掻き消す雨音
雨が強くなってきた。
捻って腫れた足首には気持ち良いが、その他の部分にとっては、ただ体温を奪っていくだけのものでしかない。そして、今は そんな事を気にしている余裕はない。
あの二人は私を追っているのは確実で、捕まったら、もう逃げるチャンスは皆無だ。とにかくそれから逃れようと、私はより複雑に入り組んだ路へと足を進める。闇夜で殆ど手探り状態だったが、大分慣れて、ぼんやりと続いている路の方向はわかるようになった。あの下町の大通りの裏道より、ずっと古くて汚くて、人気のない場所だ。人がいないのは真夜中という事もきっとあるが、人が外に出歩いていないというよりは、人の存在自体が希薄な、そんな雰囲気。
宛も無いまま、かなり歩き続けた後、初めて足を止めた。
窓から飛び降りたときに着地に失敗して捻った足は、そのまま酷使されて頑張っていたが、もうこれ以上は、と悲鳴を上げた。
しかし、二階か三階から落ちたにも関わらず、足首を捻っただけで済んだのも、相当幸運だったのだろう。
「……はぁ……」
乱れた息を整えようと息をつくと、途端に襲うのは、より激しい痛みとひどい倦怠感で、一瞬気が遠くなって、慌てて気を保ち直した。
今気を失う訳にはいかない。もう一度息を整えようと大きく息を吸い込んだその時。
「……っ!!?」
急に髪を引っ張られて、地面に乱暴に倒された。
捕まってしまった。そう絶望したが、予想に反して耳に入ったのは、あの二人の、低い声でも甲高い声でもない、別の声。地べたに横倒しになった上に覆いかぶさられて、生暖かい息が顔にかかる。
「今日はついてんな。こんなとこでこんな上玉が手に入るなんて滅多にない」
迷ったのか?と言いながら、何故か息が荒い。
「……いやっ、離して……っ」
押し返そうとしたが、到底男の力に敵うはずない。しかもかなり大柄の男だ。下町で襲って来た酔っ払いより大きい。
やばいと思い、あの時のように蹴りを繰り出そうとしたが、ダメだった。既に足の間に、身体を割って入れられており、蹴るという手段は呆気なく絶たれた。
「なーんか手縛られてるしよ、何者?」
そう言いながら、男は縛られた手首を片手で掴んで、そのまま私の頭の上の地面に押さえつけた。
こうなったら最後の手段である。
「きゃあああぁぁぁぁあああ!!!」
夜の闇に響く私の声。けれど雨にかなり掻き消されてしまっているのを感じる。
それでも、男は舌打ちをして悪態をつく。
「……うっせぇな。黙ってろ。どうせ誰も来やしねえよ」
「やだっ!!離して、離して!!!!!」
声を最大にしてとにかく喚く。
「黙れ!!!」
低く太い声に怒鳴られて、喉が引き攣り、声にならなかった息がひゅっと音を立てた。感じた恐怖は、今までの何よりも大きいものだった。
「……離、して……」
それでも震える声で拒む私に、返されたのは激しい衝撃と、痛み。
「…………かはっ……」
容赦なく鳩尾に拳を入れられ、叫びにもならない。目の前に白い星が散る。痛みと恐怖とで、涙が滲んだ。
「おとなしくヤられて泣いてりゃいいんだよ」
何の情も感じられない冷たい男の声に、堰を切ったように涙が溢れた。悔しくて恐くて、絶望が襲う。身体に力が入らない。
抵抗が無くなったのに満足したように、男の、私の手を押さえていない方の手が、首筋を撫でる。
「…………ひっ」
顔を近づけられたかと思うと、首筋を、ざらりと気持ちの悪い感触が走った。それが舌だと気付いたのはその後だ。鳥肌が立つ。
「…………いや、やめて……っ」
叫びたくても、先ほど加えられた腹部の痛みで、やっとの事で絞り上げる事しかできない。震えてか細くなる声に、男がかすかに笑う。
「そういう声ならいくらでも出していいぜ?」
屈辱感とはこの事を言うのだろう。涙が幾筋も頬を伝う。
再び動きを開始した男の舌は、そのまま鎖骨の辺りまで這っていき、背筋が粟立つ。
それと同時に、ドレスの裾から中に入ってきた手に、思わず足をばたつかせた。けれど力で押さえ込まれてそれすらも出来なくなる。太ももを撫でさすられ、嫌悪感に気が狂いそうになる。
「…………っ……」
男の口が、胸元の襟口をくわえ、そのまま下へと引きちぎる。破れた服の間から、下着と腹が見え隠れしている状態になってしまう。満足気にその様を見て笑った男は、再び胸元に顔を近づけようとする。
もう駄目だと、完全に抵抗をなくしたその時だった。
「……一度だけ言ってやる……どけ」
上から聞こえた、比較的若い青年の声。暗いことと、視力が悪いことと、涙のせいとで、その人物の姿をはっきり捕らえることはできない。
「ああ?」
男は私から手を離さないまま、少し上体だけを起こして、急に現れた青年を睨み上げた。
「何だてめぇ?」
「もう忠告はしたからな?」
不快気に問い掛けた男に、青年が冷たい声で言う。男が、は?と言うか言わないかで、急に、男は、吹っ飛んだ。次の瞬間には、男の巨体が少し離れた所に転がった。どうやら、青年が蹴っ飛ばしたらしい。
上体は起こしたものの、私はただただ呆然として、しきりに瞬きを繰り返していた。その度に、まだ雫が頬を流れ落ちる。
呻く男に青年は悠然と歩み寄り、また蹴りを入れた。俯せでいた男はそれで強制的に仰向けにされる。足蹴にしたまま青年が言う。
「失せろ。んで、この街に二度と来るな。ついでにどっかでくたばっちまえ」
かなり酷い言葉だが、勿論男に同情する余地は私にはなく、ただ茫然としていた。