恋をした。
梅雨が始まった。
雨が通り過ぎる度に暖かくなったり涼しくなったり、最近の気候はよくわからない。
薄っすらと暗さの落ちた夕方に、雨が地面を叩く音がする。
パチパチ、ピチャピチャ、サー、チャポン。
やさしい音だ。私は雨が嫌いじゃない。土砂降りになったり雷が落ちると怖いけど、このくらいの雨なら心地良い。降り始めは凄かったけど、もう大丈夫。
今私が居るのは、学校から歩いて十分くらいの場所にある公園前のバス停だ。
木造造りのベンチの下はコンクリートで一段上がっていて、上には大きな屋根がある。波打った鉄の板が三方向を包んでいて、こんな雨の中でも家の中と変わらずのんびりしていられる。
雨に濡れた土や木々が独特の匂いを放っていた。道路を流れる水が数えきれないほどの波紋を映している。公園の反対側には古ぼけた日本家屋が並んでいて、田舎と言うほど田舎でもないのに、この一帯が古い土地なのが分かる。
屋根を伝って落ちてくる水をぼうっと眺めた。
ベンチの背もたれに身体を預けて、膝を抱えながら文庫本の縁を撫でる。天井に取り付けられた電球がチカチカと点滅した。もう随分と前から切れそうで切れない状態が続いてる。これは誰が交換するんだろう。
私は読んでいた文庫本ににんじんの形をした栞を挟んで閉じた。中ごろにちいさなうさぎがしがみついているお気に入りのものだ。
昼休みに読んでから続きが気になっていて、バスの待ち時間にちょっとだけのつもりが、やってきたバスをスルーして読み続けてしまった。雨が降ってきたし、このまま最後までとも思ったけど、ちょっとお腹が減ってきた。
家庭科部で作って持って帰ってきたお弁当、食べようかな?
そんなことを思って脇に置いていた鞄に手を伸ばした時だ。
背の高い男の子が飛び込んできた。
驚いた。ひっくり返りそうになるのを堪えて、息も荒く短い髪を掻き上げるその人を見て更に驚いた。
ケ、ケンスケくんっ!?
じっと見ていたのに気付かれたのか、ちらりとこちらを見られて、私は思わず閉じた文庫本を広げて顔を隠した。
あわ、あわわわっ。
ダメよいけない落ち着いてっ。
ケンスケくんは私の事知らない筈。クラスメイトどころか同級生ですらないんだし。
工藤ケンスケくん。立正高校二年生、クラスは知らない。
それで私、西前ハルカ。同じく立正高校三年生、クラスは秘密。
年上なんだっ。
でもつい顔が熱くなっちゃって、ドキドキが止まらなくて、様子を伺わずにはいられない。
ケンスケくんは一度私を見てからすぐに興味をなくしたのか、自分と同じくらいズブ濡れなバッグをベンチの脇に置くと、ドカリと座り込んだ。
そんなに乱暴な動きでもないのに衝撃があったのは、彼が百九十センチを超える長身だからだ。
ケンスケくんはバスケットボール部の人。
クラブの中で一番大きくて、ゴールの下でジャンプしてる人。
そんな彼が今、私の隣に座っていた。
待合所のベンチは広くて、ケンスケくんも知らない人のすぐとなりに座ったりはしなかったから、距離は少しあるけど。
あっ、そうだ。
鞄の中をがさごそとやって、背もたれで大きく仰け反っていたケンスケくんを見る。えっと、その……。
「あの……」
「……ん?」
こ、声っ、初めて聞いたっ。
いや初めてというのは間違いだけど、普通に喋ってる声は始めてだっ。ちょっとかすれ気味の声だったっ。
ドキドキしながら、私はタオルを差し出した。家庭科部で使うつもりだったけど、結局仕舞ったままだったもの。新品ではないけど洗ってある未使用品。
「風邪、引くといけないから。拭いて」
戸惑っているのか、ケンスケくんは私とタオルを交互に見て、
「ありがとう」
受け取って、まずびしょ濡れだった顔を拭く。
それから髪をごしごしと乱暴にやって、あわわ、そんな乱暴にやると痛むよ? でも男の子だから大丈夫なのかな? わあっ、服の中拭いてるけど脇チラがっ。脇っ。やっぱり運動部だから筋肉はあるのねっ。
「あ、ごめん」
「え?」
「いや…………」
どうかしたのかな?
ケンスケくんは改めて髪をごしごしやると、私を見て言った。
「洗って返すから」
「だ、大丈夫。元々洗うつもりのものだったからっ」
「でも」
と、なにか言いかけたケンスケくんのお腹から、盛大に音がした。
「っ!」
いけないっ、お腹の音で笑うだなんて失礼っ。
けどあまり表情のないケンスケくんが気恥ずかしそうにしてるのを見て、ますますおかしく思えてきた。私は閉じた文庫本で顔を隠しながら、揺れる肩を感じてごめんなさいと謝った。
謝りついでに、ちょうど取り出そうと思っていた弁当箱を差し出してみる。
笑ったからか、ちょっとだけ気が大きくなっていた。
「食べて」
お弁当箱を見てケンスケくんがキョトンとする。
あ、まあそうだよね。知らない人からお弁当なんて貰っても困るだけか。んー、でも、ものすごいお腹の音だったし、運動部だからお腹へってるよね?
「家庭科部で作ったものだから、まだちょっとあったかいよ」
と、包みを開けて蓋を取る。
それを見てケンスケくんの目つきが変わった。
今日は鶏肉の竜田揚げに南蛮ダレを掛けたもの。普通より手間は掛かるけど、さくさく加減がとてもうまくいった。添え物にきゅうりとトマト、レタスに酸味のある和風ドレッシングを掛けてあって、脂っこさを緩和なのです。
家庭科部特性ブレンド米も、中々いい感じ。
ほぐした梅の身とシソを混ぜあわせてご飯の中央に添え、ごまを散らしてあります。
今日はお父さんもお母さんも遅いから、家で食べようと持ち帰ってきたんだけど。
「いいのっ?」
「はい」
もうケンスケくんは夢中だった。
そのことがとても嬉しくて、渡したお箸でがっつくように食べる姿を見て更に嬉しくなった。
ケンスケくんが私の作ったお弁当、食べてくれてるー。
と、その時、雨音に混じってバスの走る音が聞こえてきた。
ちょっと考える。雨ももう止んできたし、そろそろ帰らないといけない。元々寄り道みたいに本を読んでいたからなぁ。お母さんたちにご飯の用意もしておきたいし、となると次を待っていたら20分は遅くなる。
よしっ。
すぐ近くにまで迫ったバスを見て、私は立ち上がった。
ケンスケくんもバスの音に気付いたみたい。あ、そうだ、お弁当箱。
私がケンスケくんの手元を見ると、驚いたことに彼は弁当箱を庇うように隠した。それでつい笑ってしまう。私の作ったお弁当をそこまで気に入ってくれたのなら、奪い取ってまで回収したりはしないよ。
家にまだ幾つか入れ物はあるから、あげちゃってもいいかな。
「野菜もちゃんと、全部食べるんだよ」
笑いながら言って、私はバスに乗り込んだ。
雨の音が消えて後ろを見ると、閉まった扉の向こうで、お弁当を食べながらこちらに会釈するケンスケくんが居た。
なんだか、とても可愛い。
※ ※ ※
雨のあった次の日、俺は特別気合を入れて洗った弁当箱と、母親がにやにやしながら差し出してきたいい匂いのするタオルを持って、昨日の人を探しまわっていた。
朝練が終わってからホームルームまでの時間、休憩時間に昼休みと、全部使って校舎を歩きまわったけど、どうにも見付からなかった。
せめて名前……聞いとくんだった。
あんな親切にしてくれた人なのに、なし崩し的に弁当箱とタオルをパクったみたいになっているのが申し訳ない。と、六時間目の英語の授業中に、俺はある可能性を思い出した。
学年が違うんだ!
ずっと同級生だって決めつけて、そこばっかり探していた。
俺は頭の中で昨日見た女子の姿を思い浮かべ、
「とりあえず一年の所行ってみるか」
ハズレだった。
部活の後輩を捕まえて特徴から探してもらった子は全員違ったし、家庭科部ですらなかった。いやまて、ということは家庭科部へ行けばいいんじゃないか……?
そうは思ったものの、家庭科部と言えば女子ばっかりの部活なイメージだ。
入っていくには正直度胸が要る。同じく上級生の所というのも、特に先輩も大勢居るだけに顔を出しにくい。
いや、でもなぁ、なんて悩みながら家庭科部のある部活棟への連絡通路をうろちょろしていたら、まさしく昨日見た女子が友達らしい女子と一緒に歩いてきた。
「あのっ!」
思わず声を掛けて正面に立つ。
身長の高い俺は、大抵の場合相手を見下ろすから、普段は気持ち距離をとって話す。けど慌てていて、思わず近寄りすぎた。驚いたあの人が視線を泳がせながら一歩二歩と下がり、そわそわと隣の友人を見た。
余程驚かせてしまったのか、耳まで赤くなっている。
「あ、ごめん」
俺の方からも距離を取って、昨日借りたタオルと弁当箱の入った紙袋を差し出す。
「昨日はありがとうっ。弁当、すっごくおいしかった!」
「……あっ、は、はいっ。お粗末さまでしたっ」
よし!
朝から感じていた肩の重みが取れたような気がした。これで不義理なことをせずに済んだ。
「では失礼します!」
達成感を共に頭を下げて走る。
いつもはホームルームが終わってすぐに体育館へ向かうから、今日は結構遅れてる。余裕はあるだろうけど、自主練習する時間はないか。
あ、名前聞くの忘れてた。
失敗したなぁなんて考えながら、いやでもお礼もしたしお弁当箱もタオルも返したんだから別にいいよなぁ、と全うな意見も浮かんでくる。けど、
「ケ・ン・ス・ケぇぇええええっ!」
叫びは後ろから来た。
かと思えば両肩にがしっという感触があり、声は頭上を越えて正面に降り立った。
「タイチ、俺の身体は跳び箱じゃない」
背丈は百七十の少し上。背が低い訳でもないが、バスケット選手としては物足りない。入学当初よりマシになったとはいえ、身体つきは細く、厚みの無いタイプだ。
古い付き合いになる友人に向けて抗議をすると、お決まりの返事が投げ渡された。
「いいじゃんっ、お前の身体でっかくて飛び甲斐があるんだってば! というよりもお前、今のなんだよ!?」
「……どうかしたのか?」
「どうかじゃねえよっ、ハルカ先輩だよ!」
誰だ。
「はあ!? お前ハルカ先輩知らないで話してたの!?」
そう言われて、ようやく俺もさっきまで話していた女子の名前なんだと分かった。そうか、ハルカ先輩っていうのか。というか、先輩だったのか。
思わず振り返って今来た道を見る。けどもうそこにハルカ先輩は居なくて、ぽっかりと空白が出来ていた。
「いや待て、俺はこの耳でしっかりと聞いたぞ。お前がハルカ先輩の手作り弁当を貰ってたってのをさあ!?」
「名前は今初めて知ったんだ」
「……どういうことなんだってばよ?」
人に言われると、今更ながらおかしな関係に思えてきた。
「……まあ、昨日だな。練習が終わった後、近所のもみじ公園……あそこって高校のと同じ高さのゴールがあるだろ? あそこで練習をしてたんだ」
「あんだけ扱かれた後によくやるねぇ。つかまあ、俺も近所なんだから言ってくれたら付き合ったのに」
「シュート練習だ。球拾いでもしてくれるのか」
「あー……」
言った後、タイチの表情が曇った。
少しだけ後悔はしたが、タイチだけは中学からの付き合いだから、こういうことも話せる、と思う。
「やっぱりセンターやらされてるのは不満かぁ」
センターというのは、バスケットのポジションの一つで、ゴール下を守る守護神だ。高い位置にゴールのあるバスケでは、どうしたって身長のあるヤツが有利になる。ゴールに入らず、枠に弾かれ浮いたボールを取るリバウンドというものは試合の勝敗を分けると言われるほどで、それは当然身長のあるやつに有利だ。
ウチに百九十を超える選手は俺しか居ない。居ないから俺がセンターをやらされていて、もう一年になる。半年ほど前にあったある事がきっかけで、もう納得はしているけど。
それでも俺は、スリーポイントの練習を続けている、というだけだ。
「ま、中学じゃあシューターとしてやってきたんだもんなぁ。身長クソみたいに伸びてきたのも三年からだったし、そん時にはデカい二年も何人か居た。最近は様になってきたが、一年の時はずたぼろだったしな、お前」
「今だってシュート練習はやってる」
「スリーポイントシューターって形に拘る奴多いよなぁ」
それは自覚してる。試合中でも、中へ切り込めると思いつつスリーポイントを狙いたくなる。何度防がれたって、自分はスリーポイントシューターなんだから、このシュートで勝ってやるんだって気持ちになる。
何より、敵陣に切り込む点取り屋なら目の前に居るしな。
「まあ一年にそこそこデカい初心者も入ってきたし、順調に育てば三年でポジションチェンジもあるだろ――とまあ、その話は置いといてだ。続きは?」
言われ、昨日のことで一番に思い浮かぶのは、やっぱりあの集中豪雨だ。
「……昨日、大雨があっただろ」
「あぁ、風呂入ってる時にすげぇ音してたな」
「俺はその時、まだ公園に居たんだ」
うわぁ、とタイチがオーバーリアクション気味に仰け反った。こういうのが妙に似合っているのがタイチらしい。
「それで、なんとか後片付けをして逃げ込んだバス停に、その、例の先輩がいた」
ハルカ先輩、と呼んでしまうのが少し照れくさくて濁したのはタイチにもろバレしたらしい。にやけた顔が鬱陶しかったから睨みつけると、身軽なタイチはひょいと距離を取って開けっ放しだった窓枠に飛び乗った。
それが妙に腹立たしくて、俺は話を省略することにした。
「そこでタオルと弁当を貰ったんだ。じゃあ練習行くぞ」
タイチを置いて体育館へ向かう。
「おいおい肝心な所が分からないままじゃねえか。あの男嫌いで有名なハルカ先輩がどうしたって汗臭いお前にそんな親切な対応したんだよ?」
「男嫌い?」
だが、あまりにも意外な話を聞いて立ち止まった。
「何かの噂か? 全くそうは見えなかったぞ」
「俺も先輩から聞いた話だけどさ。なんでも一年の時、三年の先輩を全校生徒の前で引っ叩いたんだって」
※ ※ ※
ケンスケ君との一件を家庭科部の友達に見られたことで、今日の部活動は絶望的なものになった。
湧き上がる黄色い歓声とおちょくりの目線。駄目だ、女子高生にコレ系の話題は日が暮れても終わらない。
「そ、そう言えば、ケンスケ君って、タイチ君と仲が良かったんだよね……?」
そう思った私は、せめて矛先を変えるべく奥の手を使った。
「そうなの!」「タイチ君って、確かそのケンスケ君と小学校からの相棒? そんな感じの関係なんだって!」「私が聞いた話だと、家も近所だから頻繁に泊まりこんだりしてるみたい!」「きゃー不潔っ」嬉しそうなのはなんでだ。「まあケンスケ君も最近はかっこいいなぁって思うけど、やっぱり本命はタイチ君よね!」「バスケ部のエース!」「イケメン顔だよね!」「あー私も告白しちゃおっかなぁ」「ちょっと、こないだフラれた私へのあてつけ?」「違うってー。でも折角だから記念に好きですって言いたいじゃない!」
噴き出すように広がるタイチ君トーク。
そうなのです。タイチ君は一年の頃から女子の間で、ちょっとしたファンの集まりみたいなのが出来るほどの人気があるのです。
バスケット部の一年生にかっこいい子が居る、なんて話はマネージャーをしていたクラスメイトから聞いていたけど、彼に本格的な人気が出始めたのは大会が始まってから。
タイチ君は、中学時代からそれなりに有名な選手だったらしく、高校に入ってからもその活躍は物凄かったそうな。夏の大会では全国を逃したものの、地区大会での最優秀選手に選ばれるほどで、いつだってコートを縦横無尽に走り回ってはゴールを決めていたらしいのです。
私も一度だけ観に行ったことがあったけど、確かにタイチ君はコートの上で誰よりも輝いてた。あんなのを見せられたら、きゃーきゃー言いたくなる皆の気持ちも分かる。
ちょっと離れた位置で安全を確保した私は、ふと家庭科室の外が騒がしいことに気付いた。女の子が恋話で盛り上がってる室内でも聞こえるって結構凄い音だ。
気になって扉を開けようと近づいた所で、勢い良くそれが開いた。
「あ……トモちゃん」
「ハルカ……あぁ、いいから奥行って。アイツが来てる」
アイツ、と言われた瞬間、それだけで鳥肌が立った。そんな私を、トモちゃんはいつもどおりサバけた態度で頭を叩いて、奥へ引っ張っていってくれる。
タイチ君トークに夢中な皆の脇で、トモちゃんの出してくれた水を飲む。
「あー、ごめん」
「えっ?」
「いや……まあいいや」
言葉数の少ないトモちゃんの言いたいことは、たまによく分からないことがある。けど、この誤解を受けやすい私の親友は、とっても友達思いの人だから、私はいつでも好意的に受け止める。
「表、うろついてただけだから」
「うん」
「ちょっと怒鳴ったら逃げてった」
「うん」
「次見かけたら包丁で刺してやるって言っといたから、たぶん平気」
「それはトモちゃんが平気じゃないから止めてね?」
「あぁ」
「ありがと、トモちゃん」
「あぁ」
ふぅ、水を飲んだら落ち着いた。
でもそっか、また……なんだ。
ついたため息が聞こえたからか、ちょっと乱暴に頭をバンバンとされる。同じ三年生なのに、トモちゃんはたまにお姉さんっぽい。いや、正直に言うとちょっとだけお兄さんっぽい。ちょっとだけ。うん。
一年生の頃、気の弱い友達が居て、その子がしつこく先輩に言い寄られてた。
何度言っても聞いてくれなくて、まるでその子が自分の彼女であるように言いふらしたりして。それで、夏休みが始まる終業式の前日、家の前まで追いかけまわしたっていう話を聞いて私は本気で怒った。
クラスごとの並び順も守らず近くに居ようとしたその先輩を、皆の前で引っ叩いたんだ。
それは、後で先生にも怒られたけど、事情を話すとすぐに開放された。
遡行の悪かったらしい先輩は、夏休み中に悪いことをしたらしく、退学処分を受けて学校からも消えた。そこまでは何の問題もなかったと思う。けど、二年に上がった春、その人の後輩を名乗る男の子が私の前に現れた。
話したのは最初だけで、後はずっとストーカーまがいのことを繰り返された。相手は見ているだけで、学校外では近づいてこない。実害はなにもない。見られている以外は。だから先生に相談しても取り合ってくれなくて、そんな私を見かねたトモちゃんがボディーガードみたいなことをしてくれている。
一度本格的に相手と殴り合いになったこともあるから、怪我をするようなことは絶対にしないでと頼み込んでるけど。
私とトモちゃんが特に仲がいいこと。
近づく男をトモちゃんが追い払っていて、私自身がそれを咎めていなかったこと。
端から見ていると、私がけしかけているようにも見えたらしく、いつの間にか男嫌いなんて噂も立っちゃった。休憩時間でも本を読んでることの多い私は、友達と呼べる人もそう多くない。家庭科部を出れば口数の少ない、こけしみたいな存在だと自分では思ってる。
その結果、男の子からはやや距離を置かれていて、あまり話すことがない。けど、それは仕方ないと思ってる。
友達が危ない目にあって、なのに自分じゃ何も出来ず頼りきってる私に、恋をする資格なんてないのに。
あぁでも。
鞄の中には、ケンスケ君から手渡されたお弁当箱とタオルがある。
それを思うと、少しだけ胸が熱くなった。
※ ※ ※
「で、どうなんだよ?」
部活の休憩時間に水道で水を被っていたら、またタイチが寄ってきた。
頭に押さえつけるようにして濡れた髪を絞ると、首元に幾つもの水の筋が流れて、その半分くらいがシャツへ吸い込まれていった。元々汗まみれだから気にしないけど、後で濡らして絞ろうかくらいは思う。
置いてあったタオルを手探りで掴み、顔を拭う。
「なにがだ」
水を飲みに来たらしいタイチは、水場の脇にある給水器のペダルを踏みつつこっちを向いた。
「ハルカ先輩だよ」
またその話題か。
「男嫌いなんだろ。どうもこうもない」
「いやでも脈ありっぽいじゃん。普通無理ですって相手に手作り弁当食わせたりしないって。勘違いされんじゃん」
「今まさにお前が勘違いしてるからな」
「そうじゃなくてさっ」
別にタイチも俺も噂を鵜呑みにはしない。
入学当初からタイチもそれなりに有名で、あらぬ噂を広められたこともある。こいつはこういう性格だから、変なことを言ってる奴を見つけたら抗議の一つもするし、面白い噂は話のタネにもする。
ただ、噂は噂だとしても、弁当一つで好意を感じるには無理がある。それは、あの時のなんともいえない、あたたかな空気を感じていない人間には理解出来ないだろう。あんな状況だと、俺でもつい人助けをしたくなる。
ハルカ先輩は良い人で、びしょ濡れだった俺を気づかってくれた。
それだけでいい。
「……なんかお前隠してんだろ」
「なにも」
「あんな美人の先輩、チャンスがあるなら絶対お近付きになろうとするって。俺だったらそうするね。お前の話聞いてると、見知らぬ野郎相手でも親切にしてくれる人みたいだし。仮に噂通りの男嫌いでも、たまに優しくされちゃうともうそれだけで十分ですって気持ちになるねぇ。記念告白みたいなことはよくされるけど、ハルカ先輩だったら冗談で言われたってオーケーしちゃうよ?」
「随分こだわるんだな」
「つーかメチャクチャ好みなんですぅっ。いいよねぇ、包容力のありそうな年上のお姉さん。あぁ手ほどきされたいっ!」
軽口はいつものことだけど、タイチなりに本音で話しているのは分かった。
だからか、言うつもりのなかったことまで俺は口走ってしまう。
「なら良かったじゃないか」
「ん?」
思い返す。
俺にとっては忘れられないあの日の事。
「一年の秋大、先輩はお前を見に来てた。キャーキャーやかましい連中に混じってたから、たぶんお前のファンだよ」
ハルカ先輩に好きな人が居るとしたら、あの時誰よりもコートの中で輝いていた、この点取り屋の親友だ。
何も出来ずぼこぼこにやられていた俺じゃない。
※ ※ ※
私が初めてバスケットの試合を観に行ったのは、二年生の秋ごろだ。
ちょうど、ストーカーまがいのことをされ始めて、気持ちが参っていた私を見かねた友達が、気分転換にと誘ってくれた。
別に本気で付き合いたいなんて思ってない。皆でかっこいい男の子にキャーキャー言ってるのが楽しいし、見てると応援だってしたくなる。
そんなことを言って誤魔化していた友達の目は、恋をしているのが分かった。
元々あまり人の頼みを断らない私は、日曜日のお昼過ぎに、その友達に連れられて市の大きな球場へ行った。
試合はずっと、ウチの高校が劣勢だった。
聞いた話だと、相手は全国経験もある強豪校で、ここで負ければウチは決勝リーグにも行けないまま敗退してしまうんだとか。
じわじわと点差が開いていって、うったシュートが外れてしまう度、誰もが小さなため息をついた。それでもタイチ君だけが大きな声でチームメイトに呼びかけ、笑って、何度やられても相手コートへ駆け込んでいった。
それでも追いつけない。
私も見ていて、何度も得点表とコートとを往復した。タイチ君の事が大好きな友達は途中で泣き出してきて、その小さな嗚咽をかき消すように皆が応援していた。
もし、
もし、この試合で奇跡が起きるのなら、それを起こせるのは彼しか居ない。
そういう気持ちは観客席に居て私も感じていた。
この状況で声を張り上げ、笑顔を振りまいている彼を見ていると、まだ追いつけるんじゃないかって気持ちが湧いてくる。
そして残り時間が数分となった時、それは起こった。
相手チームのパスを奪ったタイチ君が、単独で三人もの相手を抜いてボールをゴールへ叩きつけた。続く相手の攻撃を、抜かれた味方の影から飛び出したタイチ君がボールを奪い、またしてもシュートを決めて、それに相手の反則が絡んだとかで、誰にも邪魔されずシュートをしていた。
十の点差が、あっという間に五になった。
時計を見た。点差を見た。そしてコートを見た時、きっと誰もが同じことを思った。
逆転出来る。
彼なら、タイチ君なら、それが出来るんだと、皆が思っていた。
力強い歓声に囲まれながら、けど、私はずっと別の人を見ていた。
暗い表情で、歯を食いしばって戦い続けていた、長身の男の子。
今でも覚えてる。
彼の名前は――、
※ ※ ※
一年の頃、慣れないポジションでの試合にずっとストレスを感じてた。
俺はスリーポイントシューターだ。敵が必死になって守りを固めている外からシュートを放ち、得点を決める選手。どうすることも出来ないボールをただ見上げている相手の顔はどこか滑稽で、綺麗に決まった時はやってやったという気持ちになる。
毎日何百とシュートをうって、身体に感覚を染みこませる。
それは大変ではあっても、嫌だと感じたことはない。試合での爽快感を思えばむしろ楽しくなる。
だけど、タイチと相談して通うことにした高校で、俺は以前のポジションを無視してセンターをやらされた。
正直に言えば部を辞めようと思ったことさえある。
ずっとやってきたポジションを、誇りを持って続けてきたシュート練習を、ただ背が高いという理由だけで無駄にされたような感覚。監督への信頼はまるで持てず、言うこと全てに不審がついて回った。
ただ、その配置が間違いなく正しいものだということも、一応は分かってた。
百九十も高さがあれば、地方レベルじゃまず負けない。軽く飛んで腕を伸ばせば、相手センターよりもずっと高い位置でボールを確保出来る。ボールを掲げれば相手は届かないし、パスも楽だ。
けどそれも、地方レベルを抜ければ高さの揃ったチームとぶつかる事が増えてくる。
三年の先輩たちが引退し、レギュラー入りした秋大での一戦。
全員が百八十五を超える強豪校との試合で、俺はぼろぼろにやられた。身長はそう変わらない。力負けをしているとも思えなかった。それでもリバウンドのほとんどは相手に取られ、決めに行ったシュートは呆気無く防がれる。相手のシュートを止めるのも難しかった。
競り合った相手センターの学年までは分からなかったけど、はっきりしていたのはセンターとしての経験の差だ。
当然だった。
ずっとセンターをやっていた、強豪校のレギュラー相手に、昨日今日始めたばかりの俺が勝てるほどバスケは簡単じゃない。状況に応じたポジション取りは今までとまるで違う。
外でスリーポイントを狙うのは距離を測りながらの殴り合いで、内でのそれは掴み合いの喧嘩に近い。ずっとシビアで、ずっと相手が近い。前だけじゃなく、後ろも、右も左も、ちゃんと把握していないと思わぬ位置から手が伸びてくる。
外での難しさと、内での難しさは別種のものだ。
それをようやく自覚出来た時、試合はもう終盤に差し掛かっていた。
なによりも悔しかったのは、シューターとしての俺なら、そのセンターを越えられる自信があったことだ。
相手センターは確かに強い。動きも俊敏で、力負けはしていないのに押し込まれる。ギリギリの競り合いではまず勝てないんだとここまでのプレーで分かった。
けど、それは掴み合いの状況だからだ。
距離を取って場を広く使えるのなら、こんな相手に負けたりはしない。
出場している味方選手にスリーポイントのある人は居ない。だから相手もゴール下に密集して、切り込むタイチの使えるスペースが足りてない。
ここで俺が外からの攻撃を加えれば、相手は守備を広げるしかなくなるんだ。そうなれば活路が見える。なのに、俺はずっとゴール下で勝てもしない競り合いを続けていた。
絶好のポジションから押し出され、リングに弾かれたボールをまた奪われる。
その時、会場あちこちから大きなため息が聞こえてきた。
それを打ち消すように声を張り上げ、笑顔を振りまくタイチを見ると、どうしようもなく自分が不甲斐なかった。
分かってる。
このどう見ても劣勢な状況を押しとどめてるのはタイチだ。コイツが一人で得点を重ねているおかげで、未だに俺たちは相手を射程内に収めてる。精神的にも支えられてる自覚はある。
今負けている決定的な理由、それはリバウンド力の不足だ。
どんな選手でも五本もシュートを放れば一本か二本は外す。バスケは得点後、得点された側のボールで試合が始まる。その上サッカーなんかと違って相手からボールを奪うのが難しい。ファールの取り方もシビアだから、見た目以上にスマートな奪い方が必要になってくるんだ。
そして試合中、攻撃側からボールを奪う機会が最も多いのは、このリバウンドであると言われてる。
俺が……、
センターの俺が取らなくちゃいけないんだ。
俺がリバウンドを取れるようになれば、試合は大きく動くかもしれない。
けれどタイチのシュートが弾かれた瞬間、会場は一気に力が抜ける。ベンチも、誰も俺のリバウンドに期待していない。
変えられるのはタイチだ。敵ですらそう思っているのが分かった。
俺はここに居るのに。
不満はある。不足もある。
けれどどうにかしようと必死で足掻いていて、なのに誰からも期待されず、競り合う相手もタイチばかりをみていた。その上でさえ負け続けてる自分の惨めさに、何もかもを投げ出したくなる気持ちが次々湧いてきた。
タイチ。
タイチ。
タイチ。
聞こえる声はみんなそう言ってる。
俺なのに。
この負けの原因は俺なんだ。
点差は詰まっていた。
あと少し。この攻撃が決まれば勝利が見える。
だけどそんな希望をあざ笑うかのように、リングがボールを弾いた。二年の先輩が放ったゴール下からのシュートだ。
タイチではなかったから?
タイチなら入っていた?
浮いたボールを見て思う。
これを取れば、きっと勝てる。
そうしたいという気持ちはずっとあった。
なのに心はちっとも熱くならなくて、燻ったまま消えようとしている。
嫌だ。それだけは嫌なのに……!
そんな時、声が聞こえた。
※ ※ ※
ずっと、苦しんでる人がいた。
誰もがコート上で輝く一年生を追いかけていた時、私が見ていたのはとても身長の高い人だ。その人は何度も何度もボールを奪われながら、それでも一度だって手を抜かずに跳んでいた。
ある先輩は、自分がパスをもらうとすぐタイチ君にまわしていた。
パスを貰ったタイチ君は一人で相手に切り込んでいって、得点できる場合が多いけど、やっぱり奪われることもある。
なぜか、いつの間にかタイチ君の周りには敵しかいなかった。
助けに回っている人たちもどこか緩慢で、勝ちを諦めている訳でもないのに、不思議と熱を感じなかった。
手を抜いている訳でも無かったと思う。
本人たちも一生懸命で、でもなぜか苦しんではいなかった。
苦しむのは、辛い状況だから。
辛いと思うのは、どうにもできなくて、それでもどうにかしようと思っているからだ。自分で何かをしようとしないなら、それはただ疲れているだけ。
でも、みんなそういうものだ。
私もきっと、苦しむより疲れることの方が多い。
だから、苦しみ続けている彼が、とても強い人に思えた。
外れたシュートが宙に浮く。
皆の気持ちがタイチ君へ向いたのが分かった。
誰もが目を向けず、期待もされていない中、彼の目は必死にボールを追いかけていた。
気が付けば、身を乗り出して大きく口を開けていた。
秋先の冷たい空気が喉元を通り、肺に満たされる。
出てきた声には、驚くほどの熱が宿っていて、
「頑張れ!」
※ ※ ※
その声を聞いた時、自分の中で燻っていた熱が一瞬で燃え上がるのを感じた。
力は貯めていた。位置取りはやや前に押されている。けど、
「ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオ!」
跳んだ。
浮かび上がったボールへ向けて右腕を伸ばす。後ろから相手センターの手が伸びてくるが、それが妙に低く感じられた。
高めに弾かれたボールに手が届く。
夢中だった。この、持て余すほどの熱を何かにぶつけたくて、掴んだボールをそのままゴールへ叩きつけた。
歓声が湧き上がる。
押し潰すような声の波は、ついさっきまで聞こえていた誰かの声を瞬く間に飲み込んでしまった。
それでも声の主を探したくて見回していると、ふと、観客席から走り去っていく女生徒の姿が見えた。根拠もなく、彼女なんだと確信した。
ただその人が居たすぐ近くには、タイチファンの集団があって、小さな落胆と共に苦笑いをした。
※ ※ ※
その音は、私の中にあったいろんなモヤモヤをあっという間に吹き飛ばしてしまった。半年以上経って、ケンスケ君は二年に、私が三年になった今も、あの時の力強い音と叫びは消えないでいる。
家庭科部の活動が終わった後、いつも通りのバス停でバスを待っていたら、不意にそんなことを思い出した。
「わー! わー! わーわー!」
頬どころか耳まで熱くなって、一生懸命手にしていた文庫本で仰ぐ。
というか、今日も結構乗り過ごした。
それもこれもこの本のせいだ。甘ったるい恋愛もので、男女揃って四六時中好いたの惚れたの情熱的過ぎた。おかげでこっちまでアテられてきちゃっただけだ。
「はぁ……」
だから、ここでこうしてると、またケンスケ君が来るんじゃないかな、なんて考え始めてるのも、この本のせいだ。
でもそろそろ帰らないといけない。
そんなことを思っていたら、調度良くバスの音が聞こえてきた。
※ ※ ※
公園でいつも通りのシュート練習を終わらせた後、なんとなく、本当になんとなくあのバス停を目指して歩いた。
いや、まあ帰り道だし。ちょっと遠回りになるけどダウン代わりになるし。そうそう、これはトレーニングの一つだし。
公園を抜けてバス停が見えた時、ちょうど止まっていたバスが発進した。
バスは俺の居る位置から反対側に走って行って、おかげでハルカ先輩が乗っていたかも確認できなかった。いやまて、別に確認とか考えてないし。
けど不思議とバス停への興味が薄れて、手前の道へ入っていこうかと道路の左右を見回していた時だ。
「っ、また雨かよ!?」
あっという間に土砂降りになって、思わず屋根のあるバス停へ駆け込んだ。
昨日ほどひどくはないけど、濡れた髪を掻きあげて鞄を放る。
「ぁ……」
小さな声に視線を向けると、昨日と全く同じ位置で本を手にしたハルカ先輩が居て、
「あ、どもっす」
雨音が少しだけ遠くなった。
「あ、あ、はい。あっ……ええと……………これ!」
やや挙動不審になりながらも差し出してきたのは、今日俺が返したばかりのタオルだった。しばしの押し問答の結果、またタオルを借りることになった俺は、またしても盛大に鳴った腹の虫を心の底から恨んだ。
ころころと笑うハルカ先輩に、俺は頭を拭くフリをしながら頬の熱さを隠す。状況もそうだけど、どうにも俺は、この人の声を聞くと落ち着かなくなるらしい。
「食べて」
差し出された弁当箱を拒否することは出来なかった。
ハルカ先輩の弁当は正直言って、めちゃくちゃ美味いんだ。
※ ※ ※
勢い良くお弁当を平らげていくケンスケ君を横目で見ながら、一つだけ待ってみて良かったなぁ、なんて思う。
ちょっと落ち着かなくて本を読むフリをしながら見ているんだけど、見た目通りに豪快だ。私のお弁当箱が物凄く小さく見える。
「ごちそうさまです! ありがとうございました!」
声を聞くと、また鼓動が早くなる。
「はい。お粗末さまです」
また幾つかの問答の末、タオルとお弁当箱はケンスケ君が持ち帰ることになった。その事に少しだけ、喜んでる自分も居る。
雨の勢いは弱くなったけど、まだ止む気配はない。
バスは行ったばかりだから、まだ来るまでに時間はある。
言い訳の続く時間まで、私たちは昨日より少し、長いお喋りをした。