自らを流す
「鈴音」
遥祈さんが、呼び慣れない私の名前を呼ぶ。
無住人街で襲われていたらしい私は、偶然通りかかった要さんに助けられたらしい。酷い高熱を出していた私は、要さんの友人であるルイさんの屋敷に運ばれ、四日間眠り続けていたという。
全て、聞いたことだ。
私の全ての記憶は、ルイさんの屋敷の一室で目覚めたところから始まっている。どこで何をしていたのか、要さんに助けられた時の記憶も、自分の名前すら、忘れてしまっていた。最初は、ショックのせいだろうとお医者様には言われていたが、二週間経った今でも、片鱗すら思い出せないでいる。わかっているのは、要さんが助けてくれたときに、私が名乗ったという鈴音という名前と、一時的に目が悪くなっているということ。
そんな見ず知らずの私をルイさんは屋敷に置いていてくれている。非常に申し訳ないのだが、何も分からない、頼るところを知らない私にとっては、それにすがるしかない。
働かせてほしいと頼んでみたこともあったのだが、目がよく見えないこともあるせいか、丁重に断られてしまった。今現在、まるで大切なお客様のような扱いを受けている。
とてつもない申し訳なさと心許ない立場に、私はどうしていいかわからないでいるまま、ただ、日々が過ぎてゆく。
いつものように、朝起きて身仕度をして、そして、何をするわけでもなくぼうっとしていた私を、遥祈さんが訪ねてきてくれた。
「体調はどう?」
白く綺麗な手が、私の頬に添えられる。とても温かい手。
「とてもいいです。おかげさまで」
記憶が戻らないままであり、一時的(と、私がいっていたらしい)に目が悪くなっている状態が続いているのは、果たして体調が良いと言えるのかどうか分からないが、それを考えなければ、至って健康体だ。
「よかった」
濃い青の目がこちらを見つめ、遥祈さんは安心したように言う。女性にしては背の高い遥祈さんが、ベッドに座る私の顔を覗き込もうとすると自然と上体を屈めることになる。赤がかかった茶の長い髪がシーツにさらりとかかる。
ぼやけた視界のなかでも、確かに美しい、とわかるほどの、その顔にじっと見つめられ、挙げ句、優しく言葉をかけられようものならば、私が女といえどもどきどきはする。
「だ、大丈夫ですから、本当に」
「熱はない?少し顔が赤くないかしら?」
「気のせいですっ」
気のせいというより、遥祈さんのせいだ。大丈夫だと言葉でも身振りでも訴えて、ようやく遥祈さんは納得をしてくれたようだ。
「要が来たから、一緒に食事をしましょう」
「本当ですか?」
要さんは四日前に、遠方での仕事があると行ったきり、連絡が無かった。やっと帰ってきたのだろう。要さんは仕事帰りに寄っては顔を見に来てくれる。寄ってくれた暁には、私と食事を共にしてくれるのが、慣習になっていた。
「ルイさんはまだお仕事中でしょうか?」
私と食事を共にしてくれるのは要さんだけではない。この屋敷の主であるルイさんも、仕事の合間を縫って、食事時には顔を合わせてくれている。遥祈さんもだ。こうしてわざわざ頻繁に訪ねてきてくれては、私の世話を焼き、始終一緒にいてくれるのだ。
いつも三人のうち誰かが私の傍にいてくれる。
けれど、その三人がいつも同時にいるわけではない。三人が揃うときはむしろ珍しく、大抵は誰かがいない。その誰かに当て嵌まるのは、ルイさんが一番多い。食事前や後や途中に顔を出してはくれるが、一緒に食べている時間がないことが殆どだ。
珍しく、三人が揃って食事が出来た時には、三人とも、とても楽しそうで、そして私も楽しくてとても嬉しくなる。
今、遥祈さんも要さんもいる。
これでルイさんがいてくれれば、完璧だ。
ふと、そこまでで思考が冷める。
何が、完璧なのだろう。
私は一体何なのだろう。
見ず知らずの、身元の分からない記憶もない私を、ルイさんは屋敷に置いてくれ、遥祈さんも要さんも、忙しいのに、心配して会いに来てくれる。得体の知れない、私のために、何故そこまでしてくれるのかは、わからない。
分からないまま、私は甘えている。
このままでいいのかと、私の中の誰かが問う。良いわけはないのだろう、そう、思う前に。
「ルイもちょうど休憩を入れるみたい。久し振りに四人で食事ができるわね」
遥祈さんの穏やかな声に。
「嬉しいです」
温く、甘い、心地よい、そのままに、ただ、流されてゆく。
甘えてゆく。