価値観を覆す
『流れにあんまり逆らうと、危険よ』
遥祈は、鈴音の額と首筋に当てていた冷やしたタオルを取り替えながら、当時の会話を思い出していた。
赤の髪に青い眼、厳密に言えば、深紅の髪、深青の眼の女。グレイスと、遥祈の前で初めて名乗ったその女とのやり取りを。
「遥祈ちゃんの勘、当たったわねぇ」
瑠依との通信の会話をある程度聞いていたらしい女は、さすがね、と、くすくすと笑った。
「立ち聞きなんて趣味が悪いわね」
「電話…違うわね、通信の邪魔しちゃ悪いと思ったの」
遥祈の警戒を何等気にした様子もなく、女は傍のソファに腰を下ろした。
「何をしに来たの、顔を見に来ただけ?」
遥祈も問いながら向かいのソファに座った。
「まぁそんな所かしら?でも要君よりは話が弾むんじゃないかって期待してるのよ」
感情の読めない青い眼でこちらを見つめてくる。
全て、読まれている、そう思い、遥祈は苦笑を隠すのを止めた。
「それは私の質問に、ある程度までちゃんとした答えをくれるということだと、期待して良いのかしら」
女は、ふふ、とにっこり笑った。
「勿論。遥祈ちゃんはなかなか鋭い質問をしてくれるから嬉しいわぁ」
まるで自分がしようとしている質問を、とうに知っているかのような言い方で、無駄な段階を踏む必要はないと判断して、遠慮なく質問に入ることにした。
「……この世界は、既存の世界なの?」
瑠依や要はさほど気にしてはいないようだが、遥祈には始めから気になっていた事だ。
自分達のいた世界と平行的に、もともと存在していたのか、それとも、ゲームの為に造られたのか。
それによって、この世界の自分達、天宮遥祈やルイ・シャルレの存在意義が大きく違ってくる。
「鈴音ちゃんを探すために、今の立場を無視していいのか、迷ってるのね」
女の言葉に何も答えないことで、肯定の意を示した。
これは、完璧に科学的思考を欠く事にはなるが。
もし、既存の世界であり、天宮遥祈も元々存在していて、今はその身体を借りているだけなのだとしたら。天宮遥祈の全てを投げ売って鈴音を探し出し、元の世界に戻れたとしてその後はどうなるのだろう。
変わらず天宮遥祈がこの世界に存在し続けるならば、彼女の未来は絶たれたも同然だ。
逆に、催眠術か何かによって(これとて現実離れには違いないのだが)、自分達の頭の中に無理矢理、異世界を構成させられているのならば。
ゲームを終わらせさえすれば、何をしたって構わないことになる。作りものの天宮遥祈という存在の、その後を気にかけることはしなくていい。
どちらなのかによって、出来ることが大幅に変わる。その判別がつかないから、容易に広く動けずにいるのだ。
女は、そうねぇ、と足を組み直した。かなり高い位置までスリットの入った、黒いドレスの裾が揺らめく。
「この際だから、ちょっと詳しく話しちゃおうかしら」
サービス精神あるでしょ、と女はウインクしてみせた。
「ええ、是非お願いするわ」
遥祈が返すと、うふ、と嬉しそうに笑って、説明を始めた。
「まずね、あなた達が生きてきた世界、元の世界ね。それを、アタシ達の間では、『ミツバシラ』、もしくは、『pillar of three』と呼ぶの」
三つの柱。
ミツバシラとはおそらく三ツ柱とでも書くのだろう。
「三つとは?」
「それは内緒」
予想はしていたが、やはり全てを教えるつもりはないらしい。
「アタシ達って言うのは、まぁ、アタシと同類の者の中で、ということね」
「……赤塚も?格が違うのだったかしら」
女は二回三回拍手をした。
「伝言ゲーム成功ねっ。要君、そういう細かいニュアンスまできちんと伝えられたのね」
要はどうやら嘗められているらしい。女は話を続ける。
「そう、まぁ格は違うけど、あの子、赤塚も、世界の構成を知っているという意味では同類ね」
意味深な言い方だ。
女は口を再度開きかけたが、何かに気付いて小さく笑った。
「あらぁ、話が逸れたわねぇ。戻すわ、同じように、この世界にも名前はあるわ。過去二回のゲームでの世界にもね」
今までの世界もこの世界も、少なくとも名前があるほどの存在はある、ということか。
「申し訳ないけど、この世界の名前は忘れちゃったわ」
「……いい加減なのね」
遥祈が若干呆れて言うと、馬鹿にしちゃ嫌よぉ?と女が笑う。
「沢山在りすぎるんだから仕方ないじゃない?名前は便宜的にあるだけだから私が困らない程度に覚えておけば充分なの」
「……沢山?」
「無数にね」
断言をされた。
推測を遥かに上回る、確固たる事実を。
この話を、聞く者によっては、とてつもない心許なさを抱くのかもしれない、と遥祈はふと思う。
昔人間が、地球は太陽の周りを回る惑星の一つに過ぎない、と知った時と同じように。
その事実すらも、遥かに凌駕する事実。
地動説やらビックバンやら、それは、遥祈達が生きてきた世界、ミツバシラの中での事実でしかないのだ。
現に、過去二回のゲームでの世界には、魔法が当たり前として存在していた。それぞれの世界に、それぞれの理がある。
いま居るこの世界も、文明が遅れてはいるが、ミツバシラの地球での理論や物性は、大方当て嵌まっているように見える。太陽も月も一つずつ。魔法やら非科学的なものは存在しない。しかし、髪色眼色が、ミツバシラでは考えられない人達がたくさんいる。
同じ理論であったり、微妙に食い違ったり、全く相反したり。
そうして様々な世界が存在するのだろう。
果てしない。
自分が、全ての存在に対して、本当にちっぽけな存在でしかない。そんな心許なさを、人によっては感じるのかもしれない。
「なんだか難しいこと考えてるのねぇ」
女はおかしそうに遥祈の眼を見つめる。
「いいえ、とりとめもない事を考えていただけ。何の役にも立たないわ」
あらそぉ?と、くすりと笑う。
「世界の名前。赤塚達は全部覚えてるのよ。たいしたものよねぇ」
「それは……どういう意味?」
達、というのも気になる。
「あの子達は、そういう役目なの。全ての世界を、管理する。だからよ」
だから。
「……だから私達を、別の世界に飛ばせる?」
女はにっこり笑った。
「そういうこと」
だから。
だから、何だというのだろう。
遥祈が口を開く前に女が制した。
「怒っちゃいやよ。その先は聞かれても答えられないわ。その目的は?って聞かれてもね」
「貴方は、私達の敵?味方?」
この女は、何者だ。
「アタシは、傍観者」
女は間を空け、更に言葉を紡ぐ。
「半分、神様だから」
「……神様?」
こんな神がいるものだろうか。
一瞬そう思ったが、先程世界の価値観が総崩れしたばかりだ。特別疑う理由にはならない。この女が今まで言った事を全て信じるならば、だが、遥祈の勘は、それが真実だと告げていた。
女はふふっと笑って、あ、そうだ、と思い出したように言った。
「アタシの名前、まだ教えてなかったわね。グレイス。グレイスっていうの。瑠依君と要君にも教えておいて」
「グレイス……」
遥祈が反芻したのを確認し、女
もとい、グレイスは、ぱちんと両手を合わせる。
「さて。遥祈ちゃんの本当に聞きたい事に答えなきゃだわね。というより、これは忠告になるのだけれど」
グレイスの顔が、少し真剣味を帯びた。
「確かに、この世界や、あなた達が飛ばされる世界は、それそのものとして存在してるわ」
「平行世界、ということ?」
「まぁそう解釈してくれて問題ないわ。つまり、ご察しの通り今の状態は、ミツバシラの遥祈がこの世界の天宮遥祈と身体を共有している、ほぼそれに近い状態」
「近い、っていうのは?」
どうにも曖昧だ。
「これ以上は詳しく話せないからごまかして説明しているの」
随分さらりと白状する。これでは追及するにも出来ない。
グレイスはそのまま続ける。
「この世界は確かに存在してる。でも、少し違うの」
遥祈の眼をのぞきこみながら、ゆっくり言葉を進めていく。
「ゲームが終われば、今居るこの世界は、幕を閉じる」
遥祈は、その言葉の意味を掴みかねた。ただ眉を僅かに潜めるだけしか出来ない。
「だから、あなた達が鈴音ちゃんを探すために何をしても、ゲームが終わった後、つまり、ミツバシラの遥祈が天宮遥祈の身体から離れた後、そのままで放り出されて困ることはない。けれど」
遥祈の期待を遮るように、逆接を強調する。
「あくまで、天宮遥祈として行動を取った方が、身の為ね。…………流れにあんまり逆らうと、危険よ」
「流れ?」
「この世界の流れ。尤も、この世界の遥祈に、ミツバシラの遥祈の意識が混ざっている時点で、既に流れから逸れているんだけど」
本来あってはならない事が起こっている。そういうことだろうか。
ある世界の者が、不必要に他の世界介入してしまえば。違う理を持つその者によって、世界の理が崩される。本来の流れから、逸れる。
だが、グレイスの言っていることは、それを指している訳ではないようだ。
「……どういう意味での危険なの?」
「あの子達に気付かれちゃうから」
「あの子達……?」
赤塚達、とは、別の者達を指すのだろうか。
「その子達に、ゲームに気付かれると大変な事になる」
つまり。
「赤塚達の、敵ということ?」
「ええ」
しかし、それならば、遥祈達の、味方、ということにならないだろうか。自分達は、好きでゲームをしているわけではない、むしろ被害者なのだから。
遥祈がそう思考を巡らせていると、同情するように眉を潜め、グレイスは首を振った。
「だからといって、あなた達の味方だとは限らない。むしろ、最も厄介な敵になり得る」
遥祈は息をつき緩く首を振った。
「……わからないわ。赤塚達が、しているこのゲームは、不当なの?そうではないの?」
世界を管理する役目ならば、このようなゲームはあってはまずいのではないのか。それとも、世界を管理するにあたって、特別の意味があるというのか。
「……本当は、あってはならないことよ。だから赤塚達は、自らの役目から離脱しているの」
「なのに、あなたはそれをただ傍観しているだけなの?」
神様とは、そういうものなのだろうか。
「アタシは神様だけど、完全じゃないの。だから出来ることは限られているの」
グレイスは肩を竦めてごめんね、と言った。
「……それじゃあ、ゲームに甘んじていた方が私達の為だということ?そしてかつ、天宮遥祈が取り得ないような突飛な行動は慎んだ方がいいと?」
「今の段階ではね」
遥祈はグレイスから視線を外した。
目茶苦茶だ。
「……逃れる術はないの?」
巻き込まれたからには、もう、逃げられないのか。
完全ではない神様の答えは、もう分かっていたけれど。
「ないわ。あなた達の力ではどうにもならない」
「……どうして、鈴音と瑠依なの」
やり切れない。
遥祈の痛みを理解するように、グレイスは目を伏せる。
「……鈴音ちゃんと、瑠依君だから。それと」
目を上げて、遥稀を見る。
「あなたと要君も、特殊だから。それぞれ別の意味でね」
遥祈は、ゆるゆると顔を上げて、深青の瞳を見つめ返す。自分がとんでもなく情けない顔をしているような気がした。
「……答えに、なってないわ」
グレイスは何も言わずに、笑った。
「……もう、時間だわ。また、会いましょう」
そのまま、音もなく消えた。