あてのない決意
ぺちぺちと頬を叩かれて、目が覚めた。視界が、前よりぼやけている。どうやら、少し悪くなってしまったらしい。
精神的なものが関わっているというのは本当のようだ。
手首と足首に痛みが走って、自分ががたがたと揺れる床に転がっている事に気付いた。そして、手足が縛られていることにも気付く。
「おー、起きた起きた」
上から降った低く太い声に身を固くした。思えば、先程私の頬を叩いた人だ。視界がぼやけているのではっきりそうだと言える訳ではないが、おそらく、知らない男。
「……だ、誰ですか」
起き上がろうとしたが、手足の拘束が邪魔をしてうまくいかなかった。その男は笑う。
「誘拐犯。……おっと」
がたっと大きく床が揺れる。どうやら荷物用の馬車か何かの中にいるらしい。揺れて、頭に積み荷らしい物が当たった。
「いってぇ、おい、気をつけろよ」
バランスを崩した男が、御者台の方に呼び掛ける。
「うっせぇな、だったら代われ!」
目の前の男と比べ、高いきんきんと響く声が返ってくる。
「やなこった!……へへ、お嬢ちゃん、そんなに怖がんなよ」
「……ミーシェ様から頼まれたんですか」
「そうそう、あの可愛いくせに怖ぇお嬢様にな」
「何の為に……?」
これほどまでに手の込んだことを何故するのだろう。
「わからねぇのか?あのお嬢様の家とあんたの家、ライバル関係なんだろ?」
「え……?」
男の指摘に、ミーシェの家名は何だっただろうと考える。
「おいおい、当の本人が知らねぇのかよ?揚羽家とルサンチ家っつったら、庶民でも知ってるぜ?」
「……ミーシェ様が、ルサンチ家……?」
ルサンチ家の事ならよく知っている。この男の言う通り、ルサンチ家は、国内の東地方の服飾において、揚羽と勢力を二分している。お世辞にも仲が宜しいとは言えない。ミーシェがそのルサンチ家のご令嬢だったとは、知らなかった。いや、私の場合、恐らく忘れていたのだろう。
ミーシェ・ルサンチ。
そう並べてみると、確かに聞き覚えがないでもない。
自分の阿呆さ加減に脱力してしまう。今まで気付かず、呑気に無遠慮にミーシェと接していたのだと考えると、色々とミーシェの冷たい笑顔の意味もわかってくるというものだ。それほどまでに、揚羽とルサンチの溝は深い。
「知らなかったのか?ははっ、あのお嬢様も完全に空振りな感じだなぁ。あんた、きっと知らないうちにプライドえぐってたんだぜ、きっと」
傑作傑作、と男は手を叩いて笑っている。その通りだ。カイゼルの家に、ご贔屓にしてもらっているなどと、カイゼルのファンであり、ルサンチ家の令嬢であるミーシェには、口が裂けても言って良い事ではなかったのだ。
とてつもない罪悪感が襲う。あまりに不意打ちのショックで、ただでさえ良くなかった気分が、一気に地の底へ落ち込む。
「……あんまお嬢ちゃんが落ち込むことじゃねえよ?な?完全に向こうの逆恨みなんだからよ」
よほどひどい顔をしていたのか、何故か誘拐犯に慰められてしまった。
「まぁ俺が言えた事じゃねぇけどよ」
そう付け足して、男が笑った。
「……私を、どうするつもりですか?」
誘拐犯は特に罪悪感も感じていないように言う。
「まぁ当然、身代金を貰う。全額俺らの分だぜ?報酬別に貰ってんのによ。相当嫌がらせをしたいだけなんだな」
「身代金……」
また、皆に迷惑をかけてしまう。
「それだけじゃねぇよ?」
含み笑いを浮かべながら、男が更に言う。男を見上げると、その笑いは濃くなる。
「死ぬ程酷い目に合わせろってのがもう一つの依頼だからな。身代金貰うから殺しゃしないけどよ」
酷い目とは、反射的に浮かんだ、ぼこぼこにされることではないのだろうと、わかった。
「お嬢ちゃんに恨みはないけどよ、まぁ俺も仕事なのよ。楽しませてくれよな」
男が手を伸ばして私の頬を撫でる。悪寒がして、びくりと震えてしまう。
「そんなに可愛い反応すんなよな、罪悪感が生まれちまうだろ」
生まれて欲しいものだと切に願う。
後ろは壁、前には男、横たわされてる上、手足を縛られているので、身をよじるのが精一杯。蹴るにも男は頭側にいるので、届かない。初めて本当に、舌打ちというものをしてみたくなった。
「まぁ、まだ手を出さねぇから安心しな。荷馬車の中じゃ嫌だろ」
あ、どこでも嫌か、自分で付け足して笑う男に嫌悪が膨れる。
男の言葉から考えると、どこか目的地があるということだろうか。
「……どこに、行くんですか」
「東にいると見つかっちまうかもだからな、西だ」
逃げるチャンスがあるならこの馬車を降りる時だと思うが、西地方に、私の知っているものは、何もない。それでも、逃げなければならないのだ。