現れた
賑やかな表通りとは一転、一つ横道に入ると、そこは物騒窮まりなく空気の淀んだ裏通り。元の世界であったなら、おそらく関わることも触れることもなかっただあろうこの空気に、こちらの世界の自分は馴染みきっている。
元々存在した自分によく似た人間の記憶に、要という自分の記憶が上から追加された、という感覚。
言いようがない違和感を抱きながらも要は、この世界に元々あった記憶では慣れ親しんだ、目的の店の前で足を止める。
色褪せた扉は見た目と反して、軋む音を立てることもなく、緩やかに開く。
「また来たか要」
店の奥のカウンターの向こうの、馴染みの顔がにっと笑う。
「来ちゃ悪いか?」
いつもの軽い悪態に、要は笑って返す。
「いいや、悪くねぇよ。でも聞いたぜ?」
日に焼けて体格が良く、顔にいくつも傷を持つ店の主は、葉巻をくわえながら細い目を更に細めて意味ありげな視線を送ってくる。
「何を?」
いくつも思い当たる節がある要は、わざとらしく肩を竦めてとぼけてみせる。
「最近付き合いが悪い、ってよ、リンが文句垂れてたぞ?」
「はぁ?絡み相手ならヒロがいるだろ?」
リンとヒロは同業者で、この店の入り浸り仲間である。
「ヒロは長丁場。東に行ってるよ」
「……東に?」
目下注目中のフレーズに、要は反応する。
「あぁ。……どうした?あいつに用事でもあったか?」
「今、出来た」
「なんだそれ」
店主の怪訝な声には気を止めず、要はカウンター隅の通信機に手を伸ばす。
「あいつ無線持ってってるよな?」
「だろうけどよ……おい、一体何なんだ?」
「後で。今は時間が…………っ?」
慌てて通信機を操作しようとした手を、止めざるを負えなくなる。
突然の来訪者を目の前にした要の瞳には、警戒の色が混じるが、来訪者は、全く気にした様子もなく、要を見つめた。
「そんなに急ぐことないわよ?」
「……姉ちゃん、いつ店に入って来た?」
要が抱いた疑問と同じ質問を、店主がする。真紅の長いストレートの髪に、深いブルーの瞳。背が要と同じくらいに高く、露出度の高い黒いドレスを着て、楽しげに笑みを浮かべている女。要にも店主にも、入って来た気配を感じさせる事なく、いつの間にかそこに立っていた。
「うふ、今さっきよ。アタシ急に現れるの得意なの」
艶を帯びたその声は、明らかに状況を楽しんでいる。
「……俺に何か用?」
要は、警戒を解くことのないまま尋ねる。野性の勘が、底知れぬ得体の無さを感じていた。
「そう、要君のね、様子を見に来たの」
するりと出てきた自分の名に、要は不信感をあらわにするが、女はにこりと笑う。
「ほんとは、瑠依君か遥祈ちゃんが先でも良かったんだけどね」
「……っ」
自分とその名前の関連を知るのは、極々限られている。本人達か、あるいは。
「お前、赤塚の仲間なのか?」
女はふふっと笑って、首を横に振った。
「あの子達とは格が違うの」
「……わかるように喋れ」
もともと物分かりの良い方ではないが、女の言葉は要領を得ていない。自分達の図り知れないものが存在しているのは解ってはいるが。
「うふふ、無理よぉ、語り出したら一週間くらいかかっちゃうわ」
「……あっそ……」
要はそばのカウンターの備え付けの椅子に腰を下ろす。
「鈴音ちゃん達の事とは関係なく、要君には一度会っておきたかったのよねぇ」
「……?」
女は要の方へより近く歩み寄って、瞳をじっとのぞきこんだ。
「綺麗な黒い瞳」
吐息がかかり、花の様な香りが鼻腔をくすぐる。要は、女の意図を図り兼ねて苦笑いする。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ」
女はいたずらな笑みを浮かべて一歩後ろへ下がる。
「どうして自分だけ、世界を移動しても毛色と眼色が変わらないのか、不思議に思ったこと、ないかしら?」
女は一度言葉を切ったものの、要の返答を期待してはいないらしい。くすっと笑って、また口を開く。
「特殊だからよ」
特殊と言うならば、既にこの世界に居る事自体が特殊だ。女はその考えを読んだかの様に首を振る。
「言ったでしょう?鈴音ちゃん達の事とは関係なく、って」
「……俺が理解できないの分かってて喋ってるだろ?」
要は肩を竦めると、女は悪びれもせず、そうね、と答えて続ける。
「それにしても、意外と紳士ね。手掛かり持ってるかもしれないのに、掴みかかったりしないの?」
「……どうせ、教えるつもりないんだろ?」
掴みかかるなどとは考えもしなかったが。
「うふ、正解ね。……第一、アタシに触るのは宜しくないのよねぇ。危ないもの。鈴音ちゃんで失敗しちゃって反省したわぁ」
「鈴音に会ったのか!?」
思わず要が食いつくと、女はその反応に満足したようににっこり笑った。
「可愛いわよねぇ。あの子は魂から綺麗だわ。てゆうか貴方達四人とも、そうだわね。どの世界に行っても美形っ」
だから観察しがいがあるのよぉ、と女は心底楽しそうに言う。
「……鈴音で失敗したってどういう事だ?」
教える気があるのかは分からなかったが、そこだけはどうしても気になり聞いてしまう。
「大丈夫、鈴音ちゃんは無事。赤塚が上手く対処したみたいだから」
「……赤塚が、近くにいんのか」
予想はしていたが、癪にさわる。女は笑っていたが、急に何かに気付いたように、あ、と声を上げた。
「無事って言うのは、語弊があるかもしれないわねぇ」
その言葉に要が顔をしかめたのを見て女はわざとらしく肩を竦める。
「気になっちゃった?ふふ、あんまり気になるような事ばっかり言い残すのも生殺しよねぇ」
「……わざとやってんだろ」
要が欝陶しげに息をつくと、女はごめんねぇ、と笑った。
「でも、必ず会えるわよ」
「そうでなきゃ、困る」
女は、あはは、と笑った。
「健気ねぇ~、要君も瑠依君も遥祈ちゃんも、鈴音ちゃんも……赤塚も」
女はわざとらしく最後の名前を付け加える。
「……なんで、赤塚?」
一緒にされるのは気にいらない。
「ふふ、そんな恐い顔しないで?」
女は後ろへ二歩、三歩と下がって、立ち止まる。
「あの子も大変なのよ」
意味深な言葉を言い残す。
要が口を開くより先に、女はその場から姿を消した。
赤塚で慣れている要は、女が突然消えたことに驚く事もなく、ただ女の消えた空間を顔をしかめて睨んでいた。少しの間の後、いい加減そうしていても無駄だということに気付いて、身体の力を抜いて息をつく。すると、カウンターの向こうでガタッという物音。見れば顔を青くした店主が口をあんぐり開けている。そういえば存在をすっかり忘れていた。
「……マスター大丈夫か?」
少し申し訳ない気分になって問い掛ける。
「……何だ?今の……幽霊?」
店主はショックを受けた様子でたどたどしくつぶやいた。
「さぁ、俺もわかんね」
「わかんねって言ったって、お前に用があったんだろ?……例の人探し絡みか?」
鈴音、と、赤塚、という人物を探しているという話はしてあったので、店主はそれと悟ったらしい。さすがいくつもの修羅場を乗り越え店を切り盛りしていただけあり、肝が据わっている。少しずつ調子を取り戻しつつあるようだ。
「まぁ、そんなとこ?」
要が曖昧に返すと、店主はまじまじと要を見つめる。
「要、お前、人間?」
要は苦笑いする。先程までの自分なら笑い飛ばしていただろうが、得体の知れない女に、自分は『特殊』だ、と言われ、赤塚や女の仲間に認定されてしまった気分だった。とはいえ、彼らの存在が、そこまで、人間、という認識から離れているとは思えない。
そもそも、人間の定義なんて曖昧だ。急に消えたりしないのが人間、とも言えるし、人の形をしていて、血が赤いならばならば人間、と、おおざっぱに言ったって、そう的外れなものではないと思う。
らしくなく理屈を捏ねてみたが、段々と自分が本当は何者かなど、どうでもいい気がしてきた。とりあえず、自分の血は、赤い。
そんなことよりも、今の要にとってはずっと大切な事がある。
「言っとくけど、俺は急に現れたり消えたり、そんな便利な事は出来ないからな」
幽霊よりは、人間に近いんじゃねぇの?と言って、笑ってみせた。




