オーバーフロー 2
コツ、コツ、とゆっくり二回。ノックして手を退くよりも早く、部屋の扉が開けられた。
「のんちゃんは? ちゃんと家まで送り届けた?」
綾華のそれに、無言で二、三度首を横に振る。彼女は芳音を中へと促しながら、少しためらいがちな口調で次の問いを口にした。
「まだのんちゃんパパと会うのがイヤなの?」
「……ツラ出す気はなかったけど、マンションまでは送るつもりでいたんだ。でも、のんがホタに俺を会わせたくない、って」
「……そっか。のんちゃんも、まだ大人の事情ってのが割り切れないのね」
綾華の言う“大人の事情”というフレーズに、一瞬眉をひそめてしまう。悪意がないのも心配で言っていることも解っているけれど、大人の都合のいい言い訳にしか聞こえないそのフレーズは、今でも不愉快で耳障りだった。
綾華と視線を合わせないまま、手前のベッドに腰を落とす。そんな芳音を見つめる綾華の気配を感じながら、トレッキングシューズの紐を解くのに専念した。目の前に室内用のスリッパが滑り込み、それと芳音の間を阻むように薄い琥珀色のグラスが差し出された。
「梅酒のソーダ割。寝酒に飲んだら少しは楽よ」
綾華は残りの梅酒をロックで口に含みながらそう言い、芳音がそれを受け取ると、どさりと隣へ腰を落とした。
「Aquaのみんなも、両手の指じゃ足りないくらい、今回の私たちみたいな思いをさせられて来てるんだって。でも、マネと、あとは縁だから諦めるな、って。北城ひとりでどうこう出来るもんじゃないから、上の人が見に来るチャンスを待てってさ。あの人たちも、それでデビュー出来たんだって。頑張れって言ってくれて」
そんな話を聞きながら、靴をそろえてクローゼットにしまう。両手が塞がり、行儀悪くグラスを噛む。それを支える唇がかすかに震えた。
「だからこっちの方は大丈夫。歌えなかったっていうことよりも、あんなやつに頭を下げなきゃいけない今の自分が悔しいって感じ」
綾華が一気にそちらの報告を吐き出すと、ふぅ、と大きな溜息をついた。
「で、そっちは? てっきりのんちゃんと一緒の内に電話をくれると思ってた」
なんかよくない方に何かがあったんでしょう、と問われて答えに詰まった。
「ねえ、ちょっと。まさか、せっかく会えたのに喧嘩別れして来たとか?」
「そんなこと、ないよ」
呟くような小さな声でひと言答え、クローゼットの扉を鈍い動きで閉ざした。そのまま綾華の方へ振り返る度胸がなかった。
「のんちゃんは、北城の餌食になる前に連れ出せたんでしょう? 妻子持ちって知らなかったとか? でも、それはあいつのセオリーに反するみたいだから、あり得ない気もするんだけど」
「……」
「彼女、もしかして本気だったとか?」
「……ってた」
ゴッ、と鈍い音がカーペット敷きの床に響き、芳音の足許に梅酒がいびつな染みの輪を作った。
「え?」
扉に触れたままだった芳音の両手が、だらりと下へ落ちていった。
「のん、あいつから金をもらってた」
「……まさか……」
「金もらって、そういうことしてて、その上あいつの隙をついて、財布からも金を取ってた」
口にした途端、鮮明に蘇る。普通ならあり得ない至近距離で肩を並べて歩く後ろ姿。同じソープの匂い。北城が望の耳許に唇を寄せて吐き出した言葉。
『合算で二百万も財布から失敬してるんだから、そろそろその対価もペイしてもらわないとね。安西穂高……君のお父さんとの橋渡しをして欲しいんだけど』
望が聞いていなかったと判って戦法を変えたものの、彼の目論見はすぐに判った。最近きな臭い噂が流れている“渡部のお家騒動”関連の情報を引き抜くために、穂高と直接交渉をするつもりだと直感的にそう思った。望の窃盗の事実を交渉のだしにして。
「……俺、遅かったんだ……」
呟く声が、口惜しさに震える。そんな芳音を嘲笑うように、空になったグラスがコロコロと転がった。
「いっつも」
目障りなグラスを乱暴に掴んで振り上げる。
「最後の最後でっ」
思い切り床に叩きつけたグラスが、ガシャンとくぐもった悲鳴を上げて砕け散った。
「下手ばっか打つんだ、なんでだよっ!」
砕け散って用も成せない無様なゴミ屑に変わったくせに、まだグラスがキラリとせせら笑う。
「なんで俺はいっつも、いっつも!」
目の前から全部消し去りたくて、ガラスの破片を拳で叩き潰した。
「芳音っ」
綾華が、またしくじった自分を咎めるような、鋭く尖った声で名前を呼んだ。
「どうして辰巳みたいに完璧に出来ないんだっ」
振り上げた拳を伝って、生温かくて気持ち悪い感触がくるぶしからシャツと腕の間に忍び込む。
「やめなさいってばっ」
ガラスだらけの床に打ち込んだ両の拳が綾華に押さえ込まれた瞬間、裂けるような激しい痛みが芳音の手から抗う力を奪い取った。
「なんでいっつも肝心な時に邪魔な存在にしかなれないんだよっ」
振り上げられない拳の代わりに、頭を床に打ちつける。
「芳音っ、いい加減に」
綾華の制する声が途中で途切れた。芳音の額を彼女の手が庇っていた。彼女が上から覆い被さり、それ以上動くことを許さない。自由が利くたったひとつの部位になってしまった芳音の口から、溜め込んで来たモノが溢れ出た。
「もっと早く母さんって言い戻せばよかったのに! もっと早く圭吾にホントのことを言っておけばよかったのに! もっと早くのんに会いに行けばよかったのに! もっと早く……辰巳の、言葉……聞いておけば……もっと早く……会えたかも……守れてたかも……知れない、のに……っ」
「かのん……」
床にひれ伏して嗚咽を漏らす自分が情けなくて、消えてしまいたくなった。ガラスの破片が刺さりまくった両手よりも、もっと痛い場所がある。
「……のん……ごめん……約束、破ってばっかで……守るって、言ったのに……」
どんな時でも、どんなことでも、望は必ず約束を守ってくれたのに。自分は“守る”という約束を果たせていなかった。こんなあとになってから突き出されて来た現実を、全部壊してしまいたかった。
粉末タイプの消毒剤で真っ黄色に染まった自分の両手を、真っ白な頭でぼんやりと見つめる。綾華はとても小さなピンセットを使って、芳音の手から小さなガラスの破片を器用な手つきで丁寧にひとつずつ取り除いていた。それが終わると、コンビニ袋から真新しい包帯を取り出し、大袈裟なほど分厚く右手に巻く。
「包帯なんか、要らないよ。もう落ち着いたから、こんなこと、しないし」
「うるさい、黙れ」
「……はい」
俯いて傷ついた両手に視線を集中させる綾華の顔は見えない。ゆるいウェイブの髪が、彼女の表情を隠していた。
「ソーイングセットを持ち歩いてるなんて、今どき珍しいね」
居心地の悪い沈黙に耐えられなくて、ベッドに放り出されたピンセットが目についた途端、それに縋る思いで口にした。
「針と糸でその口も縫ってやろうか」
「……ごめんなさい」
気まずい空気は、自分が綾華にしでかしたことに対する罰だ。芳音は自分にそう言い聞かせ、甘んじて受けることにした。
「あんたは、いっつも、そう」
綾華が芳音の左手を取りながら、ぽつりと小さく呟いた。
「溜めて、溜めて、溜めて溜めて、ある日突然爆発する。すぐ自分のせいみたいな言い方をして、それってある意味、逃げだよ」
きつく巻かれた包帯が、痛い。だけどそうは言えない雰囲気だった。
「自分の存在のせいって結論に落ち着かせちゃって、そうすることで足掻いたり考えたり悩んだり、自分で決めて行動することから、いっつも逃げている。いざとなったら、自分が消えることでまとめて帳消しにしちゃえばいいや、って」
克美ママが辰巳さんを忘れられないから。北木さんがはっきりしてくれないから。辰巳さんが自分たちを置いて逝ってしまったから。のんちゃんパパがのんちゃんを連れて帰っちゃったから。圭吾があまりにもスカウトに浮かれていたから。
「そうやって、いつも遠回しに誰かのせいにしてるって自覚、芳音には全然ないでしょう」
きゅ、ときつく締められた包帯が、芳音の傷口に刺すような痛みを走らせた。
「……ッ」
「世の中、そんなに甘くなんかないんだよ。まだ学生の私でも解る。シューカツで感じたこの程度でも、まだ生ぬるい方だと感じてる」
そう警告しながら覗き込んで来た綾華のまなざしは、言葉のきつさと裏腹に柔らかかった。
「あんたが自分の手でどうにかしてやりたいんだって気持ちは解らないでもないけどね。これは、あんたのキャパを超えてるよ。もし北城の奥さんが相手を特定したら、何かして来たらどう対応するつもり? もし北城がマスコミにネタを売ったらどうするの? あんたや私みたいな、まだ親のスネをかじっているような半人前がどうにか出来ると、本気でそう思う?」
返す反論が見つからなかった。綾華の目から自分のそれを逸らすと、視界に入ったドレッサーの鏡の向こうで、口惜しげに唇を噛んで白ませている無様な自分と目が合った。
「出来ることをやりなさい。逆に、出来もしないことに拘って、自分で自分を貶めるのもいい加減にやめなよ。明日、私からお姉ちゃんに説明しておくから駅まで迎えに来てもらって、あとはお姉ちゃんに従うこと。朝一番で帰りなさい」
自分を痛めつけることはやめることと、普通の病院に受診出来ない自分の立場を忘れないこと。そのふたつを約束させられた。
翌朝、綾華にあとを預けて朝一番の特急に乗った。電車に揺られながら散々考えた末、ようやく圭吾に送ったメールは
『土産話とライブの音源、楽しみに待っておく。帰ったら連絡よろしく』
という、いつもどおりの文面にしかならなかった。ほどなく送られてきた返信には、
『駅まで荷物を運びに来やがれ! 車必須だぜ!(笑)』
という相変わらずな言葉が綴られていた。そこに添えられていたのは、昨夜の泥酔を欠片ほども残さないメンバー全員の笑顔の写真。自慢の口ひげを彼らのイタズラで剃られてしまった様子のリクだけが、半分泣きそうな顔で皆から羽交い絞めにされて映っていた。
『リクの童顔、笑えるだろ!』
写真にデコレートされた派手な色のポップな文字までが、彼らのキャラクターに似合わないほど可愛過ぎた。
自然と口角が上がっていく。ディスプレイの文字と彼らがぼやけて来る。
「……くっ」
声を殺して笑ったら、変な声が飛び出した。
「リクさん、カワイソウ」
数少ない乗客の仮眠を邪魔しないよう、口を押さえてそっと笑う。苦しい笑い方のせいで、目尻から涙が零れ出た。
「さんきゅう、圭吾」
まだ、笑える。そう思えただけで、少し気が楽になった。
松本駅のホームに降り立つと、既に愛華が仁王立ちをして待っていた。
「このバカっ、ガキんちょの癖に粋がって」
「あでっ」
出会い頭にげんこつを食らった。自分より頭ひとつ分以上小さい愛華だが、そんなものを忘れさせるほどの大人としての貫禄が、それ以降芳音に言い訳も反論も許さなかった。
「藪じいにアポ取っておいた。この足ですぐ行くわよ」
「え、なんで」
「克美ママには明後日帰るって言ってあるでしょ。なんて説明する気だったの?」
「あ……」
「それに、藪じいは渡部薬品と薬の取引をしてる。のんちゃんパパに伝える人としては、一番自然な相手でしょ」
「え……でも」
「のんちゃんが嫌がる、って言いたいんでしょ。ふざけるな、っていうの。やらかしたことの重大さも解ってない子供のわがままなんか聞いてる場合じゃないのよ」
咬みつく勢いでそう吐き捨てた愛華は、芳音の手から奪うようにバックパックを奪い取った。
「あ、いいよ。女の人に持たせるとか」
「ばっかじゃないの。モノ質よ」
「モノ質……そんな言葉、ない……」
芳音のささやか且つ精一杯の抵抗は、無人のホームにカツカツと響く愛華の靴音で消され、彼女に完全無視された。
時間稼ぎのつもりはなかった。だが、歩む足取りが重くなる。
言葉にならないいろんな感情が、汚いマーブル模様になっている。
北城。その名前を思い浮かべるだけで、腹の底がひやりとした。火の間近にいるような火照りが、手足や顔にじとりとした汗を滲ませる。
「芳音っ、さっさとしなさいっ」
階段の踊り場からそう呼びかけられた瞬間、自分が立ち止まっていたことに気がついた。
「……ごめん」
頭を一度だけぶるんと振る。ネガティブを振り払う。
“あなたはあなた”
自分が何者なのかを、望の声が思い出させてくれる。同時に思い出したくないものも。
“それとも、お金をもらえば簡単にそういうことが出来ちゃうお姉さんは、もう要らないってことかしら”
援助交際だからとか、加害者だったからとか。そういう意味ではなくて。
翠と対なすように真っ白で綺麗だったはずの天使が、穢された。その現実が赦せなかった。
愛華の運転で市街を抜け、温泉街の山道を上っていく。芳音はいつもの癖で、藪診療所手前のうねった坂が続く一角にある寂れた小さな公園へ視線を投げた。
「新しく植えられた桜、いっちょ前に満開じゃん」
車窓についた肘を除けて窓を開ければ、心地よい風が通り抜けていく。
「ホントだ。ちゃんと花をつけられるくらいになったのね。ちっちゃくても、若い木でも、しっかり根を張っていれば花開く、って証拠ね」
そんな愛華の言葉が一瞬説教に聞こえた。だが、どうやら違うらしい。
「実はね、私、初恋の男の子に告白したのが、前にあそこにあった、あの桜の下だったのよね」
実らなかったその恋は、愛華に桜へ八つ当たりさせたらしい。
「桜なんかもう見たくもない、ってあの樹を散々ぶっ叩いて、泣いて、カッターの刃を立てて。そしたら枯れちゃったでしょう。あの頃、私のせいじゃないかって思って親にも藪じいにも言えなくて」
匿名で寄贈された新たな若木が植えられているのを見た時、ほっとした気持ちと憂鬱な思いが同居していた、と愛華は笑って言った。
「あの苦々しい思い出が形になって残り続けるのか、ってね。でもさ、なんか今、私、あの桜を見てすごくほっとしてる。苦い思い出も糧に出来れば、懐かしい気持ちで笑って思い出せる日が来るものなのね。……大丈夫よ、きっと」
愛華は何に対してとは言わなかったけれど。
「……ん。さんきゅ」
芳音は小さくこくりと頷いた。