笑うのは
厨房への入口を隠すついたての影からテーブルの様子をうかがうと、そこには何だか異様な空気が漂っている気がする。おそらく私のせいだ。
「先生、カイゼル様、先程は失礼致しました」
声をかけると、二人同時に振り返り、笑い返してくれる。
「おかえり鈴音っ。いやいや私は全然構わないよ」
「さっきの給仕、同じ歳くらいだったしね。ここでは色々頼む事も出てくるだろうし」
あまり不審に思われていないようで胸を撫で下ろす。
「本当に申し訳ありませんでした」
いくら片方がカイゼルといえど、失礼な事をしたのは確かだった為、再度頭を下げた。
「本当に気にしなくていいよ。ほら、早く座って。料理が冷めるよ」
カイゼルはにこやかに立ち上がって、わざわざ私の為に椅子を引いてくれる。実はいい人なのかもしれない。失礼な事を考えてしまった、と少しだけ罪悪感を感じる。
一礼をして席につくと、後ろから声がした。
「やっぱり、カイゼル様に先生、それに鈴音様ではありませんか」
高くおしとやかさが滲み出るような声音。振り返ると、綺麗なブロンドの髪に、深い緑の瞳の、私と同じ歳くらいの、女の子。見覚えがあり、同じダンスのレッスンを受けている生徒の一人だと、拙い記憶を辿るが、名前は思い出せない。
「ミーシェ。また自主練習かい?」
先生の言葉にそうだった気がする、と思う。
「えぇ、昨日のダンスの復習をしておきたいと思ったものですから」
先生の言葉に、はにかみながら答えるミーシェは、とても可愛いらしい。いかにも貴族令嬢に相応しい立ち振る舞いだ。
しかも復習という単語に私との差を歴然と感じさせる。私が落ちこぼれなら、彼女は真面目な優等生といったところだろう。因みにカイゼルは優秀だが不真面目な生徒というところだろうか。我ながら何一つ優るものがなく、悲しくなる。
ミーシェはこちらを見て首を傾げた。
「カイゼル様と鈴音様も自主練習ですか?」
思わず視線を泳がせてしまう。
「……あー、ええ、まぁ」
強制というか、救済措置というか、自主と使って良いほど、殊勝な心がけではないので、思わず曖昧に答える。
「そんなところだよ」
カイゼルも曖昧に答える。ふと、ミーシェのこちらを見る目が何やら訴えたげなのに気付く。いや、正確には、カイゼルを見る目が、だ。
もしかして、と、予感がよぎる。
「あの、カイゼル様、宜しければ練習相手になっていただけませんか?」
目を潤ませて頬を染めるその仕草に、カイゼルのファンの一人であることが容易に知れる。
またとない良い提案に、私は心の中でミーシェを力強く応援した。
「悪いけれど、鈴音と約束をしているんだ」
しかしカイゼルはあっさりと断り、私は焦る。
「いえ、あのカイゼル様、私の事は忘れてください。先生もいらっしゃいますし、ミーシェ様との方がカイゼル様御自身の練習にもなりますし」
あまりに必死で自分の身振り手振りが大袈裟になっている気がする。
「でも君と約束してしまったし」
してない、と断固主張する前に、先生が口を挟む。
「是非そうしなさいカイゼル。鈴音は私がいるから心配ない」
口添えしてくれるのは有り難かったが、何故か私の肩を抱きながら言う。カモフラージュというやつなのだろうと、深く考えないことにする。
「……いいえ。気を使っていただいて有難うございます。ですが、やはり遠慮させて頂きます」
ミーシェは苦笑して首を振ってしまった。何とか引き止めようと、私が口を開く前に、ミーシェはぺこりと頭を下げた。
「では私、先にレッスンホールにいっております」
そうにっこりと笑いながら言って、踵を返して行ってしまった。
絶好のチャンスを打ち砕かれ、かなり落胆していると、少しの間の後、カイゼルがにこやかに言った。
「先生?」
「何だい?」
にこやかに答える先生。
「その手、いつまでそうしてるおつもりですか?」
そこでやっと、先生に今だに肩を抱かれていた事に気付く。先生は手を肩から離す気配を微塵も見せず、にこにこしたままだ。
「いつまでもこうしているのは駄目かい?」
「鈴音が迷惑しています」
笑顔を崩さず返すカイゼル。その言葉に先生は私をのぞきこんで、少し悲しそうな顔をする。
「駄目かい、鈴音?」
そんな、美の女神様の悲しみ、みたいな顔で見つめられたら、否定の言葉なんて出せるはずがない。
「だ、駄目ではないですけれど……」
「……けど?」
こっちが悪いことをしている気分になってしまい、言葉を続けられない。
「あの、宜しいでしょうか?」
救いとばかりに声の方へ顔を上げると、料理を乗せた台車を傍らに控えた杏奈が立っていた。
「料理、冷めてしまっていますようですので、新しく作り直したものとお取り替え致しますね」
そういえば、料理に全然手をつけていなかったことに気がつく。よく見れば、先生とカイゼルの前の料理も手付かず。食べずに待っていてくれたことに今さら気付き、申し訳なさが湧き上がる。何よりも、せっかく作ってくれたご馳走を無駄にしてしまい、心の中でおばさんへ頭を下げた。
「……あぁ、ほ、ほら、先生、こうしているとお互い、せっかくの料理が食べられませんから」
「うん、そうだね。食べ物を無駄にしてはいけないねっ」
ようやく言えた正当な理由に、漸く手を離す先生。
杏奈のタイミングの良さに、両側の二人に気付かれぬように感謝の視線を送ると、杏奈はさりげなくウインクを返してくれた。そうしてやっと、私は遅いお昼ご飯を食べることが出来たのだった。
ワルツの音楽を遮るように、三時の鐘が鳴る。
「はいじゃあ30分休憩っ。その後は今日の分の復習をしたら、そのまま平常のレッスンの時間に入るからね」
先生は三時の鐘でもぴったりと休憩をとる主義の様だ。
午前中からのぶっ続けの練習は、わかってはいたがかなり疲労が溜まる。カイゼルへの礼をしている余裕もなく、思わずすぐに、傍の壁にもたれかかってしまう。
「鈴音、大丈夫?」
さすがのカイゼルも真剣に心配をしているような声音だ。
「はい……大丈夫、です」
すると、少し離れた所で練習をしていたミーシェが、おずおずと近づいて来た。
「あの、鈴音様」
カイゼルじゃなくて、私なのかと首をかしげる。
「何でしょう?」
ミーシェは視線を泳がせて、上目づかいで見つめながら私の手を握る。あまりの可愛さに、少し照れてしまう。
「あの、鈴音様、鈴音様は……虫をお払いになること出来ますでしょうか?」
「……えぇと、虫がいてそれを追い払ってほしい、ということですか?」
遠回しな物言いに、言い直して確認すると、はい、と小さく頷くミーシェ。
「出来ますが……」
確かにおしとやかなお嬢様の様に、虫一匹に恐れをなすほど私の神経は細くない。でも何故私なのだろうとふと疑問をもつ。この場には私以外に先生とカイゼルという男性が二人もいる。それこそカイゼルに頼めば女の子らしさをアピール出来るチャンスだと思うのだが。
最も、貴族男性の二人が虫が平気なのかどうかは疑わしい。そういえば三番目の兄も、虫が大嫌いで叫び声すら上げて嫌がるのをふと思い出す。男だからといって虫が苦手ではないとは限らないが、女の私が苦手だという確率の方が高いと思うのだが。第一に指名してきたところから、もしかして私の神経の図太さが、既に周囲にばれてるのだろうか。
そんな事を目まぐるしく考えるが、ミーシェの言葉で一気に払拭された。
「女性更衣室にいるのです。それで、男性には頼みづらく……」
事情を悟り、安心する。
私は自宅から着替えてくるから使わないが、ちゃんと着替えを持ってきて、更衣室を使う人もいる。きっとさっき着替えた時に虫を見つけて、気もそぞろだったに違いない。可愛らしいな、と思いつつ、俄然何とかしてあげようとはりきった。
「わかりました。行きましょう」
「鈴音気をつけてね」
先程から何も言わなかったカイゼルがここで初めて言葉を発する。虫の話が出て来た時点で申し出て来なかったところを察するに、虫が苦手なのだろう。平気な人なら、気をつけてね、などとは言わない。そんなことはお首にも出さず、私は微笑みを返す。
「ご心配には及びません」
更衣室は建物の一番奥に位置していて、生徒個人の小さな個室が並んだ、広く使い勝手の良い部屋だ。個室は生徒なら誰でも与えられていて、私の個室も使われていないまま確保されている。一番奥に窓に面したくつろげるようなスペースがあり、虫はそこにいたらしい。何故私が使ってもないのに詳しいかというと、依然使っていたからだ。カイゼルファンからの、ダンスシューズの中に硝子片、という嫌がらせを受けてから、使うのをやめたのだ。
「……?」
不意に、何かが頭の奥で引っ掛かったが、それが何なのか分からずに首を捻るが、深く考え出す前に更衣室についた。考えるのを止め、扉を開けて中に入る。ミーシェは私の後ろに隠れるようにして後に続く。視線をあちらこちらに這わせながら進むも、何の虫だったのか聞いていなかった事に気がつく。
「どの様な虫でした?」
「なんだか黒光りする大きな虫でした」
調理場によく出現するやつだろう。何か叩き潰す道具を杏奈に貰ってこればよかったと後悔する。
「窓から出ていってもらえばいいか……」
ちょうど奥のくつろぎスペースが見渡せるところで一旦足を止める。カーテンは全開で、窓からの光が差し込んで、明かりをつけていなくても部屋が見渡せる。
「ミーシェ様、虫が飛んでくるといけませんから、ここで止まってください」
特にあの生命体はどこへ飛んで行くかわからない。
「わかりました。鈴音様、お気をつけて下さい」
「大丈夫ですよ。たかが虫です」
軽く請け合いながら、窓に近づいて、錠に手をかける。
「いいえ、虫ではなく」
どことなく、先程とは違う声音のミーシェの声に振り向く。
「え……?」
にっこり笑った、ミーシェがいる。
「窓際にはお気を付けくださいませ」
「どういう…………っ!?」
窓の外から物凄い勢いで、こちらに飛んでくる何かが視界の隅に入る。
当たる。
そう、思っても、足が咄嗟に動いてくれなかった。
耳をつんざく、ガラスの割れる音と、頭に走る、鈍い衝撃。
視界がブレて、後は。
ただ真っ白な世界。