実践した
「鈴音っ、大丈夫?もう、いつの間にか人波に飲まれてるからびっくりしたわよ」
杏奈は大通りから伸びる横道の角で待っていた。赤塚が私を降ろした後、真っ先にそう言われた。
「ごめんね。完璧に油断してた」
「もうっ、これからはちゃんと赤塚さんにつかまってるのよ?」
「はーい、さっき赤塚、じゃなくてお兄ちゃんにも同じこと言われました」
さっきは元の呼び方、口調に戻っていても、うるさくて人に聞かれる心配はなかったけど、今は声も通るので注意しなければならない。
「とりあえず、どこか店に入ろうか。もうこんな時間だし、お腹空いてない?」
赤塚が自分の手首を指す。どうやら腕時計を指しているらしい。銀色がちらりと日の光で反射する。顔を近づけてじっと睨めっこをするが、残念ながら文字盤や針までは見えない。察した赤塚が教えてくれる。
「ああ、ごめんね、12時半だよ」
「えっ、もうそんな時間っ?」
そう時間を認識したとたん、私のお腹がきゅるきゅると鳴った。正直すぎな自分の腹を殴り付けたくなるほど恥ずかしい。赤塚と杏奈は口を押さえて肩を震わせ、必死で笑いを堪えている。これはもう笑うしかない。
「あ、あははっ!な、何か食べよっ!」
執事の経験豊富な赤塚は、割と早くに笑いを沈めて頷いた。
「……了解。食べたいものの希望はある?」
「あーえっとね、一つ、一つあるのっ」
私はまだ震えている杏奈の肩を、恥ずかしさを散らすようにぱしぱし叩きながら答えた。
ぐー。
またお腹が鳴る。
周りに聞こえていないか確認し、ため息をつく。お腹が鳴るのを食い止める方法を誰かに教えて欲しいと思う。この調子でダンスパーティーででもやらかしたら大変だ。
私が希望したお昼ご飯は、下町で大人気の、ピザパイ。屋台型のお店で売っていて、30分は並ばないと買うことが出来ない。いつもこっそり来る時は、それだけの為に30分もかける時間がないので、泣く泣く諦めていた。一度で良いから食べてみたかった代物である。赤塚がそれを買いに行き、杏奈は飲み物を買いに行った。私はというと、また人ごみに飲まれたら大変なので、おとなしくこの場で待っていろとの事で留守番である。知らない人について行ってはいけない、声をかけられても無視しなさい、と散々しつこく言われた。
私はそこまで子供じゃない、と、言いたかったが、鼻で笑われそうで我慢した。
何にせよ、暇で暇で、行儀が悪いと思いながらも、足をぶらぶらさせたりしてみる。私が座っているのは、大通りから一本横に入った所の、野ざらしにされているベンチ。人が通らないと言うわけではないが、大通りよりはずっと静かだ。
ぐーきゅるきゅる。
再び、私の腹は自己主張する。
「……はぁ」
せめてもう少し視力が回復しているならばいいのだが、とにかく退屈だ。
「なぁ、暇そうだな」
知らない人の声がして、そちらへ首を回しかけて、はっとしてやめる。知らない人は無視しろと言われたばかりである。
「…………」
諦めて早く行ってくれますように、と心の中で願うが、その声は近づいてくる。
「……無視すんなよ」
ぐいっ、と肩をつかまれ、無理矢理振り向かせられた。スキンヘッドの、人相が悪そうな雰囲気を漂わせる男だ。いつの間にかすぐ隣に座っている。お酒の匂いが鼻をついた。
「済ました顔、してんじゃねぇよっ」
呂律が回っておらず、確実に酔っ払っている。真昼間からいい大人が酔っ払うなんて、たちが悪い。仕事を解雇でもされたりして自棄になってるのか、はたまた失恋したのか。そんな想像がよぎるがそんなことをしている場合ではなかった。
「……は、離してください」
身をよじってみるが、男の手は一向に肩から外れない。
「いーだろぉ、ねーちゃん暇なんだろぉ、付き合ってくれよぉ」
確かに暇ではあるが。
「あ、あの、待ち合わせをしてるのでっ」
「約束なんて破っちゃえよぉ、俺だって破られたんだ、破ってやれよぉ」
失恋してやけ酒説が高いようだ。返答に困っていると抱き着かれた。
「ひっ……」
「慰めてくれよぉ」
酒臭い息がまともに顔にかかり、思わず顔をしかめ、そらしてしまった。
「やめてくださいっ」
「いーだろ、姉ちゃんも淋しいんだろ、俺が一緒にいてやるからよぉ」
勝手に決め付けられ、怒りが生まれる。ここまで自分中心の妄想世界を作り出すのだと思うと、お酒とはなんと恐ろしい。酒は飲んでも飲まれるなとは、まさにこの事かもしれない。
「困りますっ」
男を押しのけながら、いっそ立ち上がってしまおうとしたら、逆にもっと力を加えられた。
ごっ、と、ベンチの上で押し倒されて、私の頭がベンチのひじ掛けと鈍い音を立てる。
激しい突然の痛みに、思わず涙がにじむ。その後に状況を再認識して、頭の中がぐるぐる稼働し始めた。
これはまさに赤塚に教えられた状況である。どうすればいいのだったか、と記憶を辿り、とにかく蹴ればいいことを思い出す。運のいいことに、まだ足の自由は奪われてない。普段着ている丈の長いドレスでないことも幸いした。
男の体の下に足があったので、そのまま勢いよく膝を持ち上げると、ちょうど男のお腹にヒットした。
「ぐへっ」
なんとも哀れな呻き声を上げて、男は上体を起こして腹を抱える。私の上に馬乗りになっている状況。片足を男の下から引き抜いて、そのまま胸の辺りに思いっきり蹴りを入れる。
「うげっ」
そのままのけ反って、男はベンチから転げ落ちる。的確に対処し、思っていた以上の打撃を与えられた自分に、満足する。赤塚の教えが昨日の今日で、これほど役に立つとは思わなかった。
流石にこれで立ち呆けるほど馬鹿ではなく、男が尻餅をついている間に逃げようと、急いでベンチから離れる。しかし、意外に男は早く立ち上がって大股で近付き、逃げる間もなく容赦のない強い力で手首を掴まれた。
「やり過ぎだろ……あぁ?」
明らかに怒っている。そのままそばの建物の壁に押し付けられ、また頭をぶつける。これ以上馬鹿になったらどうしてくれるのかと、男を睨み付けた。お酒臭い息が顔にかかる。
「は、離してください」
また蹴ることも考えたが、これ以上蹴ったらどれだけ怒り狂うかわからないので、次の手段に打ってでる。
「……きゃあああああ!!!殺されるぅーーー!!!」
殺されはしないだろうけど、この際構わないだろう。かなり棒読みだが、声さえ出てればいい。
「……っ耳元で叫ぶな」
効果があったようで、耳を抑える男。
「誰かーー!!誰か助けっ、っんぐ」
後一押し、と叫ぶ途中で、片手で口を塞がれた。
「叫ぶなよ、人が来るだろ」
私は忠実に教えを実行する。
「……いっ!!」
重いっきりその太い指に噛み付いた。男の力が緩んだその隙に、壁と男の間から抜け出して、とにかく走る。
しかし。
「うそっ!!!」
まさかの行き止まりに、自分の運の無さを呪う。まだぼんやりとした視界のため、壁が手前に来るまで気がつかなかった。大通りに出たつもりだったのが、真逆に走って来てしまったらしい。恐る恐る振り返ると、絶望的な状況がはっきりとする。
「もう逃がさないからな……」
「……っ!!」
そのまま行き止まりに追い詰められる。急に男が手を突き出して、口を覆う勢いのまま、私の頭を壁に、がん、と押しつける。また、同じ所を打った。
男も学んだらしく、噛み付けない様に、口を布の上から覆われてしまっていた。私に蹴るやら噛み付くやらされて、酔いが覚めたらしく、呂律の回らなかった口調が嘘のように、ただ低く苛立った声。
「散々なめやがって……お返しはたっぷりしてやるからな」
蹴ろうとしたら避けられて、そのままバランスが取れずに、完全に男に間を詰められた。それでも身をよじって抵抗すると、男の舌打ち。
「めんどくせぇ」
小さく呟く。
「……んうっ!?……」
首に手をかけられた。緩く緩く力が込められていく。
「安心しな、殺しゃしねぇよ。おとなしくしてもらうだけだ」
そう言われても、苦しいものは苦しい。首を絞める男の手を引っ掻くが、びくともしない。首を絞められたときの対処法まで、流石に赤塚には教わっていなかったし、教わっていたとしてもそれが実践できたかは怪しい。
赤塚でも想定できないことがあるのだな、と、どこか場違いな事を考える。頭がぼんやりとして、上手く回らない。これは、死なないからなのかもしれないし、死ぬからなのかもしれない。
意識が朦朧としてくる。
ぼやけた視界が更にぼやけて白んでゆく。
「……うがっ……!?」
男の、今まで聞いた中で一番苦しげな呻き声が聞こえたと思ったら、首から手が離れた。そのまま男の影が崩れるように横に倒れる。
押さえ付ける力がなくなっても、もはや、自分で立つ力は残っていない。そのままへたりこみかけて、誰かに体を支えられた。
見上げると、見慣れた赤い目が、日の光の逆光の中でも、ぼんやりと見える。
「……赤塚……」




