戸惑った
「眼鏡かけてる人が眼鏡外すと、こんな感じなのかな?」
停電した日から更に数週間が経ち、私の眼は徐々に見えるようになってきた。今では、何となく、ぼやっとした人や物の影が、見える。全て手探り状態に較べたら、何となく物や人の位置がわかるだけ、だいぶ動きやすくはなったが、まだまだ一人では生活出来ない。仕事を覚えるのが早く、よく気のつく杏奈の存在は、とてもありがたかった。何より話相手になってくれるのはこの上なく嬉しいものだった。
朝食が終わって、部屋の掃除をし終えて少し時間に余裕の出来た杏奈に、私は話しかけた。
「かもね。ただ、眼鏡の人は、近くのものの方が見やすいとか、逆に遠いところの方が、とか、あるみたいだけど」
杏奈はそういいながら、手を、私の顔の目の前に出す。その手が、パーなのかグーなのかチョキなのかは、判断は、つかない。
「近眼っていう遠くのもの程見にくくなる人達は、このくらいの距離のものは、はっきり見えるみたいよ」
「へぇー」
杏奈は私よりもずっと物知りで、色々な事を教えてくれる。
「この調子でいくと、後2、3週間もすれば、ちゃんと人の区別はつくようになるんじゃない?」
杏奈は私の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「杏奈は、綺麗なオレンジの髪があるから少し遠くてもわかるよ」
鮮やかなオレンジの色は、遠くからでもわかる。他の人は、金だか銀だかよくわからないので、全体の服の色や、背の高さで何となく判別する。例えば、黒くて背か高いのは赤塚、私よりも背が低いのは茜、といったように。
「この色って、意外と便利なのね」
杏奈は少しおどけて言って、笑った。
「レッスンはどれくらいで行けるようになるかな……」
私がぼやくと、杏奈の動きが少し止まった、ような気がする。
「……ダンスのレッスンに、また通い始めるつもりなの?」
「?……うん、そうだよ?」
回復の兆しが見えたので、成人パーティーに出席することは、皆の前でちゃんと宣言してある。視界がある程度ぼやけていても、ダンスは出来るからだ。レッスンに通わなければパーティーには出られない。
「……別のダンスの先生をここに呼ぶ、とか、その方が良いんじゃない?」
「どうして?」
ダンスが出来る様になる程視力が回復すれば、周りに迷惑をかけることもあまりないと思うのだが、杏奈は何か言い淀んでいる。
「……鈴音、あんた本当に、覚えてないのよね?」
「え?何を?」
うっかり記憶の彼方に消却してしまったものならたくさんある、気がするが。
「怪我した時のこと」
「……うん」
それなら、何度も思い出そうとしたがどうしても駄目だった。
「……鈴音……」
杏奈が私の肩に手を置き、とん、と自分の額と私の額を合わせる。
「心配なのよ。また、怪我したらなんて考えると」
「杏奈……」
杏奈の言葉に、思わずじーんとしてしまう。
「ごめんね」
謝ると、杏奈が額を離して私の目を覗き込む。瞳のオレンジが、ぼんやりと見える。
「ほんとにそうよ。もう、血まみれのあんた見て、心臓止まるかと思ったわ!」
「杏奈も、駆け付けてくれたんだ」
「当たり前よ、すごい音だったんだから。駆け付けたら、紺色君は狂ったようにあんたの名前叫んでるし、この前ついてきたダンスの金髪先生はあんた抱きかかえて怒鳴ってるし」
「そんなにすごい状況だったんだ……」
知らなかった。紺色君とは、どうやら髪の色をさして、カイゼルの事を言っているらしい。少し意外だが、彼もさすがに驚いたのだろう。先生の怒鳴った所は、ちょっと見てみたかったと残念に思う。
「そうだ、ミーシェは?もう一人いたでしょう?」
箱入りご令嬢に、血の海は刺激が強すぎたに違いない。
「…………」
「杏奈?」
押し黙る杏奈。私はピンと来てしまった。
「ねぇ杏奈、やっぱりそうなんでしょう?」
「え……?」
ぎくっとした感じの杏奈に、やっぱり、と思う。
「ミーシェも、怪我したんでしょう?もしかして私よりも酷い怪我したんじゃ……―」
「そんな訳ないでしょう!?」
杏奈の怒った声に、思わずびくりとしてしまう。
「ご、ごめんなさい……」
またあらぬ勘違いをしてしまったらしい。
「…っ、ごめん、違うの、あんたは何にも悪くないの。あんたは、悪くないのに……。怒鳴ってごめんね」
杏奈は慌てた様に言って、ぎゅうっと抱きしめてくる。何がなんだかよくわからないけど、とりあえず、私が何かしくじってしまった訳ではないようで、ほっとする。
「あの子、ミーシェって子は、本当に無傷よ。あんなにガラス飛び散った中で本当に不思議なくらい。だからあんたが心配する事は全くないの」
「……うん、わかった」
杏奈も先生も言う様に、ミーシェの事は本当に心配なさそうだ。
「レッスンの事は、一度、赤塚さんに話してみるのがいいわ。あの人なら的確な判断が出来るはずだから」
そういえば確かに、赤塚には今後のレッスンの事については詳しく話していない。因みに今、赤塚は、用事で出掛けている。私の事だけに全力を、とそれ以外の仕事を免除された赤塚だったが、杏奈が来てくれた事もあって、どうしても赤塚にしか任せられないと言われる服飾商の方の仕事もするようになった。執事に教育係に、服飾商の重役。いつ寝てるのかと思ってしまうくらいに赤塚には仕事がたくさんある。
私は負担をかけてしまっている。
「どうしたの?急にぼーっとして」
「……へっ!?うん?い、いや、なんでもないよ?」
杏奈に尋ねられてはっとして慌てて首を振ると、杏奈はふふっ、と笑った。
「赤塚さんがいなくて寂しい?」
「……………………はい?」
予想すらしなかった杏奈の言葉をうまく飲み込めずに、たっぷり間を空けてしまった。
「あら?違うの?」
「違うも何も……杏奈の言ってる事がよくわからないんだけど……」
どうにも杏奈の言ってる事がつかめずにいると、ため息をつかれた。
「……鈴音は、いいなって思う男の人とかいないの?」
「……背が高くていいなーとか?」
「……羨ましいの意味でのいいな、じゃなくて」
「……他にどういう意味があったっけ?」
杏奈が呆れている空気が伝わってくる。
「……もういいや、好きな人とかいないの?」
いきなり単刀直入で言われ、そこでやっと『いいな』の意味を理解出来る。
「……好きって、そういう意味でのだよね?」
「そう、ああゆう意味でのじゃなくて、そういう意味でのよ」
変な会話だ。
「……いるわけないよ」
考えたこともない。
「だと思った」
ならば聞かないでほしい。
「何で急にそんな話?」
唐突な話に、始めの会話の内容が既に思い出せなくなっていた。
「婚約者どうするのかと思って」
「ここここ、婚約者?!」
さらっと何でもないことの言われてどぎまぎする。
「だって、もうすぐ16でしょう?『貴族女の婚約は成人と共に』って、庶民の諺にあるわよ」
「それどんな時に使うの?」
「庶民の女も、婚約には早過ぎるけど、16になれば立派な大人ですよ、って諭す時」
なるほど、と、感心した後、我に返る。
「でででっ、でも、別に全員が全員16歳になったら婚約しなきゃいけない訳じゃないよね?」
そうだったら、困る。貴族の娘がいずれは結婚しなければならないのは知っているが、16歳というその期限は一体どういうことだろう。助けを求める心境で杏奈を見上げたが、杏奈は手を差し延べてはくれなかった。
「違うの?てっきりそうだと思ってたけど」
「……えぇ……そう、なの?」
赤塚との話を思い返してみても、16歳で必ず婚約、等という話では無かったと思う。否、少なくともそんな話は出ていなかったと思う。
「そんな嫌そうな顔しないで、赤塚さんにちゃんと確認してみたらいいじゃない」
私は事情はよく知らないから、と、杏奈は肩を竦めている様な口調だ。
「どどどど、ど、どうしよう杏奈。もし本当にそうだったらっ……」
「まぁ、あんたの事だし、求婚者は多いんじゃないの?その中から選ぶしかないでしょ」
何だか適当な回答だ。
「そ、そんな無茶苦茶な……」
「だから聞いたのよ、好きな人は?って。好きでもない人を適当に選んで婚約出来る程、鈴音器用じゃないし」
器用でないのはその通りだから言い返せない。
「あの紺色君はどうなの?なかなかのご執心と見たわよ」
確かにカイゼルは結婚がどうとか言ってたけど。
「あの人は、自分の思い通りになりそうな相手が欲しいだけだと思う……」
「そう?」
「そうなのっ」
杏奈は立っているのが疲れたのか、私が座っていたベットに、並んで腰を下ろした。もっと早く気を利かせればよかった、と後悔していると、杏奈が呟く。
「そこまでガキじゃないと思うけどね……」
「え?」
「紺色君、ちゃんと気付いてるもの」
意味ありげな言い方。
「……何に?」
「女の嫉妬のえげつなさに」
嫉妬はさせておけばいい、とか言ってた気がするけど。
「……とにかくっ、あの人は好きになれないのっ」
最近、実はそんなに悪い人じゃないかもなんて思った事もあるが、それを足しても、そういう風には見れない。
「あらそう。……だったら」
杏奈が、さもいいアイディアがあると言わんばかりに一度言葉を切る。全く見当はつかないけど、なんだか嫌な予感がする。
「赤塚さんに逃げるって手もあるわよ」
「…………逃げる、って、いうのは……?」
「だから、赤塚さんと婚約するってことっ!」
杏奈は私の肩をぱしっと叩く。こんなに滅茶苦茶なことを言う子だっただろうかと、脱力するしかない。
「……あ、あのねぇ杏奈。いくらなんでもそれは……―」
「あら、13の歳の差なんてそんなたいしたものじゃないわよ」
すごく楽しそうな杏奈。
「そういう問題以前にですねぇ……」
「赤塚さん好きじゃないの?」
「……好きじゃなくないけど」
勿論そういう対象の意ではない。
「もー煮え切らないわね」
「そんなこと言われましても」
予想外どころの話じゃないから、急に言われて煮え切る訳がない。
「考えた方がいいわよ?」
結構真面目な口調に、思わず杏奈の顔をまじまじと見てしまう。
「どこの誰かもわからないような男と婚約するよりはずっと良いじゃない。貴族の出じゃなくてもあれだけ重宝されてるんだから、ご両親に異存はないでしょう?」
それも微妙なところだけど、何よりも。
「多分赤塚が鼻で笑う……」
馬鹿にされるだけでは済まない。
「そんなことはないと思うけど?」
「なんで?」
杏奈はどうしてこんなに断言出来るのだろう。そのくせ、さっきから根拠が出て来てない気がするのは気のせいだろうか。
「だって赤塚さんが一番大切なのは鈴音でしょう」
だからその根拠は何だ、と聞きたかったが、この言葉で、杏奈がてきとうなことを言っているだけなのはわかった。
「杏奈、それは違うよ」
「え?」
「この前教えてもらったの。赤塚には、ちゃんと別に大切な人がいるんだから」
「誰?」
杏奈がやけに訝しげだ。
「名前は知らないけど。その人の為に別の人と殴り合って、頬に酷い痣つくってたんだから」
杏奈が、ふーんと相槌を打って、くすっと笑う。
「それが誰かっていうのが問題よね」
杏奈が何が言いたいのかよくわからない。
「杏奈って、どうしてそんなに色々自信満々に推測出来るの?趣味人間観察?」
遂に我慢できなくなって聞くと、杏奈がけたけたと笑った。
「な、何よ、趣味人間観察って、あはっ」
「そこは流してくれればいいのっ」
うまくはぐらかされそうになるのを頑張って防ぐ。ぼやけているけれど、杏奈の顔をじっと見る。
「……推測じゃ、ないわよ?」
「え?」
杏奈が笑いを止めて、私に顔を近づける。
「……知ってるの、ぜーんぶ、ね」
そう言う杏奈に、何だか違和感を感じる。今まで見てきたどの時とも違う様な。
「……どういう意味?」
聞いても、杏奈は答えない。
先に、ノックの音がした。