坂下さんは眼鏡をかけ直し、言った。
「残念です。……鈴音さん、記憶の方はいかがですか」
「……変わらず、です」
断片的にも思い出さないかと試行錯誤をしてみてはいるのだが、一向に思い出せていない。試行錯誤といっても、何を手かがりにすれば良いのかすら、よくわかっていないのが実情だった。それを正直に話すと、坂下さんは思案するように腕を組み、そして言う。
「正直なことを言わせていただいても?」
それは、私へというより、要さんへ向けられた言葉のようだった。
「なんだよ」
少し身構えたように要さんが返す。
「若旦那含め、あなた方は、鈴音さんの記憶を戻すのにあまり積極的ではないような気がするのですが」
「……は?」
私は坂下さんの言わんとすることがよく理解出来ずにいたが、要さんは気を悪くしたらしい。
「鈴音さん」
「は、はい」
それにも構わず坂下さんが、今度は私の方を向く。
「自分のこと、ちゃんと思い出したいですか?」
質問され考えるが、あまり時間をかけずに頷いた。このままの状態では良くないし、すっきりしないのは事実だ。
「あなたの記憶障害の場合、おそらく原因は心理的な要因だと思います。つまり、とてもショックなことがあったからこそ、自分の心を守るために記憶を封じたということです」
坂下さんの言葉を聞きながら、心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。
「それほどまでにショックなことを思い出し苦痛を伴ってまで、自分のことを思い出したいですか」
もう一度聞かれたことを、今度はゆっくりと考える。
「それ、今言うことか?」
要さんが苛立ったように言う。
「これでもかなり待った方ですよ。あなた方は、鈴音さんが傷付くことを恐れるあまり、記憶を戻そうという手助けを全くしていない。むしろ、このまま戻らなければ良いとさえ、思っていませんか」
「…………」
冷静に述べられた坂下さんの話に、要さんも考え込んだようだった。
そんなやり取りを聞きながら、私は、答えを出す。
「……私は、思い出したいです」
記憶をなくすほどの事が自分の身にあったのだとしても、それから一度は逃げたのだとしても。
「今の生活は、とても幸せです。見ず知らずの、しかも目が悪くて何の役にも立たない私に、こんなに親切にしてくださって」
あまりにも居心地が良すぎて、その状況に甘えすぎていた。
「だからこそ、きちんと思い出して、ちゃんと恩返しをしたいです」
大好きな人達のためにも、もう、逃げてはいけないとそう強く思う。
「そうですか」
坂下さんは優しく私の話に頷いてくれたようだ。
「だそうですよ。今のお話、若旦那にも伝えてください」
加えてそう要さんに坂下さんが言うと、要さんは溜め息をつく。
「部下のお前が直接言うことだろ」
「プライベートの話ですから。それに私が言っても無駄です。鈴音さんのこととなると、若旦那は人が変わりますから」
「え、そうなんですか?」
穏やかなルイさんのイメージが強く、あまりピンとこない。お客様扱いをしていただいているのだろうか。
「まぁ、そうか」
要さんは一人で納得している。
「決まりですね。鈴音さん、私もお手伝いします」
「有難うございます」
「本当にいいんだな?」
坂下さんの言葉を受け、要さんはこちらを向き問う。
「はい」
伝わるようにしっかり頷いて見せると、要さんは頭をくしゃくしゃと掻いたようだった。
「まぁ、近道にもなるだろうしな」
「では、お茶をいれてきますね」
要さんの小さく呟いた言葉は坂下さんの言葉と重なりよく聞こえなかった。
「頭働くやつ、頼むわ」
「かしこまりました」