始まりの合図
「ねぇ遥祈ちゃん」
「なぁに?」
私の髪の毛にカーラーを巻く手は止めずに、遥祈ちゃんはまるで小さな子供をあやすような声音で返事をする。上機嫌な証拠で、私の髪の毛をいじる時によくなる。手の込んだ髪型を作るのが好きなのだ。瑠依くんや要くんがいるときはその上機嫌はやや隠れてしまうが、今は要くんはお風呂、瑠依くんは一旦家に帰っている。
今日も大成功だった母の料理で満腹になり、ひとしきり居間で騒いだ後で、まず私と遥祈ちゃんがお風呂に入った。明日の下準備をする、と風呂上がり直後からタオルドライやらトリートメントやら、全て遥祈ちゃんにされるがままになっている状態が、今である。
明日どんな髪型にしてくれるつもりなのか、楽しみなような不安なような気がする。休日だから問題ないでしょうと、たまにとんでもなく派手な髪型にしてくれることがあるのだ。
遥祈ちゃん自身の髪の毛は綺麗なストレートで、それゆえに巻き髪などの凝ったアレンジを一切受け付けてくれないらしい。私くらいの癖っ毛の方がまとめやすいそうだ。
休日の前の晩や休日の朝に、私のヘアアレンジをするのが、遥祈ちゃんの趣味となっているらしい。
「明日も晴れるかな」
「残念だけど、天気予報は雨だったわね」
「そっかー」
梅雨時に二日連続の晴天はなかなか厳しいようだ。
「どこか行きたいところでもあったの?」
ようやくカーラーのセットを全て終えたらしく、遥祈ちゃんが後ろから私の隣へと移動する。私のベッドの縁を背もたれにして、二人で並んで座る形になる。
二人で着ているのは、遥祈ちゃんのお母さん手作りの色違いのパジャマだ。ピンクが私でブルーが遥祈ちゃんである。フリルやレースが多く付いていて、自分達では選ばないと確信できる程の幼い可愛らしいデザインだ。可愛いというより美人な遥祈ちゃんが着ると、少しちぐはぐな印象になる。本人もそれを自覚してか、当初着るのを渋っていたが母親の懇願に負け、鈴音も着るならばとこうしてお泊まりの時だけ着るのが決まりごとのようになっている。
「ううん、晴れてたらどこでも良かったんだけど。四人で出掛けられるかなって」
梅雨時だから仕方ないが、週末は必ず雨だった。他にもそれぞれの用事で都合が合わず、四人で最後に出掛けたのは一ヶ月以上前のゴールデンウィークの時だ。
「雨でも鈴音が出掛けたければ皆ついてくわよ」
「そういうのじゃなくて!」
3人の中でも私は完全に頼りなく危なっかしいという認識らしく、可能な限り1人で出歩かせまいとする。一番心配しないのは母で、夜に足りなくなった料理の材料を買いに行かせるくらいなのにだ。普通は逆であると思う。
確かに誕生日は一番遅いが、同じ学年だ。なのに幼馴染みたちは私のことを妹だと思っているに違いない。
納得がいかない反面、でも確かに、と思うのは、こうして同じパジャマを着た遥祈ちゃんを見るとき。
スタイルの良し悪しの違いが一目瞭然なのだ。身長もそこそこあり、出るべきところが出て、引っ込むところが出ている遥祈ちゃんのパジャマ姿は、可愛いデザインも相まって、逆に色っぽい。
私はといえば、身長も低い方だし良くも悪くも色んな所の肉がなく、パジャマ姿も相まって、幼く見える。パジャマ姿でなくても、姉妹に間違われることはよくあることだった。
「そうゆうのじゃなくて?」
遥祈ちゃんが首をかしげて覗き込み、おうむ返しに聞いてくる。覗き込む姿勢のせいで胸元がちょっと見えてしまう。思わず視線を反らしてから、言葉を続ける。
「そうゆうのじゃなくて……」
晴れていることが大事なのだと、言う前に部屋の扉が開く。
髪の毛をタオルで雑に拭きながら、要くんが入ってきた。黒いタンクトップに、青い短パンというラフな格好で、背が高いから余計に足が長く見える。
「……あれ、瑠依は?」
「一旦家に戻ったわ」
瑠依くんはお父さんと二人暮らしで、家事を分担して行っている。お父さんはあまり料理が得意でないらしく、私の母が心配してよくご飯のお裾分けをしている。今日のように瑠依くんが私の家で食べたり泊まったりするときは、お父さんの分も用意して届ける、というのが決まりになっていた。
歩いて一分もかからない距離だからこそ気軽に出来ることである。ついでに洗濯とかを片付けてくるといって、要くんがお風呂へ向かった後に瑠依くんは出ていった。
ほぼ決まり事なので疑問に思うこともないのだろう、要くんは納得したように、ローテーブルの前に腰を下ろしてあぐらをかいた。身体が大きいので、小さなテーブルと並ぶとアンバランスに見える。
「ちゃんと乾かさないと禿げるわよ」
「やなこと言うなよ」
タオルを首にかけてそのまま髪の毛を放置しようとしたのを見てとった遥祈ちゃんが釘を刺すと、要くんは顔をしかめた。
ドライヤーを差し出してみると、サンキュ、と言って受け取り、大人しく乾かし始める。
遥祈ちゃんと顔を見合わせて声をたてず笑っていると、静かなサーっという音に、開け放していた窓をみる。
「……雨」
「……降りだしたのね」
独特の雨の匂いが、少し冷えた空気と共に顔を撫でる。
「……瑠依くん、傘ちゃんと持ってるかな」
雨が降っている、と思うと、いつも最初に浮かんでくる光景がある。
傘もささずに雨の中に立っている、瑠依くんの姿。
今より少し幼くて、あれはいつのことだっただろうと、考える。
「丁度こっちに戻ってきてるところじゃなきゃ、家からさしてくるでしょうけど」
「大丈夫だろ、走ってくりゃそんな濡れねーよ」
それぞれ適当な答えを返してくれる。
「……大丈夫だといいな」
雨が苦手な瑠依くんが、あの時のように濡れていないと良いと思う。
少し肌寒かったので、窓を閉めようと立ち上がった。
窓辺に立つと、ふっと影が射し、サッシに添えた手に、誰かの手が、重なった。
「鈴音!!」
バタバタと物凄い勢いで階段を上る足音と、バンと乱暴に開くドアの音がして、とても焦った声が私を呼んだ。
「瑠依く……」
振り返り声のする方を見ようとしたが、背後にたつ人影のためにそれは叶わなかった。大きな影を見上げると、赤い瞳がこちらを見下ろしていた。
「……お前っ!」
とても苛立った要くんの声と、
「赤塚…っ」
初めて聞くような、遥祈ちゃんの怒りのこもった余裕のない声が聞こえるが、どちらの姿も見ることはできない。
「……だれ……?」
歳は30前くらいだろうか、切れ長の瞳に高く通った鼻、薄い唇。黒い髪は長く、風に少し揺れている。綺麗な男の人、というのが印象だ。けれど、赤い眼だけが、現実感がない。カラーコンタクトのような人工的なものも感じない。
私はこの人を知らない、はずだ。
「可愛い格好をしてるね」
私の問いには答えず、少し低めの穏やかな声でその人は言う。
「離れろ!!」
要くんの声と共に急に視界が開け、鈍い音がする。男の人が少しだけよろけ、要くんが頬を殴ったのだと気付いた。
「鈴音」
駆け寄ってきた瑠依くんが私を庇うように肩を抱き、男の人から遠ざけようとする。その手は冷たく、湿っていて、やはり雨に濡れてしまったのだと何故かとても悲しくなった。
「残念だけど、抵抗しても遅い」
殴られて赤くなった頬を気にする様子もなく、男の人は肩をすくめた。
「あんたのせいでしょ」
遥祈ちゃんが嫌悪の表情を浮かべて、男の人を睨む。
「心外だね。こうしてわざわざ知らせにきてあげたのに」
むしろ感謝してよ、と言った。
「ふざけんな」
要くんが怒りを滲ませ、吐き捨てるように言った。
よくわからないが、少なくとも私よりは、他の三人は状況を把握しているらしい。
「瑠依くん……」
不安になり、瑠依くんを見上げると、とても苦しそうな顔をしていた。
私の肩を抱く手に、力が入る。
「……鈴音、大丈夫。心配しなくていい」
安心させるように、瑠依くんの胸に引き寄せられ抱き締められる。瑠依くんの熱と速い鼓動で、余計に不安が生まれる。
「どういう……っ」
言いかけて、音のない衝撃に遮られる。光の閃きと共に、瑠依くんの身体だけが弾き飛ばされた。駆け寄ろうとした遥祈ちゃんも、伸ばした手が私に届く前に見えない何かに阻まれ、後ろへ飛ばされる。家具や壁にぶつかる痛々しい音が響く。
「なんで……っ」
どうしてこんなことになっているのか、声をあげようとしたところで急に、少し離れた位置にいたはずの男の人が目の前に現れる。
「行くよ、鈴音」
冷たい両手が頬を包み、赤い瞳に囚われる。
激しい頭痛と眩暈と共に、何もかもわからなくなった。