学んだ
頭のすぐ両側のマットの上に、赤塚が手をついている。何故か既視感を覚えたがそれを考えている場合ではなかった。
「……な、なに?」
瞳の赤が、ぼやけた視界の中でも分かるほどに近くに赤塚の顔がある。
「……例えば、です。こういう事が起こらないとも限らないんですよ」
「……こ、こういう、事……?」
ダンスの練習中ということは、パートナーもろとも転んで怪我をしかねないという事だろうか。
「……言っておきますが、ダンスの練習中に転倒する、という事ではありません」
違うらしく、じゃあ何なのだ、と表情で訴えてみる。
「……暴漢に襲われる、ということです」
「え、どこに暴漢がいるの?」
あのダンスホールのある建物の入り口には屈強な門番がいるから、危険な者は入ってくることは出来ないはずだ。
「例えばカイゼル様も、場合によってはなり得ます」
「流石に暴力はしないと思うけど……」
寧ろ喧嘩すらしたことないのではと疑う。正直に失礼なことを言えば、弱そうだ。
私の言葉に、赤塚が溜め息をつく。
「意味、わかってますか?」
「へ?」
「暴漢に襲われる、という意味です」
「……ぼこぼこにされる。……じゃ、なくて?」
「…………」
「あれ、違うの?」
赤塚がこれ以上にない程、言葉に困っているようだ。珍しいものを見た、とそうさせている自分を棚にあげてしみじみと思う。
「……今私がその暴漢だとしたら、鈴音様は貞操の危機です。これならご理解頂けますか?」
「てっ、ていっ……」
赤塚の丁寧すぎる説明に、私は慌てる。やっと意味が理解出来た途端、いつものごとく混乱が始まる。
「じ、じゃじゃじゃじゃ、っなんで、こんな体勢になななっ……なってるの?」
「わかりやすいかと思いまして」
「なっ何言って……」
「ご安心ください、何も致しません」
「あ、当たり前っ!」
完全にからかわれている。
「前からご注意申し上げようと思っていたのですが」
赤塚が、顔にかかっていた私の髪を一束持ち上げて、多分、唇に持っていった。まるで髪にキスするかのようにと、自分で考えておいて、焦り、顔に血がのぼっていく。
「……ちょ、ちょっ、ちょっ、あ、赤塚っ!?」
これも、からかいの内なのか赤塚は真剣な様子を崩さない。ゆっくりと冷たい指先で、私の頬に触れる。
「貴女は無防備すぎます」
「む、無防備?」
「隙が有りすぎます」
気が抜けすぎということだろうか。
「確かにぼけっとしてることは多いですけど……」
「自覚があるなら気をつけて下さい。そうでないとこの様に簡単に押し倒されて終わりですよ」
「か、簡単にって……誰が、そんなことするの?」
カイゼルだっていくらなんでもそこまでしないと思う。
「……何が起こるかわかりませんから」
曖昧に赤塚は言葉を濁す。
「……赤塚は、何をそんなに心配してるの?」
まるでこれから起こることを予想しているかのような真剣さに、ぼやけた視界の中、赤い瞳を見つめ返す。赤塚が小さく笑う。
「私はいつも貴女の心配ばかりしていますよ」
そそっかしいですから、と付け加えられる。
「うぅ……」
言い返せないでいると、赤塚が話を変える。
「鈴音様、自分がどのように会話の相手をご覧になっているかお気づきですか」
「ど、どのように……って?」
変な顔でもしているのだろうか。
「無意識なのだと思いますが、話す時、ずっと相手の顔を見つめ続けていますね」
「え……そう?」
全然自覚がなかった。
「おそらく、はっきりと見えない為に、無意識にもっとよく相手の顔を捉えようとして見つめるのでしょう」
「……なるほど」
確かに、言われてみればそうかもしれないと、自分の挙動を思い返す。事情を知らない人にとっては、まじまじと顔を見られたら、失礼だと思うだろう。気をつけなければ、と一人で頷くが、この認識は赤塚のそれと食い違っていたらしい。
「気をつけて下さい。勘違いした男が調子に乗らないとも限りません」
「……へ?……勘違い?調子に、乗る?……って?」
何がどうしてそうなるのか理解が出来ない。
「…………」
また赤塚が言葉に困っている様子。
「……失礼だからなんじゃなく?」
遠慮がちに言ってみる。
「……ああ、そうですね、そういう事にしておきましょう。失礼だと思われてしまいますから、注意してください」
私のあまりの理解力の無さのせいで、説明を省略されてしまったらしい。すっきりしないけど、とにかく、見つめないように気をつければいい訳だ、と自分に言い聞かせる。そうして、はたと気がつく。
「あの、赤塚?」
「何でしょうか」
「いつまで、この体勢?」
あんまり意味がないと思うし、私は寝転がっているだけだからいいが、ずっと手で上体を支えている赤塚は大変なのではないだろうか。おそらく位置と体勢から考えると、ベッドのすぐ傍らに立って上体を倒している状態。結構な腕の筋肉が必要なはずだ。
「ここからが本題です」
私の心配を余所に、涼しげに答える赤塚。ちゃんと腕の力があるのか、我慢強いのかどちらかなのだろう。
「……本題って?」
更に何かあるらしい。
「万が一、この体勢にまで迫られてしまった場合の、対処の話です。教えて差し上げますから、しっかり覚えておいてください」
「そ、そこまでする必要が……?」
石橋を叩いて渡るという言葉があるが、いくらなんでも叩きすぎでは?と思う。
「事が起きてしまってからでは、遅いんです」
私の考えなどまともに取り合ってくれない様子だが、赤塚はいたって真面目な口調のままだ。
「いいですか、まず身動き出来なくなる前に、危ないと思ったらどんなことをしてでも、逃げることを第一に考えてください」
「ど、どんなことをしてでも……?」
「まぁ、躊躇う事なく、急所を蹴るのが一番効果的でしょう」
そんな物騒な、非紳士的な教育をよもやされる日がくるとは思わなかった。
「鈴音様は足がお速いですから、逃げるきっかけさえ作れれば良いのです」
「そ、そうですか……」
「そうです。ですから、足の自由を奪われないように気をつけて下さい」
「足の自由?……骨折られちゃったり?」
「……それではただのリンチです」
なかなか物騒な事を考えますね、と赤塚に呆れられた。他に何かあるのかと、思考を巡らそうとする前に、赤塚が口を開く。
「こういうことです。……試しに私を蹴ってみてください」
「へ?……いいの?」
蹴ってみろだなんて、言うことがまずおかしいのだが。
「ええ、お気兼ねなく」
少し楽しそうな気配を赤塚から感じとる。とりあえず、遠慮なく蹴らせていただくことにするが。
「……あれ?蹴れない……」
それもそのはず、赤塚がいつの間にか、ドレスの上から私の足の間に片足を差し入れているのだ。それでドレスの開き具合が制限されて思うように足が動かせない。赤塚のもう片方の足も、両足の間に位置しているので、頑張って動かしても空を蹴るだけで赤塚に当たらない。足を振り上げるにも、赤塚が上体を倒してるから不可能だ。
「うぅ……悔しい~」
「……本気で蹴るつもりでしたね。まぁいいですが」
赤塚の勝ち誇った感じが余計に悔しさを増長させる。
「それで、わかりました?」
「……何を?……あ、はい、わかった、わかりましたっ」
悔しさで忘れかけてたが、また赤塚に呆れて言われる前に思い出した。なるほど、これが足の自由を奪われる、ということか。
「こうされないようにするにはどうしたらいいの?」
されたことすら気付かなかったのに、防ぐ術などあるのだろうか。
「される前に蹴って逃げることです。頑張って足を閉じていようとしても、力で敵うはずありませんから」
一にも二にも、とにかく蹴れば良いわけだ。
「……もっと効果的なのはないの?弱い力でも腕ねじったり出来る護身術とか聞いたことあるけど」
「俄かづくりでは到底、咄嗟に出来る程身につきませんから無駄です」
「そうなんだ……」
護身術というものに憧れを持っていたので、少し残念だ。
「では、もしこの体勢まで持っていかれてしまった場合ですが」
段階を踏んで色々な対策があるらしい。
「叫び声を上げてください」
「……きゃ~、って?」
意外と安易だった。
「はい、金切り声でなるべく相手の耳元で」
「なるほど」
確かに効果はありそうだ。
「口を塞がれてしまった場合は、噛みついて結構です」
なかなか野性的で、貴族令嬢たるものそのような振る舞いが許されるのかがふと気になったが、遠慮していてことに及ばれたら元も子もないということなのだろう。
「とにかく抵抗し続けてください。助けが来るように声を上げて、時間を稼いで、何をされても諦めないで」
「はーい」
つい呑気な返事をすると赤塚がまたしても溜息をついた。
「緊張感が皆無ですね」
「だって」
実感が沸かないのだから仕方ない。
「……少し緊迫してみます?」
「へ?どうやって?」
答えを貰う前に、適当に投げ出していた両手を、手首の辺りで掴まれてそれぞれにベッドに押さえ付けられた。
「ちょっと、赤塚……?」
赤塚は答えない。既視感、ではなくはっきりと前の記憶と重なる。相手は赤塚でなく、前に背にしていたのは木で、今の体勢より90度違うけれども、今はもっと危険な図、のように感じるのは気のせいではないのだろう。
前に嗅いだことのある微かな香水の匂いがして、元々近かった赤塚の顔が、更に、徐々に、近くなっていくのが分かる。混乱して身体が強張って、何も出来ない。思わず眼を閉じたその時、手の拘束が解かれて赤塚の気配が遠ざかり、苦笑を含みながらも楽しそうな声が降った。
「どうです?緊迫しました?」
「……~~~~っ」
はっと我に帰って事態が飲み込め、格段に膨れた悔しさで、思わず上体を起こす勢いに任せて赤塚を蹴るが当然避けられる。
「その分なら暴漢もちゃんと蹴れそうですね」
依然楽しそうな赤塚。
「……ムカつくっ」
「せめて腹が立つと言ってください」
「……~~~っ。……ちょっと、もう、何今のっ!からかわないでっ」
ベッドを思わずばんばん叩いてしまう。
「おや、そのままして欲しかったんですか?」
「そんな訳あるかっ!!……って、ぅわっ!!」
気が済まずに立ち上がって、赤塚に近付こうとしたら、ドレスの裾に足を取られた。すんでのところで赤塚に支えられる。
「申し訳ありません、私も冗談が過ぎました。ですが、どんな時でもお足元には十分お気をつけください」
「うぅ……」
明らかに笑みを含んでいるのに、さらりと素直に謝られては、怒りを持て余すことしか出来ない。しかも、転んでそれを助けられたからには尚更。つくづく私は阿呆だと思う。それでもやはり悔しいので、支えるために出された腕を、ぐっと力を込めて握って、うんと赤塚を睨んで言ってやった。
「……明日下町に連れていってくれたら許す……」
すると赤塚が笑って睨む私をのぞきこむ。
「それで許しがこえるのならば、喜んで、お連れしますよ」