苛めた
雑音が、耳障りだ。
遥祈は、相手の言葉を理解しながら、頭の端でそう思った。
元の世界程には技術が発達していないこの世界での通信機は、クリアな音声に慣れている耳にとっては、この上なく扱いづらい。雑音が不断に流れて相手の言葉を聞き返す事は、ここでは当たり前。よくこれで、今までこの天宮遥祈は煩わしさを覚えずに会話していものだと、感心をしてしまう。
『……うしたの?』
「いいえ、ちょっと雑音がうるさくて」
向こう側の瑠依の声も遮られがちで、長い言葉の最中は聞き直すこともざらだった。その煩わしさに向こうも共感を覚えているのか、苦笑した声が微かに聞こえる。
『俺はだいぶ慣れたけどね』
貿易商の若旦那という身分におかれては、やむを得ず通信機での商談もたくさんあるのだろう。毎日屋敷で夫や使用人と過ごし、時折パーティーに出席し、たまに夫の仕事の書類処理を手伝うだけで事足りて、通信機をあまり使わない自分とは違う。
夫。
何とも言えず奇妙な感覚だ。元の世界の自分にとっては見たこともない他人を、こちらの世界ではちゃんと夫として受け入れられている。それだけではなく、こちらの世界での記憶も在って、元の世界では経験すらしなかった事も、こちらの世界での経験の記憶があれば、その通りに振る舞える。ダンスなんて踊ったこともないのに、こちらの自分がちゃんと知っている。二人の人間が一つになって、互いの記憶、能力、経験、感情全てを引き出せる。客観的に考えれば、かなり能力の高い人間が出来上がっているのだが、どうにも馴染めない。
そもそも、この世界の存在が不可解なのだ。
「で、要がその女とした会話はそれで全部なのね?」
『要に記憶違いと物忘れがなければ』
まぁ大丈夫だよ、と瑠依は付け加えた。
「次に来るのは、どちらへかしら」
女の言葉から考えたら、遅かれ早かれ自分と瑠依の元へも来るはずだ。
『さぁ……要曰く、適当の様だけど』
「……私の方が、先の気がするわ」
『何故?』
瑠依が小さく笑って問うたので、遥稀は正直に答える。
「何となく」
『珍しいね、遥稀が勘でものを言うなんて』
「今は勘以外に頼れないもの」
訳のわからないことばかりよ、と愚痴を零してみる。
『確かに』
瑠依は割と平気そうな口調だが、そこは長年の付き合いで、疲れが滲んでいるのがわかる。
もう、一ヶ月半になる。
焦燥感に駆られているのは、自分とて同じだが、だからこそ、瑠依がそれをどれほど味わっているのかがよくわかる。彼にとっては鈴音が、唯一の拠り所であるのは、遥祈もよく知っている。
「……女が来るのは、私が先なのではなくて、瑠依、あなたが最後だと思うの」
勘の源は、そこにある。微妙なニュアンスの違いだが、瑠依にはその意図が伝わるのを、遥祈は確信していた。
『俺が?』
数瞬の間があって、瑠依が聞き返す。白々しい言葉に、少々意地の悪いことを言ってみたくなる。
「……わかってるでしょう?」
『……何が?』
微妙に強張った瑠依の声。
「……私や要では、ゲームを終わらせられない」
『……それは、知らなかったな』
十分な間を空けて、瑠依が口にした言葉は、あくまで白々しいままだ。
そう?と返してみると、瑠依の苦笑が雑音に混じって聞こえる。
『俺、いじめられてる?』
「そう思うならきっとそうね」
ひどいなぁ、と言う言葉に重なって、若旦那、と呼び掛ける声がした。
『ごめん、じゃあまた。勘によるとそっちが先だから、女が来たら連絡して』
「ええ」
返答を待つか待たないかで、ぶつり、と、雑音と共に向こうの音が聞こえなくなった。
「……いつから来てたの?」
通信機を切った瞬間に感じた気配に、遥祈はゆっくりと振り向いた。
赤い髪に青い瞳に、長身によく似合う黒いドレス。
「今さっきよ」
心底楽しそうに、女は艶やかに笑った。