遅すぎた記憶
水にひたひたと手を浸していると、かなり気持ち良い。本当は頭からかぶりたい気分だが、手だけで我慢する。ダンスはやはり、踊った分だけ疲れるし、暑い。
三時の鐘で練習は中断され、話し合いの結果、五時からの本来のレッスンまで休憩となった。トイレに行った私は、豪華な広い洗面台を見て、つい誘惑に負けてしまったのだ。排水口に栓を嵌めて、三分の二くらいまで水を溜め、そこに手を突っ込んでいる。顔を洗う時の正式な使い方ではあるのだから悪いことはないだろうと、自分へ言い訳した。
赤塚が見たらきっと行儀が悪いとか言われるのだろう。だが、婦人用トイレだからその心配はない。まだ二時間もあるから、他のお嬢様方も来ないだろうと踏んだのだ。
「はぁ……覚えられるかな……」
頭の中は既に三拍子で一杯だ。水をぱちゃぱちゃする手も現に今、三拍子を刻んでいるし、歩く足もどこかステップのようなものを踏んでしまう。そんなものがないのは知っているが、完全なるワルツ病だ。
何度目かの溜息をつく前に、トイレの扉が開く音がして、びくつきながらも反射的に洗面台の栓を抜いた。途端に水が、渦をつくって吸い込まれていく。洗面台を隠すようにして立ち、何気ない風を装って振り向く。
「あ、ミーシェ様……おかえりなさい」
用事から帰って来たようで、トイレでおかえりもどうかと思ったが、言ってしまったものは仕方ない。
「鈴音様……、ご休憩ですか?」
さすがにただいまとは返してくれず、少し残念に思う。
「あ、はい。レッスンの時間まで、休憩を戴きました」
ミーシェはそうですか、とにこりと笑う。花が周りにぱぁっと咲いたような雰囲気になり、本当にかわいらしい。
「あの、お聞きしたいことがあるのですが」
遠慮がちに尋ねられ、思わず私もにこにこして答える。
「はい、なんでしょう」
「鈴音様は、カイゼル様の事を、どう思っていらっしゃるのですか?」
単刀直入にこられ、思わず仰け反る。そういえばこの子もカイゼルファンだったと思い出す。
「……い、いえ、別に特に何も」
私より少し背の低いミーシェがじっとこちらをのぞきこんでくる。
「随分、仲がお宜しい様ですが……」
「ええっと、私の家が服飾商をしていまして、カイゼル様のお家にご贔屓にしていただいているので、その縁で……」
「……つまり、鈴音様にとってカイゼル様はそれだけの存在でしかない、ということですか?」
「い、いや、そう言い切られるとまた微妙に違うんですが……」
言葉や雰囲気から、徐々にミー シェのことが怖くなってくる。恋する乙女は鬼にもなるのかもしれないと思いながら、完全に自分が勢いに押されているのを感じた。
「私の事、良い気味だと笑っていらっしゃるのでしょう?」
「…………はい?」
何を言い出すのだろう。
「記憶がない、なんて馬鹿げた事、全て私を嘲笑うためなのでしょう?」
「ちょっ、ちょっと、ミーシェ様?何を言っているのかよく……―」
「そうでなければ、どうしてカイゼル様はあんなに冷たい目で私をご覧になるのです?」
ミーシェの声が低い。
「カイゼル様が……?」
状況もミーシェの言わんとすることも、さっぱり理解できない。
「貴女がカイゼル様にご申告なさったのでしょう?犯人は、石を投げ込ませたのは、私だと」
「……え……?」
これは、すなわちどういう意味だろう。ミーシェは私の戸惑いに気付く事なく、言い放った。
「どうしてあのまま死んでくださらなかったのですか」
歯に衣着せない露骨な物言いに、漸く状況を朧気ながら悟る。
「……ミーシェ様……」
「鈴音様、私は貴女が大嫌いです。全てにおいて貴女が邪魔でなりません。貴女のその呑気な笑顔を見るだけで吐き気がするのです。だから」
彼女は、いつもの可愛らしい笑顔そのままで、とても残酷な事を言う。
「私の前から消えてください。死んでくださっても構いませんから」
頭を殴られたような衝撃という比喩は、まさにこの事を言うのだろう、と頭の隅で考えた。
呆然とするしか出来ない私に、ミーシェが近づいて、私の首に手を伸ばした。
微かに、ぴりりとした痛みが走る。
「最低でも、二度とお立ち直りになれないまでにはなって下さいね」
先程痛みが走った首筋がじんじんして、手足が痺れてきた。身体の自由が効かなくなり、その場に崩れ落ちる。霞んでゆく視界で、ミーシェが小さなナイフを手にしているのを見た。何か薬が塗ってあったのかもしれない。
「最後の安眠をお楽しみになって下さいませ」
ミーシェが冷たい笑みで私の耳に囁きかけた。
その言葉に、これは死ぬような毒ではないのだ、と考える。目が覚めた後に、最悪な事が来るのかもしれなくても、少し、安心してしまった。
「さようなら」
別れを告げるミーシェの声で、あの時の記憶が甦る。
3時の休憩、虫の話、更衣室、ミーシェの笑顔と言葉、飛んで来た物体、ガラスの割れる音、あの衝撃。
そして、あの不思議な夢。
泣いていたのは、誰だっただろう。
赤塚を、思い出した。
ごめんなさい、と思う。
下町に行った日の夜のように、また、母様に怒られてしまうのだろうか。
私は気絶してばかりで、いつも貴方に迷惑をかけている。
そして、
また誰かが、浮かび上がりかける。
その姿にかかった濃い霧が晴れる前に。
何も考えられなくなってしまった。