押し倒された
「失礼します」
赤塚だ。それを合図にするかのように、杏奈が立ち上がる。
「ど、どうぞ」
答える声がどもってしまった。杏奈がああいう事を言うから、変に意識してしまう。ドアが動いて、背が高くて黒っぽい人が入ってくるのがぼんやりと見える。
「眼のお加減はいかがですか?」
「……普通、くらい、かな……?」
もうちょっとまともな返事が出来ないのか、と自分で呆れる。
「?……何かありましたか?」
「い、いいえっ、何でもっ?」
あはは、とごまかすために笑ってみる。これで赤塚がごまかされたとは到底思えないが、とりあえず追及しようとは思わなかったらしい。
「なら宜しいのですが。……杏奈さん、厨房に行ってもらえますか、料理長が呼んでいます」
「わかりました。それでは鈴音様、失礼致します」
杏奈のこの切り替えはすごいと思う。
「う、うん、いってらっしゃいっ」
手を振ってみると、杏奈は一礼し、出て行った。
赤塚はお茶を持ってきていてくれたらしく、机の上にお盆を置く音がした。ポットやカップは部屋の景色に馴染んで判別が出来ない。黒い服の裾から伸びる、赤塚の大きな手が動くのだけが、ぼんやりと見える。
「……し、仕事、終わったの?」
言ってしまってから私の世話も仕事のうちだと気付く。
「ええ、予定より早く片付きました」
赤塚は特に気にした様子もなく、普通に答えてくれる。
「……ね、赤塚」
ちゃんと確認しようと決めた。
「何ですか?」
「……16になったら、貴族の女は必ず婚約しなきゃいけないって、本当?」
赤塚の手が一瞬止まるが、すぐにまたお茶を入れる動作を開始しながら口を開いた。
「……通例、そうなります」
「……17歳になる前に?」
期限一年間の間に婚約者を決めるなんて、そう簡単に行くものだろうか。
「17をすぎてからご婚約なされる方々もいらっしゃるようですが、少数です」
赤塚がお茶の入ったカップを手に握らせてくれた。心地よいほどに冷ましてあるカップから伝わる熱を感じながら、考える。
少数ということはつまり、おそらく、17を過ぎてからでは好ましくないということ。揚羽の家のことを考えたら、やはり、私も一年の間に婚約者を見つけなければならないのだろう。私が選り好みをする以前の問題で、貰い手がいるだろうかという不安に駆られる。
「……むり」
「そうおっしゃらずに」
赤塚は私の呟きを捕らえ間違えているようだ。私がどうのこうの言うのではなく。
「……お見合いって、じゃあ、16歳になってから、一年間で、しまくる、ってこと?」
「気に入るお相手が見つからなければ、沢山する事になりますね」
こっちは真剣なのに、赤塚は何故かおかしそうな、呆れたような笑いを声ににじませている。もはや、私は、注いでもらったお茶に口をつける気にもならないというのに。
「……じゃあ、いくらしても、どのお見合いも上手くいかなかったら?」
「それはつまり、17歳を過ぎてもいつまで経っても婚約が決まらなかったら、ということですか?」
赤塚は、質問を畳み掛ける私に、おもしろそうに聞く。だから笑い事じゃないのだと、怒りたくなる。我慢してそういう思いを口に出さずに頷いた。
「結婚せずにいる貴族の女の人は、白い目で見られるでしょう?でも、好きで結婚しないわけじゃなくて、出来ない人だって、きっといるでしょう?」
例えば私とか。
赤塚は漸く私が何を必死になっているのか悟ったようで、真面目に改まった口調で返事をした。
「……確かに世間的には、結婚しない貴族の女性は汚点とされてしまいます。ですのでその場合、修道女になられる方が多いと聞きます」
「何それっ!絶対無理!」
結婚出来る気はしないが、私に修道女が勤まる気はもっとしない。
私の反応に、赤塚が笑う。
「鈴音様がそうなる訳ではないのですから」
何を呑気な事を、と思う。
「だって可能性、十分あるでしょう?私なんて最たる候補者っ」
「あまりご自分の価値を過小評価しませぬ様に」
赤塚が教育係な口調で言うが、何の気休めにもならない。
「……だから、ダンスは大切なのね?」
お見合いで断られない第一歩は、ダンスでしくじらないこと、なのか。
「ええ」
赤塚の肯定に、顔がひくりと引き攣るのが分かった。
「……いーやーだー……」
「始めから逃げ腰でどうするんですか」
赤塚の呆れたような声。
いくらなんでも修道女にはなりたくない、というか、神様の方から嫌がると思う。婚約も正直、したくないが、致し方ない。家族ぐるみで恥とされるのは死んでも我慢できない。こうなったら何がなんでもダンスをマスターするしかない。ダンスさえ上手ければ、器量とかそれ以外の要素はどうでも良いっていう人も一人くらいはいるはずだ。
「赤塚っ、私ダンスがんばるっ!」
「やけに切り替えが早いですね……やる気になるのは良いことですが」
「そうだ、それで赤塚、レッスンのこと、なんだけど」
忘れないうちに確認しておく必要があった。
「もうちょっと眼が見えるようになったら、また通い始めたいんだけど……」
「……家に、別の講師を呼んではいかがですか」
赤塚も杏奈と同じ事を言う。
「別に今すぐって訳じゃなくて、自分の事は自分で出来るようになってからだよ?」
赤塚はすぐに答えてはくれず、何かをじっと思案している様だった。
「……危険です」
「どうして?犯人が捕まらないから?」
けれどそれならば、他の生徒だって同じだし、警備の兵を新しく雇った話も聞いた。
「その事では、ありません」
珍しく赤塚がはっきりものを言わない。
「何か他に、あるの?」
私にはさっぱり見当がつかない。
「……前に、カイゼル様に迫られた事がありましたね」
「……ありましたけど」
そういえば忘れかけていた。赤塚がその話を持ち出したのは初めてだ。
「私が心配しているのは、その類の事です」
赤塚が、一向に口をつけられることのないカップを私の手から離して、ベッド横のミニテーブルへ置く。
「そ、そのたぐい……?」
「……例えば、です。失礼」
何が失礼?と問う前に、そのままベッドに押し倒された。